武戴(うーだい)①
翌日の夜、虎梁は王より呼び出しを受けて燕朝へと向かっていた。
王から呼び出されるのは珍しいことではない。その大半が、体が鈍ったからと手合わせに付き合わされるか、一人で飲む酒はつまらないと言って、酒の席に付き合わされるかだ。今回は武道大会の労いとのことだから後者だろう。
内朝から路門を通って王の元へ向かっている途中で、対面から殷石とその麾下がやってくるのが見えた。
嫌な人物に会ってしまった、と虎梁は内心で眉を顰めた。
「これはこれは、左将軍殿ではないか」
虎梁の存在に気付いた殷石が想定していた通りの、こちらを見下したような顔で声を掛けてきた。左軍将軍と右軍将軍で立場は同じであるものの、年長者である殷石に虎梁は礼の形をとった。
「これから主上のところへ参られるか」
「その通りで」
短く答える虎梁に殷石は「やれやれ」と大仰に首を振って見せる。
「これから主上はお気に入りとお遊びの時間か。少なくとも一刻はお声がけしても出てきてくださらないのう」
殷石の言葉に、取り巻きたちが下卑た笑い声を立てた。
一刻は、という言葉に暗に秘められた意味が閨を示すことを虎梁は知っている。王に頻繁に呼び出されている虎梁に対して、少なからずそう言った趣旨の揶揄が城内で向けられていることくらい知っている。
そしてそれが事実ではないことは誰よりも虎梁自身が知っているが、そういった類の揶揄にむきになって否定をすると益々増長するのも分かっているため、虎梁は何も言わず黙って礼の形を保つ。
「主上もお気に入りの玩具で遊ばず、そろそろ本気で後宮を開いてくだされば良いものを……。玩具が手元にあるうちは無理かの」
言葉の端々から虎梁への嘲りが伝わってくる。ここで反応すれば相手を喜ばせるだけだと分かっているので拱手の拳を握りしめ、身の中に沸き起こる激情を堪える。
「ならばその玩具は早々に取り上げた方が主上のためであろうな」
ふと、声音に不穏な色を感じて虎梁は顔を上げた。ニヤニヤと含みのある笑みを浮かべた殷石が目に入る。いつもならとにかく虎梁を侮辱しようと躍起になっているこの男が、どこか余裕さえ伺える様に違和感を覚えた。
殷石はずいと虎梁の間近に顔を寄せてにやりと笑う。
「いつその地位を下りてもいいように、身辺を整えておいた方が良いぞ」
低くそう言うと、高らかに笑い声をあげてその場から離れて行った。
去っていく後姿を見ながら虎梁は眉を顰めた。いつもと違う様子に違和感を覚えているものの、あの余裕の理由が分からず困惑していた。同時にどこかひやりとした気分になった。己の出自とこの場にいる理由。飛以外にこの国で誰も知るはずのない真実を、もしや感づかれたのでは、と。今、燕朝から戻ってきたのも、王にそれを進言したからではないか、と。
そんなはずがないと思いながらも一抹の不安を抱えて、虎梁はまた燕朝へと足を向けた。
路門を抜け外殿から内殿に抜けると、顔見知りになった正寝の入口の門番が軽く会釈をしてくる。
「主上は露台にいらっしゃるそうで、勝手に入ってくるようにとのことでございます」
その言葉に虎梁は苦笑する。
本来であれば正寝へは限られた人間しか出入りできず、それ以外の人間は出入りに際して厳しい改めがあるものだが、頻繁に王に呼び出される虎梁は既に無条件で出入りできるようになっている。警備的な面からみると如何なものかと思うものの、その言葉に甘んじて正寝へ足を踏み入れた。
中は静けさに満ちている。既に時刻は夜を回っているため、使用人は退殿しているのだろう。しかしそれ以上に静かなのには訳がある。正寝のさらに奥には燕寝があり、通常であれば、そこには大勢の人がいて生活の気配があるものだが、今、この宮城においてはそこは無人だ。王の親族が住まう東宮も、妃や寵姫が住まう後宮も無人なのだ。
虎梁は月明りに照らされた燕寝を軽く見やってため息を吐く。
城内で虎梁に心無い噂が飛び交う理由の一つがこれだ。王には後継がいない。そして後継を生む後宮も無人だ。後宮は現王になって廃止され、中にいた人々は暇を出されたという。そして無人になって数年。そこは無人のまま今日に至っている。後継を危ぶむ人々はその原因を虎梁にしたがる。先ほどの殷石ほどあからさまではないが、虎梁に王と距離を取るよう言外に促すものもいる。だがそもそも虎梁と王はそのような関係ではない。何故、王が後宮を閉じてしまったのか。虎梁にも王の心中は計り知れない。
静まり返った城内を歩く虎梁の足音だけが響く。入口から露台に向かう階段まで誰にも出会わなかった。
この城は空虚を飼っている。
どこか鬱々とした気分を抱えながら階段を上り、露台に向かった。
小さな卓子に二脚の椅子。卓子の上には酒宴の用意。少し広めの露台に設けられた席に王はいた。ゆったりとした袍を纏い、寛いだ様子で月を見上げている姿はとても絵になる。
虎梁が来たことに気付いた王は、その顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「無防備が過ぎますよ」
苦笑しながら虎梁が言うと、王は笑う。
「今は執務外だ。楽にさせてくれ」
虎梁に座るよう椅子を進めて、王は盃の一つに酒を注ぐ。もう一つの盃は既に途中まで減っていて、先に一人で酒宴を愉しんでいたようだ。
「些少だが、昨日の武道大会の褒美を遣わす」
そう言って渡された盃を虎梁は躊躇いなく受け取る。
「恐悦至極にございます、主上」
「武戴、と」
名で呼ぶよう窘められ、虎梁は苦笑した。
「ありがたく頂戴いたします、武戴様」
陽国国王、その名を武戴という。
齢二十九の王は八年前、前王の崩御と共に最年少の若さで王位を継いだ。即位したばかりの頃は、まだその年若さから王としての資質を問う声も多かったが、年を重ねるごとにその評価は変化していった。もともと武人として名を上げていた武戴は、即位すると間もなく政治手腕を発揮し、瞬く間に王朝を整え、国を均し、陽を周囲のどの国にも負けない大国へと押し上げた。
彼の政治手腕が認められて国が栄えるにつれて、世継ぎを望む声が方々から上がった。自分の娘を妃に、と各方面から声が上がったが、武戴はそれを全て断った。そして更には前王の時代から受け継いだ後宮の解体という、前代未聞の所行をしでかしたのだ。当時は猛反発があったという。しかし武戴の強い意志により強行され、完全に無人となり今に至る。
朝廷内には後継に対する強い不安があるが、現時点でそれ以外非の打ち所がない王に対しては強く言うことができない。だからこそ、虎梁に逆恨みともとれる非難が集まってしまうのだ。
「昨日の一戦は見事だった。また腕を上げたな」
盃の酒を一口で飲み干して、武戴は嬉しそうに目を細めた。切れ長の瞳が、笑うと意外に優しい表情になることを知っているものは少ない。酒の酔いも手伝ってか武戴は上機嫌だ。
「そろそろ俺も敵わなくなりそうだな」
「何を仰いますか。数多の剣豪達に稀代の天才と言わしめた剣客の貴方に、私の腕は到底及びません」
そう言って虎梁は自分の手を見る。日々の鍛錬で鍛えているため、文官である飛より筋張った手。だが明らかに細い女の手。
「鍛えれば鍛えるほど、貴方の強さが分かってしまう」
掌を握りしめて呟いた声には悔しさが滲み出ている。鍛錬を積み、実力が上がれば上がるほど相手の強さが分かってしまい、自分との力の差を目の当たりにしてしまう。それほどに武戴の強さは別格なのだ。
「追いかければ追いかけるほど、貴方は遠くなってしまう」
「だがそれが分かるのも強さのうちだ」
手酌で酒を注ぎながら武戴は笑う。
「相手の力量も推し量ることができずに闇雲に己の実力を誇示する者と比べれば雲泥の差だ。其方は間違いなく強くなっている。自信を持て」
「武戴様がそう仰るのなら少しは驕っても罰は当たりませんね」
「そうとも。其方は驕るくらいの態度でいて丁度いい。殷石なんかに大きな顔をさせておく必要はないからな」
少し顔を顰めて言う武戴。その表情からするに、先ほど殷石と何かあったか。
「また何か言ってきたのですか?」
「小一時間ほどな。昨日の武道大会の負けは其方に花を持たせてやっただの、自分の方が力量はあるから本質を見誤るなだの色々言ってきたな」
「それは……災難でしたね」
あの殷石に小一時間詰め寄られている武戴を想像してげんなりしたが、当の武戴の方が更にげんなりした顔で「まったくだ」とため息をつく。
「それに加えて、其方ばかり酒宴につき合わせるなだとか後宮を開けだとか口やかましいことこの上ない。せっかくいい気分で飲んでいたのに興醒めだ」
心底迷惑だ、という顔をして再度盃を空にした武戴に、虎梁は苦笑して酒瓶を差し出す。
「それは本当にお疲れ様です」
武戴の盃を満たして虎梁は視線を露台の外に向ける。
月の光に照らされ無人の燕寝が黒い影となって静けさを保っている。本来であれば其処彼処に明かりが燈って賑やかな場所のはずなのに今は空虚を飼っている。虎梁でさえもその空虚に危ういものを感じているのだ。
「何故……後宮を閉じられたのですか?」
思わずそう問いかけていた。