殷石(いんしー)
「ええい、あの忌々しい小娘がっ!!」
怒鳴り声と共に、ガシャと耳障りな音が室内に響いた。壁には濡れた跡と、その下に砕け散った茶器が散らばっている。申し訳程度に灯された蝋燭の明かりに、巌のような体躯の影が揺れる。声の主は怒りを抑えられず、両肩を震わせて近くの卓子に拳を叩きつける。メキっと鈍い音がして卓子の天板が罅割れた。
「随分と荒れているじゃないか、将軍殿」
暗がりから声がして、一人の人物が窓辺から姿を現した。
一見するとまだ年若い優男のように見えるが、纏った雰囲気は落ち着き払っていて、その年齢を不詳にしている。頼りない蝋燭の明かりがその顔に陰影をつけて、男の印象を謎めいたものにしていた。
「まぁ、あの負けっぷりなら荒れても仕方ないよな」
「五月蠅い!」
揶揄うような口調に殷石が怒鳴り、手にした花瓶を男目掛けて投げた。正確に顔面に向かって投げられた花瓶は男に難なく避けられ、背後の壁にぶつかって耳障りな音を立てて砕け散った。
「危ないな、俺じゃなかったら大怪我するところだぞ」
何事もないように言う男を殷石は睨みつけて、抑えきれない怒りをぶつけるように再度卓子を乱暴に叩いた。罅割れた天板は断末魔の音を立てて反り返り、その形を手放した。
「それで、今日は何の用だ?」
壁に寄り掛かり腕組みをして男は問うた。
男の名を夏魁という。
殷石お抱えの情報屋であるが、夏魁という名前以外、彼の素性は殷石すら知らない。用事があるときは、決められた場所に伝言を残すと、深夜にこうやってどこからともなく姿を現す。素性は知れないが、彼の情報屋としての能力は素晴らしく、依頼をすればどんな無理難題でも軽くこなしてくる。勿論、難易度が上がれば当然報酬額も跳ね上がるが、それだけ支払ったとしても十分なほどの働きをしてくれるため殷石は重宝していた。
「あの小娘の弱みを探ってこい」
既に原型を留めていない卓子を乱暴に蹴り上げて殷石は言った。
「小娘?」
「虎梁だ!」
その名を聞いて夏魁は軽く眉を動かした。
「負けた腹いせに弱みを握って脅すつもりか?」
「脅すなど人聞きの悪い。儂はただあの小娘の本性を皆に知らせてやりたいだけよ」
憤懣やるかたない様子の殷石に夏魁は鼻白んだ。
「本性も何も、品行方正で武術にも優れた、非の打ち所がない将軍様という以外に悪い噂はついぞ聞かないけどな」
「それは貴様が聞こうとしていないだけだろう」
そう言って殷石は別の卓子に置いてあった酒瓶を掴むとそのまま呷る。
「いいか、品行方正で非の打ち所の無い人間が、女子の身でありながら男の名を名乗って軍に入ると思うか?」
「だが入隊時に身許改めはあるだろう」
「あったとも。生まれてすぐに孤児院に預けられ、入隊するまで孤児院育ちとな」
「それが疑わしいと?」
「どこの馬の骨とも知れない輩の集う孤児院育ちなど証明になるものか。絶対に何か奴には裏がある。それを探ってこい」
酒臭い息を吐きながら鼻息荒く言う殷石を、夏魁は呆れたような目で見る。
「……それで?裏を取ってあんたは何がしたい」
「決まっておる!奴を将軍の座から引きずりおろして禁軍から追放してやるのよ」
手にした酒瓶を床に叩きつけ、割れた破片を更に踏みにじる。
「だいたい女子が将軍の座に就くなど烏滸がましいにも程がある。女子は大人しく男に従っておればいいものを、彼奴が軍部内において我が物顔で振舞っている所為で、禁軍全体の士気が下がっているではないか!」
忌々しそうに怒鳴る殷石に夏魁は呆れた目を向ける。士気が下がっているのはお前だけだろう、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、やれやれと頭を振った。
「つまり、あの女将軍殿をその地位から引きずりおろす醜聞を探ってこいというわけだな。報酬は高いぞ?」
夏魁が示した報酬額に殷石は眉を顰めて舌打ちをする。軍の一師団が遠征に出た際の一ケ月分を賄える額だ。
「足元を見おって……」
「将軍の醜聞を掴むには安すぎるくらいだ」
「ちっ……仕方ない。だが支払うに値しない情報を持ってきたら、貴様といえどただでは済まさないからな」
脅しのような承諾に夏魁はにやりと笑う。
「商談成立だ。ひと月以内にはお望みの情報を持ってきてやるよ」
そう言うと窓辺に足を掛け、外の闇の中に姿を消した。
夏魁がやると言ったからには必ず結果を上げてくる。殷石はこれで虎梁の弱みを握れると思いほくそ笑んだ。
「これであの小娘を引きずりおろせる。そうだ、将軍から引きずりおろして軍から追放したら、儂が飼ってやろう。鎖で繋いでねじ伏せて服従させてやるのよ」
醜悪な顔で不穏な妄想をして低く笑うその姿を、闇の外から夏魁が見ていた。
「……下衆が」
吐き捨てるような呟きは殷石には届かない。
汚いものを見る目で殷石を睨みつけて、夏魁はその場を後にした。