渓~月駿(ゆえじん)~③
月駿は落ちた刀を拾い、杖にして立ち上がると武戴に向けて一歩踏み出した。己の命が尽きる前に止めを刺そうというのだろう。逃げなければ、と思ったが酷い眩暈と吐き気で身動きが取れなかった。もしこのまま月駿に斬られ命を落としたとしても、月駿の命も同じように尽きるだろう。ならば自分に課せられた使命は遂げたことになる。国の駒としては上出来だ。
武戴は動かない体に鞭打って上体を起こした。眩暈に加えて先ほど受けた暴行で体が刺すように痛んで動くことも儘ならない。だが、力を振り絞って短刀を構える。せめて最期まで抵抗はする。自ら死に際を引き寄せる必要はない。
こちらへ向かって刃を構える月駿と視線が交わる。月駿は憎悪の眼差しで武戴を睨み、更に一歩踏み出す。もう一歩で切っ先が武戴に届くというところで苡沫が月駿に縋ってその手を押しとどめる。月駿の前に立ちはだかって行く手を遮った。
「もうお止めください。これ以上の流血は無意味です」
血の気の無い顔で言う苡沫に月駿は血走った眼を向ける。
「其方も私を邪魔しようというのか!」
「まずは傷の手当てが先です。そのままですとお命に関わります」
「もう私は助からん。ならば陽の若造も道連れにしてくれるわ!」
「お願いですから、これ以上の殺生はおやめください。貴方は度を失っておいでです」
悲痛な声で訴える苡沫を月駿は殺気立った様子でねめつける。
「邪魔だてするというのなら、其方も切り捨てるまでよ!」
そう言って月駿は刀を振りかぶる。
「どけ、苡沫。どかぬなら斬る!」
だが苡沫は頑として首を横に振る。毅然とした態度ではっきりと言う。
「どきません。これ以上貴方を罪に踏み込ませることはできません!」
月駿が憤怒の表情を露わにする。
いけない、と武戴が身じろぎするのと月駿が刀を振り下ろすのは同時だった。
「母様!!」
甲高い悲鳴が辺りに響く。武戴の目の前で苡沫の姿が崩れ落ちた。倒れ伏した苡沫に月蘭が駆け寄るが、月駿はその月蘭さえ一刀のもとに斬り伏せた。
「なにを……っ!」
瞠目する武戴に月駿は顔を歪めて笑った。
「こうなれば皆道連れにしてやる!」
その眼は既に常軌を逸していた。腹からの出血で既に顔色は青白く、死相が出ている。そのくせ眼だけが異様に爛々としていて幽鬼の様相を呈している。踏鞴を踏むように一瞬よろけた月駿は肩で息をしながら言った。
「貴様が来なければこんなことにはならなかった。苡沫と月蘭は貴様の所為で死んだのだ!全て貴様の所為だ!」
呪いの言葉を吐きながら月駿は武戴に斬りかかってくる。だがその足元が怪しい。切っ先は武戴の体を逸れ、床を噛んだ。倒れ込んでくる月駿に向かって武戴は力を振り絞って短刀を突き出した。鈍い手応えがして月駿の胸に短刀が突き刺さった。
月駿は驚愕したように目を見開き、何か言いたげに口を開いたがそれは言葉にならなかった。そのまま床に倒れ伏して何度か体を痙攣させた後、動かなくなった。
武戴もまた力を使い果たしその場に倒れ込んだ。割れるような頭痛は治まった。視界がまだ揺れているのは月駿の術がまだ効いている所為なのか、先ほど受けた暴行の所為なのかは分からなかった。仰臥し目線だけで室内の様子を探る。まだ拳を振り上げている者はいたが、何人かは正気に返ったようで拳を振り上げている者を制止しようとしていた。
「武戴様!」
叫んで駆け寄ってきた者が数名。皆服は乱れ、顔が腫れ上がりあちこちから出血して、その血のりが服に付いて酷い有様だった。そのうちの一人が武戴を抱き起した。
「ご無事ですか。一体これは何があったのですか。我々は何故殴り合いをしていたのでしょうか」
倒れた月駿を見てそう言う。また自分たちの状態も理解できていないのだろう。声には困惑がはっきりと滲み出ていた。
「私は無事だ。それよりも苡沫殿と月蘭姫を……まだ息があるなら手当を」
武戴の言葉に一人が苡沫と月蘭のそばへ駆け寄ったが、倒れた二人を見て首を横に振った。二人とも既に息が無かった。武戴は眉を寄せて唇を噛んだ。
「一体何が……」
「皆、月駿殿の術に嵌ったようだ。月駿殿は私が屠った」
「術、ですか?」
「月駿殿は人心を操る術をお持ちだった。皆、その術に嵌って同士討ちをするよう仕向けられていたようだ。術を解くには月駿殿を屠る必要があった」
苦々しく武戴は言った。こんなつもりではなかった。誰も血を流すことなく、話し合いで解決するはずだった。月駿も苡沫も月蘭も、誰も命を落とす必要は無かったはずだ。何故止められなかったのだ、と武戴は自責する。
過信していた、と思う。陽の軍を背後に己の力を。一軍の指揮官を命ぜられ、一軍を背負うことで渓のような小国が逆らうはずがないと侮っていた。力の差を見せつければ素直に従うと妄信していた。武力の差を自分の力と思い込んで侮っていた。
だからこそ、月駿には心が通じなかったのではないか。無用の流血を避けたいという思いが伝わらなかったのではないだろうか。全ては自分の力不足が招いた悲劇なのではないか。
だが、どう足掻いても月駿は止められなかったのではないか、とも思う。閉塞されたこの地を厭い、広い世界を願った月駿の心の闇は自分のような若造では払拭することは出来なかっただろう。畢竟、血を流すことでしか事態を収拾することは出来なかったのではないだろうか。酷く自分が無力に感じて苦いものが胸を過る。
武戴は首を軽く振って室内を見回す。拳を振り回していたものは取り押さえられ、とりあえず室内に限っては、騒動は治まった。だが、外の様子はどうだろうか。外から風に乗って響いてくる喧騒の声が胸をざわつかせる。月駿は外に向かっても術を使っていた。外にいた者たちは皆武器を持っていた。この室内のような乱闘が起きていたとしたら。ここにいる者は佩刀していないにも関わらず満身創痍なのに。
急速に不安が首を擡げて武戴は口を開く。
「誰か城下の様子を。兵士たちの様子を確認してくれ」
言って立ち上がろうとするが刺すように脇腹が痛み、その場に屈み込む。どうやら肋骨が折れているようだ。隣の者に肩を借りて何とか立ち上がると、窓から外を見ていた者が叫ぶ。
「大変です!城下で火事が!」
慌てて窓辺に寄ると薄闇の中、碁盤の目のように燈火が並ぶ城下の一画に燈火とは違う明らかに大きな火の手が上がっているのが見えた。聞こえてくる喧騒に不穏な色を感じて武戴は眉を顰めた。
「すぐに全員城下へ。動けるものは消火を!」
兵に肩を借りながらなんとか城下へ下りた武戴の目に映ったのは信じられない光景だった。
大きな炎を背に逃げ惑う人々。追いすがり刃を振りかざす兵士たち。地に伏してこそとも動かない民と兵士。阿鼻叫喚の地獄絵図がそこには広がっていた。
「月駿殿は斃したのに何故……」
自分が死ぬまで術は止まらない、と月駿は言った。だから武戴は月駿を討った。なのにこの目の前の惨状はどうしたことか。同士討ちどころか兵が渓の民に刀を振り上げている現状は一体どういうことなのか。
「止めよ!今すぐ止めよ!」
叫んで静止しようとするが、誰にも声は届かない。むしろ、刀を振り上げて武戴に向かって突進してくる者さえいる。憑かれたような顔をした男は武戴と共に城を下りてきた兵士たちによって取り押さえられた。男は暫く意味不明な奇声を上げていたが、やがて糸が切れたように大人しくなり意識を失った。
「武戴様、ここは危険です。避難を」
そう促されたが武戴は頷くわけにはいかなかった。
「しかし、兵を止めねば。渓の民が!」
「武器を持っていない我々が止めに入れば返り討ちに遭います。それに武戴様は負傷されている。まずは一旦戻って態勢を整えませんと」
そう言われて武戴に反論の余地は無かった。だが、城下に張った陣営に戻った武戴が見たのは、同士討ちをする陽の兵士たちの姿だった。唖然とする武戴の元へ、数名の兵士たちが「武戴様!」と叫んで駆け寄ってくる。この者たちは正気なようだったが、あちこちに負傷の痕が見られる。武戴は蒼白の顔で問う。
「これはどういうことだ。何故同士討ちをしている」
「我々にも分からないのです。突然気が遠くなり、気づいたら味方と討ち合っておりました」
「突然頭の中に、殺せ、と声がして急に意識が遠くなったのです」
「気づいたら味方が斬りかかってきていて、この状態でした」
恐らく、と武戴は思った。術の効果が切れるのは個人差があるのだろう。だとしたら時間さえ経てば皆正気に返るだろう。だが、それを待つ猶予は無い。兵士たちが振りかざしているのは真剣で斬られれば命に関わる。取り押さえたくても刀を振り回す者を取り押さえるには数名がかりでやる必要がある。それだけの数が今この時点で無かった。
成す術もなく同士討ちをする兵たちを見つめているとそばの建物が黒煙を上げて火を噴いた。見ると憑かれた顔の兵士が辻の松明を打ち壊し、近くの建物に投げ込んでいるのが見えた。
「止せ、止めろ!」
思わず止めに駆け出そうとした武戴を隣の男が止める。
「武戴様、こうなった以上、もう止められません。郊外に避難を」
「だが、兵を止めねば街にもっと被害が及ぶ。私はこの軍を率いてきた責任がある。指揮官が真っ先に逃げ出すわけにはいかない」
「指揮官だからこそです!」
強い口調で男は言った。
「指揮官が先頭切って現場に飛び込んで死ぬ気ですか。貴方はこの軍の指揮官であり、陽の王子です。この中で最も死んではならないお方です。引いて御身の安全を図るのも貴方の役目です」
男はこの一軍の将軍だった。
「では、兵士と、渓の民を見捨てろというのか。無辜の民を!」
「渓王が陽に反旗を翻した以上、渓は逆賊の国です。そして貴方は陽の王子です。守るべきものを見誤ってはなりません。少なくとも、今は正気に戻っている者を率いて避難すべきです」
その言葉に武戴は唇を噛みしめる。そう、武戴は陽の王子であって渓の王ではない。守るべきものは陽の民であり渓の民ではない。武戴が死ねば陽は王位継承者を一人失うことになる。武戴の身の安全が一番に求められるのだ。
結局、武戴は将軍の言葉を受け入れ、正気に返っている者を引き連れて郊外へと避難した。
一度暴徒と化した兵士たちは箍が外れたように暴虐の限りを尽くし、街を破壊し、民を斬り捨て自らの仲間たちをも斬り捨てた。街はそれぞれの辻に燈火が灯されていたことが災いし、瞬く間に劫火に包まれた。
成す術もなく街が劫火に包まれるのを見て武戴は敗北感に打ちひしがれた。
誰も救えなかった、と力なく呟く。月駿も、苡沫も、月蘭も、渓の民も、自国の兵たちも。渓の蜂起を止めるという役目は果たしたが、それ以外の一切を守れなかった虚脱感が激しかった。
この炎は己の咎だ、と武戴は思った。侮り、驕り、慢心した結果の惨憺たる有様。この咎を生涯背負っていかなければならない。仕方が無かったこと、と誰に言われても武戴だけはこの炎を忘れてはいけない。救えたかもしれない命を無碍にしたのだから。
結局、陽の一軍は一旅五百名に満たない数を残して渓と共に炎に消えた。




