渓~月駿(ゆえじん)~②
「一曲、皆さまに進ぜよう」
月駿はそう言って懐から一本の笛を取り出した。とろりとした質感の石で作られた笛だった。石で作られた笛は珍しい。
「珍しい笛ですね」
「この国でしか取れない月雫石という宝玉で作られた笛だ。翔霞と呼ばれている。代々、この国の王に受け継がれている国宝でもある。渓と陽の誼の証として、翔霞で一曲進ぜよう」
そう言うと月駿は歌口に唇を寄せ勢いよく息を吹き込んだ。高く澄んだ音がして室内にいた者全ての視線が月駿に集まる。月駿はその視線を一瞥しながら音を奏でてゆく。明るい調子の陽気な曲に、酔った兵士たちはすぐに音に合わせて体を動かし始めた。曲に合わせて踊る者、拍子に合わせて体を揺らす者、手拍子する者、皆思い思いに月駿の奏でる笛の音を愉しんでいる。
一曲吹き終わると、その場にいたもの誰もが惜しみない拍手をし、もう一曲、とせがむ声が出た。その声に応えるように月駿は再び笛を構える。歌口に唇を寄せる瞬間、その唇がにやりと歪んだのを武戴は見た。何か不穏なものを感じて声を掛けようとしたが、すぐに次の曲が始まった。兵士たちは喜びまた曲に合わせて踊りだす。
様子が変わったのはそれから暫くしてからのことだった。曲に合わせて踊っている一人が、突然奇声を上げて近くにいた者に殴りかかったのだ。場の雰囲気が騒然とした。殴られた方は一瞬ぽかんとしたように口を開け、そして顔に朱を登らせて相手を殴り返した。殴られた相手はよろけて近くの卓子にぶつかりひっくり返る。その際に近くにいた者に拳が当たり、当てられた者は激昂して倒れた者に馬乗りになって殴りかかった。
「何をしている!止めないか!」
武戴が静止しようと駆け寄ろうとしたが、連鎖するように次々と目の前の兵士たちが拳を振り上げ殴り合いに発展してゆく。酔った弾みで箍が外れているのかと思ったが、そこにいる兵士たちの眼を見てぞくりと背筋が粟立った。
皆、眼が据わっていて何かに取り憑かれたかのように虚ろな顔で殴り合っている。そんな騒然たる場を妙に明るい調子の月駿の笛の音が流れてゆく。目の前の騒動が見えていないかのように笛を吹き続ける月駿が武戴には異様なものに見えた。
「止めろ!止めるんだ!」
近くで倒れた兵士に馬乗りになって殴り続けている男の腕を掴むと、反対の腕が武戴に向けて飛んできた。その手も掴んで男をその場に引き倒す。殴りつけていた手は血に塗れ、殴られた方は鼻や口から出た血で相好が分からない有様になっていた。
男は虚ろな表情で、それでも眼だけは爛々として異様な様相を呈している。周りで乱闘を繰り広げている者も全て眼だけが尋常ではなく爛々としている。そして、誰もが血まみれになりながらも殴り合いを止めようとはしない。尋常ではない事態が起こっているということだけは分かった。
一体何故こんなことに、と武戴は激しく狼狽した。つい先ほどまで皆陽気に酒宴を愉しんでいたのに、どうして突然こんな事態に陥ったのだ、と。そして皆の取り憑かれたような眼はどうしたことか。月駿に目を向けると未だ笛を止めようとはしていない。まさかあの笛の音に何か仕掛けがあるのだろうか。
武戴は月駿の元へ駆け寄るとその腕を掴んだ。
「月駿殿、笛をお止めいただきたい。この様子が見えぬのか!」
室内は最早阿鼻叫喚の状態となっていて、月駿の側では苡沫が月蘭を抱きしめて怯えたように震えている。母の袖に隠されるように抱きしめられた月蘭だが、怯えて泣いているのが分かった。
月駿は笛から口を離すと唇を歪めて笑う。
「酒に酔ってこんな狼藉を働くとは、陽の兵士は随分と品が無いようだ」
大仰に言って傍らの苡沫と月蘭に視線を向ける。
「見よ、私の可愛い妻と子がこんなに怯えているではないか。どうしてくれる」
笛の音が止んでも兵士たちの殴り合いは続いている。だが、月駿の物言いから先ほどの笛の音がこの騒動の何かしらの一端を担っているのは間違い無かった。
「兵たちに何をした」
「何をと言われても、私はただ望まれて笛を吹いただけよ」
「その笛に何か仕込んだのではないか」
その言葉に月駿は不快そうに眉を寄せて掴まれた腕を払いのけた。
「仕込むも何も、これはただの笛だ」
調べてみるが良い、と渡されて武戴は翔霞を検める。石で作られた笛。随所に見事な彫刻があるが、中を見ても何の変哲もない。どこをどう見てもただの笛だ。それ以上の何物でもない。
狐につままれた気分で翔霞を月駿に返すと、それを受け取って月駿は鼻で笑った。
「何の変哲もない只の笛だ。だが——」
言うや否や月駿は再び笛を口に当て鋭く吹いた。高い音がしたと同時に、異変が武戴を襲った。
「ぐっ……!」
突如、全身の血が沸騰するかのように沸き立ち踏鞴を踏む。足から力が抜けて立っていられず、その場に倒れ込んでしまった。破裂するのではないかと思うくらい強く全身が脈動し、息が詰まる。月駿の奏でる笛の音が武戴の鼓膜に刺さる。鼓膜から脳へと突き刺さり、頭の中を甲高い笛の音が掻き回す。その音に呼応するかのように全身の血流が体の中で暴れまわっているような気がした。
「私が吹けば話は別だ」
冷ややかな目で武戴を見下ろし、月駿は笑った。
「翔霞は王たる者が使えばどんな液体であろうと自在に操れる。人の体の六割は水分だ。翔霞を使えば人間など意のままに操ることが可能だ」
そう言って月駿は倒れ伏した武戴の髪を掴み、顔だけ上を向かせる。身動きの取れない武戴はされるがまま月駿の冷たい視線を受けることになる。
「軍も持たない国だと侮っていたのだろう。軍など必要がないからだ。翔霞を使えば相手の軍勢をそのまま自分の手駒として使えるのだからな」
手を離され武戴の頭は鈍い音を立てて畳に落ちる。
「私に向かって武力解除をしろ、だと。思い上がりも甚だしい」言って月駿は邪悪な笑みを浮かべた。「貴様らが私にひれ伏すのだ。陽も寧も私が支配下においてやる」
月駿は窓辺へ向かうと再度、翔霞を構えた。
「当分動けまい。何もできず、自分の軍が全滅するのを指を咥えて見ているがいい」
そう言うと鋭い音で笛を奏で始めた。
夜の闇に侵され始めた景色に笛の音が響き渡る。風に乗って何処からともなく喧騒の声が響いてきた。同時に室内の乱闘も激しさを増している。宴席の場ということもあり兵士たちが佩刀していないのが幸いだった。佩刀していれば、今頃ここは血の海と化していただろう。だが城外に控えている兵士たちはそうではない。佩刀しているし他にも武器を持っている。
月駿はあの笛の音で人を自在に操ることができるという。ならば同士討ちをさせ此処に連れてきた一軍全て相打ちにさせるつもりなのだろう。そんなことはさせてはならない。
武戴は必死に体を動かそうと足掻く。足先は萎えて力が入らなかったが、腕は何とか自分の意に副って動いた。だが、少しでも動こうとすると酷い頭痛がする。目の前を星が飛び交っているかのようにちかちかと視界が光り吐き気がする。脈打つ度に潮騒のような耳鳴りがする。
腕の力を使って這い近くの椅子まで辿り着いた。萎えた足を叱咤して椅子に縋りながらなんとか立ち上がる。
「ほう、まだ動けるか。大したものだ」
笛を吹くのを一旦止めて面白そうに月駿は嗤う。その目は残酷な色を呈していた。
「だがそれもいつまで持つかな」
言って再び笛を吹く。視界が大きく歪み声にならない悲鳴を上げて武戴は椅子に縋ったまま片膝をついた。目に映る景色が高速で回っている。割れんばかりに頭が痛み、耳が圧迫されて周囲の音が遠のく。
あの笛を何とかしなければならない。内側から破裂しそうな頭で思う。あの笛がある限り武戴は手も足も出せない。身動きが取れないこの状況で、ただ兵たちが同士討ちをしてその命が失われるのを眺めるしかない。
回る視界で月駿の姿を何とか捉える。窓際に寄り掛かり愉快そうに笛を吹いている姿は悪鬼のように見えた。縋りついた椅子から一歩踏み出して月駿の側へ近づこうとする。だが、床が揺れて立っていられず踏鞴を踏むと月駿の足元へ倒れ込んだ。
「笛を……やめろ。皆を、元に戻せ!」
「それは無理な相談だな」
必死に叫んだ言葉は嘲笑うかのような声に潰される。制止しようと月駿の足を掴もうとした手は無慈悲な足裏に踏み躙られた。
武戴の手を踏みつけたまま月駿は身を低くして武戴の髪を掴む。ぐいと頭を持ち上げるとその頬を翔霞で揶揄うように軽く叩く。
「一度発動したら私が止めるか死ぬまで止まらぬ。そして私は止める気はない」
そう言って唇を歪め、酷薄な笑みをその顔に浮かべる。
「其方の軍が全滅した後に、その躯の上で其方自身にも止めを刺してくれよう」
言って高らかに笑う。醜悪な笑みだった。邪な野心に燃える者はこんなにも醜くなれるのだろうか、と武戴は思った。
頬を叩く翔霞の感触を感じながら月駿を睨む。踏みつけられた手はその場に縫い留められ動かないが、もう片方の手はそうではない。だが、動かそうとすると吐き気がするほどの眩暈を伴った。それでも武戴は唇を噛みしめ腕に力を込める。翔霞が頬を叩いた瞬間を見計らって翔霞を掴み、そのまま力任せにもぎ取り窓の外へ放り投げた。
「なっ、貴様!」
月駿が驚愕の声を上げる。まさか身動きが取れるとは思っていなかったのだろう。投げられた翔霞を追って窓枠を掴んだ。翔霞は緩やかな放物線を描いて薄闇の下りた窓の外へ落ちてゆく。かつんと硬い音を立てて楼閣の屋根を転がるように落ち、視界から消えた。
窓から翔霞が薄闇に消えるのを見送った月駿は憤怒の表情で振り返り、倒れ伏した武戴の腹を足蹴にした。
「よくもやってくれおったな。この若造が!」
怒りを抑えることなく、何度もその腹を蹴る。その度に胃の腑を突き上げられ、床に嘔吐物をまき散らす武戴を忌々しげに睨んだ。
「全滅した後で止めを刺してやろうと思ったが、気が変わった。今ここで息の根を止めてくれるわ!」
月駿はそう言うと、壁際の飾り棚の上に飾られていた刀を手に取る。鞘を抜き捨てると武戴にその刃を向けた。
武戴は霞む視界に刀を振り上げる月駿の姿を捉えた。このまま切り捨てられてしまうのか。痛む体を抱くように身を丸める。死ぬわけにはいかなかった。武戴に課せられたのは渓の蜂起を止めること。ここでやられてしまえば月駿は当初の計画通り陽に対して蜂起するだろう。
そもそも渓の蜂起は陽にとって脅威ではなかった。軍を持たない国が蜂起したところで高が知れている。その認識だったため陽王は武戴を使者として立て、威厳を見せるため一軍を率いて行くことを命じた。だがその兵力が裏目に出るとは誰が予想できただろうか。
月駿が人心を操る術を持っていることを陽は知らなかった。ここで武戴がやられ、軍が戻らなければ陽王は渓に蜂起有りとみなして更なる軍勢を差し向けるだろう。そして差し向けられた兵力はそのまま月駿の力によって渓の軍勢となり、陽に攻め込むことになるのだろう。それだけは何としても阻止しなければならない。
武戴は震える手で懐を探る。そこには護身用に忍ばせた短刀が一振り。月駿が刀を振り下ろすその瞬間、武戴は渾身の力を振り絞って体を起こし、月駿へ体当たりをした。その手には短刀が握られ、柄の部分まで月駿の腹に埋まっていた。
月駿の手から刀が落ちる。信じられないものを見る目で武戴を見下ろした月駿は、次の瞬間、弾かれたように武戴の体を突き飛ばした。腹から短刀が抜けると同時に鮮血が床を叩いた。見る間に月駿の衣が赤く染まってゆく。腹を押さえて月駿は一歩後ずさった。
「貴様……よくも……」
血濡れた己の手を愕然と見つめ、月駿は唇を震わせる。武戴の一撃は的確に急所を突いていた。傷口から大量の血が溢れ出し、膝が笑う。立っていられなくてその場に膝をつく。己の野望が、命が急速に失われていくのを感じて月駿は叫んだ。
「おのれ……おのれぇぇぇぇぇぇっ!」
突き飛ばされた武戴は床に伏したまま月駿を見つめる。手応えはあった。急所を突いた以上、もう月駿の思い通りにはならない。視界に泣きながら月駿に縋る苡沫と月蘭の姿が見えた。妻と子には酷なことをしていると罪悪感を抱いたが、こうなった以上は月駿の命を奪うことでしか惨劇を止められない。恨まれるのならばそれも仕方のないこと。




