渓~月駿(ゆえじん)~①
「貴殿が寧と手を結び、我が国に攻め入る算段を取っていること、既に聞き及んでいる」
若き日の武戴はそう言って目の前の男を睨んだ。男の顔色は悪い。
渓国の王宮の一室だった。賓客を迎える客間は渓の山で取れる草で編んだ畳が敷き詰められ、庭園に面した窓は解放されて美しい風景を見せている。夏の暑い季節だったが、標高の高い位置にあるためか、窓からは心地よい風が入り込んでいた。
広い客間の奥側に座った顔色の悪い男がこの国の王、月駿だった。そしてその対面、鎧を身に着け背後に兵士を従え対峙しているのが若き日の武戴――この時はまだ王ではなく、王子だった。
渓に蜂起の兆し在り、と報告を受けた陽王は蜂起を止めさせるために武戴を使者として渓へ向かわせた。渓の蜂起を止められればそれで良し。もし止められないようなら武力を以て制すように、と命じられ武戴は一軍を率いて渓に向かった。
渓は元々軍隊を持たない国。それ故、寧から軍を借り受けて陽に攻め入る算段で、今の時点ではまだ一師二千五百に満たない軍勢のみが渓に駐屯している状態だった。
軍を背後に従えた武戴を見た月駿は自身の計画が瓦解したことを瞬時に悟ったらしい。顔色を無くして唇を噛んだ。
「我が王は無用の流血を望んでいない。寧との協力体制を解消し、武力の解除をしていただけないだろうか」
武戴はそう言って月駿の前に書簡を並べる。書簡には、寧の軍勢を追放すること、武力蜂起を断念すること、監視のため陽の軍勢を一定数駐屯させること、などが盛り込まれた文言が記載されている。ここに月駿の署名をもらい、記載事項を履行してもらえれば無血での事態収拾が見込まれる。逆に、この提案に対し否と言われれば武戴は従えてきた軍を使わざるを得ない。
武戴自身もそれは望んでいなかった。速やかにこの提案を受け入れて武装解除してほしいと心から願っていた。もし拒否された場合、渓に在る寧軍一師二千五百と武戴率いる一軍一万二千五百では戦にもならない。多勢に無勢で瞬時に決着がつく。だがしかし幾許かの血が流れることは間違いない。無血で解決したかった。
月駿は目の前の書簡を暫し睨みつけて大きく息を吐く。苦渋を飲み込んだような顔をして絞り出すようにして口を開いた。
「……承知した。寧軍は国に返し、そちらの軍の駐留を受け入れよう」
言って項垂れた。陽の一軍を前にして否やと言える者はいなかった。
その日のうちに駐屯していた寧軍は装備を取り上げられ無力化された。縄を掛けられることは無かったが、城下郊外の一画にまとめ置かれ、見張りのため陽の部隊が監視についた。準備が整い次第、寧へ帰還させることになっていた。
王宮では武戴をもてなすための宴が開かれていた。広い客間には武戴の他、軍の師帥などの主だった兵たちも集められていた。配下の兵士たちも城内の別室に宴席が用意され、それぞれが渓の食事と酒を楽しんでいた。
武戴と月駿は向かい合うように卓を囲み、月駿の隣には王后とその娘も臨席していた。
「妻の苡沫と、娘の月蘭だ。もう一人、双子の妹がいて月潤と言う。今は鍛錬で山に籠っている故、この場にはおらぬ」
月駿がそう言って家族を紹介する。苡沫と月蘭は緊張した面持ちで武戴に頭を下げた。渓は他国との交流が少なく、賓客を招くこともあまりないため緊張しているのだ、と月駿は言った。それは事実だろうし、加えて自国を制圧に来た軍の指揮官だ。緊張せざるを得ないだろう。
武戴はそんな二人を見やって穏やかに笑む。
「月駿殿は挙兵を思い留まってくだされた。それ故、我が軍もこの国を制圧しに来たわけではない。どうか心配なされぬよう」
武戴の言葉に苡沫と月蘭はあからさまに安堵の表情を見せた。それを苦笑しながら見遣って武戴は月駿に視線を向ける。難しい顔をしているのは、未だ陽を受け入れることに抵抗感があるからではないか、と武戴は思った。
月駿と武戴は親子ほど年が離れているように見える。武戴自身、まだ成人して間もない若造だ。そんな若造に自分の計画を頓挫させられ、監視下に置かれるのだから決して愉快ではないことくらい分かる。
「月駿殿にはご子息もいると聞き及んでいるが今日はおられないのだな」
他愛のない話から会話の糸口を見つけ、少しでもこちらに対する敵愾心を鎮めたいと思い話しかけるが「あれは他国に遊説中に病で斃れて死んだ」と素っ気なく返された。苡沫を見るとどこか悲し気な様子で武戴と月駿を交互に見ていた。
「それは失礼した。お悔やみを申し上げる」
月駿はちらりと武戴を見て盃の酒をちびりと舐めた。
「それには及ばない。親の言うことを聞かぬとんだ親不孝者のこととて」
眉を顰めながら言うその表情からは悲しんだり悼んだりするようなものは感じられなかった。何があったのだろうとは思ったが、あまり話題に出して歓迎される内容ではなさそうなので「そうですか」と頷くに留めた。
「もう一人の姫は鍛錬と仰っていたが、何の鍛錬なのか聞いても良いだろうか」
別の話題を、と思い武戴が問うと月駿は一瞬動きを止め、じろりと値踏みするように武戴を見た。これも聞いてはいけないことだったのか、と武戴は内心冷や汗をかく。外交に関しては、武戴はまだまだ未熟だ。今回の出征は外交に慣れさせるという父王の思惑もあった。
室内は兵士たちの上げる歓談の声でざわざわと賑わっている。そんな中にありながら、武戴と月駿の卓はどこか緊張感が漂っており、歓談とは無縁の様相を呈していた。
もう一度、盃の酒を舐めて月駿はその盃を卓子に置いた。
「我が一族が水を操ることが出来るというのは知っているだろうか」
静かな声で月駿が言う。渓の王族が水を操ることが出来る、というのは武戴も聞き及んでいたので首肯する。
「王家の血筋に連なる者にのみ受け継がれる力だ。人によりその力の強さは異なるが、同時期に存在する力の持ち主の中で最も優れた力を持つ者が王として選ばれる。私は今、こうして王としてこの国を治めておるが、娘の月潤は私を凌ぐほどの力を持って生まれてきた。故に、その力を自在に操ることが出来るよう、鍛錬をしている」
「つまり、月潤姫は時期王位継承者、というわけか」
「左様。月潤が成人して力の扱いを完全に覚えれば、私は引退して王の座を月潤に譲る」
武戴は傍に控える月蘭を見た。年のころは十そこそこ。この国での成人が何歳かは分からないが陽では十五になると成人したと見なされる。それに当てはめればあと数年で渓は王が交代することになる。
だからなのだろうか、と武戴は思った。
渓はこれまで周囲のどの国とも積極的に関りを持たなかったし、険しい山脈に囲まれた土地故に国境争いなどとは無縁の国だった。故に軍隊も持たず、山に切り取られたこの土地で独自の文化を紡いできた国。もしかしたら月駿はそんな安穏としたこの国を飽いているのではないだろうか。
月駿の目は野心に燃える者の目だ。こうして陽の軍勢に囲まれてもなお、その目に宿る野心は揺るいでいないように思える。
「月駿殿は……何故、挙兵しようと思われたのだ」
その目を真っ直ぐ見据えて武戴は訊いた。月駿の本音が知りたかった。寧から軍を借り受けてまでも挙兵し、陽へ攻め入ろうとしたのは何故か。普通に考えて借り物の軍勢で陽に勝てるはずが無いのは分かることだろう。
月駿はその問いに僅かに目を伏せる。そして立ち上がると窓際へ寄り開け放たれた窓から外を眺める。「武戴殿もこちらへ」と呼ばれ、月駿の隣に立って外を見る。
すでに空は薄暮に沈もうとしている。王宮は高層の楼閣となっており、上部に位置する客間からは城下の様子が一望できる。碁盤の目のように区画整備された城下の街はびっしりと二階建て、三階建ての建物が整然と立ち並び、一糸乱れぬ美しさを作り出している。それぞれの辻には松明が灯され、星の光のように揺らめき眼下の風景を彩っていた。城下郊外には陽の軍が陣幕を張り、燈火を焚いているのさえ景色の一部に溶け込んでいる。そしてその背後には岩柱を束ねたような山が連なっており、薄暮の空にその姿を黒々と晒している。そして更にその背後には急峻な山が黒い影となり空を切り取っていて、山と街の対比が幻想的な美しさを醸し出していた。
「……美しい国ですね」
素直な感想が口を突いて出た。そんな武戴をちらりと見て。
「美しいだけの小さな国よ」
忌々しそうにそう言って月駿は口の端を歪める。その声音には嫌悪の色が顕わだった。
「こんな山の中で閉塞して我らはずっと生きてきた。祖先が月からこの地に降り立ち、何百年、何千年もだ。山に断絶されて周りの国々との交易もほぼ無きに等しい。この地に幽閉されているようなものだ。私はこんな監獄を壊したかった。国を広げ、もっと自由に息ができる国にしたかったのだ」
「だから挙兵し、我が国へ進攻しようと?」
そう問うと月駿はがっくりと項垂れた。
「もはやその願いは届かぬ。天は私に機会を与えてはくれなかった。この地で閉塞して朽ち果てろ、と言うことだ」
絶望を噛みしめたような月駿の言葉に武戴は返す言葉を失った。
この小さな国に暮らす閉塞感は、武戴のような陽の民には理解できないだろう。急峻な山に囲まれ、身を寄せ合うように暮らす渓の民。外に出ようとしても険しい山道が容易には許してくれず、結果としてこの山に抱かれた街で生涯を終える。一度たりとも国を出ることが無いまま、という民も珍しくない。そんな閉塞した国の王を務めることがいかに苦しいか。
月駿はそう言って窓から見える街を、山を、空をねめつけた。まるで目に映るもの全てを呪うかのように暗い眼差しだった。
同情する気持ちは僅かに沸いたが、それでも挙兵だけはさせてはならなかった。寧の援軍があったとしても月駿が陽の領地を僅かでも得ることは出来ないだろう。陽軍はそんな容易く敗れる程弱くない。攻撃を受ければ全力で応戦する。そしてその軍勢は渓をも飲み込むだろう。借り物の軍勢で陽の軍から身を守ることなど出来るはずがない。兵を挙げるということは畢竟、渓の死を意味する。
「月駿殿が感じれおられる閉塞感は私では分かりかねるが、それでもこの美しい国を見捨てるようなことがあってはならない。月駿殿は王なのだから」
王には国を守る責務がある。決して国を危機に晒すようなことはあってはならない。
武戴の言葉に月駿は何も言わず、ただ空を睨みつけていた。武戴もかける言葉を見いだせず、黙って空に視線を向ける。
徐々に暗くなる空には満月が顔を出し、白く輝いている。彼らの祖先はあの月から降りてきたという。水を操る力を有することと言い、不思議な一族だと思った。背中からは宴の賑やかな熱気が伝わってきてちらりと視線を向けると、酒に酔って上機嫌な兵士たちの様子が見えた。
外を眺めること暫し、月駿が席に戻るよう促し、月駿自身も元の席へと戻った。




