暴露
虎梁は炎が広がる眼下の景色を見ながらすっと背筋が寒くなった。この景色を見たことがある。それは遠い記憶にある鮮烈な記憶。
風に渦巻く炎。揺らめき、弾み、踊り狂う。建物を舐め尽くし、その食指を隣の建物に伸ばす。そうして次々と飲み込んで自らの赤い躰を大きく膨らませてゆく。そうしている間に一画だった火の手は街全体に広がり、灼熱の焔となって街を、人を、すべてを飲み込む。
足元から震えが立ち上ってきた。瞬きをすることも忘れ、城下の炎を凝視する。ひゅっと喉が鳴った。呼吸が乱れてうまく息が吸えない。
「風が強すぎて火が煽られ消火が追い付きません!増援をお願い致します!」
切羽詰まった声で誰かが叫ぶ。その声に殷石が応える。
「右軍から一師を追加する。燃え広がる前に何とか消し止めよ!」
虎梁の目は最早炎しか映していなかった。
燃えてしまう、と思った。全てが燃えてしまう。街が、民が、武戴の国が。あの時のように、全て燃やし尽くされてしまう。劫火は街も民も飲み込み、何一つ返してくれなかった。ただただこの手から全てを奪っていっただけだった。あの国のように、この国も劫火に奪われてしまう。
「虎梁様!」
半ば呆然自失していた虎梁の肩を揺さぶるものがあった。はっとしてみると切羽詰まったような顔色をした飛が肩を掴んでいた。
「飛……」
「自失なさっている場合ではございません。兵に指示を!」
我に返って振り返ると、指示を待っている麾下の姿がそこにあった。虎梁は大きく息を吐き心中の動揺を悟られぬよう麾下に向き直る。
「消火隊は左軍右軍から合わせて二師が出ている。左軍は更に一師を持って城下で火付けをしているものを探して捕らえよ。日常業務に当たっている一師も至急呼び戻し、全三師を持って王宮の警備にあたるように」
そう指示を出して虎梁は再度城下へ視線を向ける。炎が広がっている。風に煽られ次々と新手から火の手が上がっている。とてもではないか消火が間に合わない。空を見上げると雲一つない青空が広がっていて天気の急変は期待できない。抜けるような青空を忌々しく思い、虎梁は胸元で拳を握る。
雲を呼ぶしかない。そう思った。自分の血に与えられた力はやろうと思えば雲を呼び、嵐を呼ぶことも可能な力。今、此処でその力を以て嵐を呼び、雨を降らせれば城下の惨事は押しとどめることが可能だ。だが、この天気が問題だった。雲を操るには水気がないと難しい。虎梁の力を以てしてもこの乾燥した晴天の状態から嵐を呼ぶには相当の時間が掛かる。そんな猶予は最早無いだろう。
虎梁は懐に忍ばせた翔霞に手を伸ばす。
翔霞を使えば、すぐに嵐を呼ぶことが出来る。嵐を呼び城下に豪雨を降らせて鎮火することが可能だ。翔霞は虎梁の力を何倍にも増幅することが出来る宝笛。今、此処で使わずにいつ使うのか。
翔霞を取り出しかけて一瞬躊躇する。此処で翔霞を使えば虎梁の正体が知られることになってしまう。皆を謀っていたことが知れてしまう。そうすればこの身は終わりだ。謀っていたことを糾弾されこの地位を追われることは間違いない。だが、そうなったとしてもこのまま城下が炎に呑まれて多くの人命が失われるのを見るよりましだ。
――私はこの国を救いたい
意を決して懐から翔霞を取り出す。隣にいた飛が怪訝そうに首を傾げる。――飛は翔霞を見たことが無かった。
眼下の炎を睨みながら取り出した翔霞の歌口へ唇を寄せる。息を吹き込むと高く鋭い音が辺りに響き渡る。皆が一斉に虎梁を見たのが分かった。こんな非常時に何をしている、と誰かの声が聞こえたが構わなかった。
翔霞で奏でるのは嵐を呼ぶ雨乞いの曲。旋律に力を乗せて曲を奏でる。気象を左右する力を使うのは渓にいた時以来十数年ぶりだ。だが、使い方は体が覚えている。物心ついてから渓が滅ぶまで、厳しい鍛錬で叩き込んできた。笛の音色と共に力を開放する。
すぐに空に一条の暗雲が流れてきて上空で渦を巻き始める。その渦に四方八方から暗雲が集まってきて瞬く間に暗雲で空一面が覆われた。辺りは夕暮れのように薄暗くなり、眼下の炎が際立って見えるようになった。渦巻く雲は笛の音色に合わせてどんどん厚みを増し、次第に雷鳴が辺りに響き渡る。
その場にいた者は全員空を見上げてぽかんと口を開けた。先ほどまでの晴天から一転して変わった曇天に目を白黒させている。そしてその怪異を引き起こしたであろう虎梁を奇異なものを見るような目で見ている。
虎梁は引き続き笛を奏でる。厚く垂れこめた暗雲は雷鳴を断続して鳴り響かせ、稲光であちこちを光らせている。やがて重く厚みを増した空から一滴の雨粒が零れ落ちた。重たい雲にため込まれた雨粒が堰を切ったように次々と空から落ちてきて、瞬く間に城下を含む辺り一面が土砂降りの雨に包まれた。
――降れ、もっと降って全ての炎を飲み込め
吹き荒ぶ強風に巻き上げられた雨はたちどころに城下の炎へ食らいつく。建物を蹂躙していた炎は叩きつける風雨によってたちまち勢いを失い、姿を小さく萎ませてゆく。蝟集していた炎が容赦ない豪雨の追撃によりその力を失うまでにそんなに時間は掛からなかった。
眼下の炎が全て消えたことを確認して虎梁は笛を吹くのをやめた。途端に豪雨がぴたりと止んだ。空を覆っていた雲はあっという間に霧散し、数秒の後には元の青空を取り戻していた。
「なんだ、今のは……」
誰かが呟くように言った。虎梁は振り返らなかった。振り返らずとも全員の目が虎梁に注がれているのが分かった。隣にいる飛は顔色を無くして唇を震わせている。無理も無いだろう。ひた隠しにしていた正体を自ら晒したようなものなのだから。
ずぶ濡れになった服が肌に纏わりつくのが不快だった。濡れた顔を片手で拭い翔霞を懐に納める。
「今のはまさか……渓の王族に伝わる水を操る力か」
そう言った声は殷石のものだった。振り返ってみると殷石が目を見開き、唇を戦慄かせている。震える手で虎梁を指さし
「やはりあの噂は真であったか。貴様は渓王族の生き残りか!」
その言葉に周囲が騒めく。殷石は目を爛々とさせながら
「今まで当然の顔をして我らを謀っておったか!」
嬉々として虎梁を糾弾する。虎梁に向けられる目は驚愕に満ちたものが大半だったが、中にはやはり殷石のように虎梁を屠る機会を得たとばかりに目を輝かせている者もいた。
「それは真か、虎梁」
問うたのは赦鶯だ。厳しい眼差しで虎梁を真っすぐ見据えている。虎梁は唇を噛んだ。言い逃れなどできるはずがない。渓の王族にしか持ちえない力を、皆の面前で行使したのだから。
沈黙は無言の肯定にしかならないことは分かっている。だが虎梁は何も言えなかった。皆を欺いていたのは事実だ。糾弾されても仕方のないことだと半ば諦めて視線を赦鶯へ向ける。赦鶯は物言わぬ虎梁の眼差しに一瞬、驚いたように眉を上げ、そして何かを堪えるように視線を逸らした。
虎梁はゆっくりを視線を巡らせる。鬼の首を取ったかのような表情の殷石とその取り巻きたち。驚きを隠せない虎梁の麾下たち。その中に在って表情を変えない武戴と浩然。その場の全員の顔を一瞥して虎梁は静かに微笑んだ。
「私はこの国を救いたかっただけです」
かつての渓のように、劫火で全てが奪われることが無いよう救いたかっただけ。それは紛れもない事実。これだけの水をもたらしたのだ。火付けを行っていた者たちも、新たに火をつけようにもそう容易く行えまい。更に消火隊の手が空き城下には三師が在る。怪しい動きをするものは即座に捕らえられるだろう。少なくとも、この城下においては救うことは出来たはずだ。
「亡国の王族が痴れ事を抜かすな!貴様が軍に入ったのはこの国に仇成すためであろう」
殷石の糾弾は的を射ている。当初の目的はそうだった。だが今は違うと訴えたところで殷石は聞く耳を持たないだろう。だから虎梁は敢えて何も言わなかった。きっと、言わずとも武戴は理解してくれるだろう。そう思った。
「主上!」と殷石が武戴へ向き直り「彼奴はこの国に反旗を翻し斃された国の王族です。この国に仇成す存在です。今までは証拠が無かったが、これで証明されたではありませんか。即刻処分を求めます!」
その言葉に、場にいるものの表情は様々だった。殷石軍の者は賛同するように首肯しているものが多いが、虎梁の麾下は複雑な表情で虎梁に視線を向けている。皆、自分たちの将が亡国の王族だったと信じたくない気持ちの方が大きいのだろう。そんな麾下たちに申し訳ない思いを抱き俯いた。
「だが虎梁は今、その力で城下の火災を収めた。この国に仇成すつもりならばそのまま捨て置けば良かっただけではないか。違うか」
「主上!」と咎めるように殷石が声を上げる。「反旗を翻した国の、王族の生き残りですぞ!それを軍の将にこのまま据え置くと仰るのか」
「出自など私は問わぬ。その者の人間性を見て適切な役職につけている」
「兵の士気に影響します。逆賊の人間を将に据えてそれで下の者が納得できるとお思いか」
「これしきの事で士気が下がるのであれば、我が軍もその程度であったということだろう」
「なんということを仰る!」
殷石は激昂した。武戴に対して反意をむき出しにして吠える。
「軍の統率で最も重要なのは兵の士気でございます。それを蔑ろにして統率ができると仰るのか」
「殷石、止めよ!」
興奮した殷石を赦鶯が止める。殷石はまだ何か言いたげに口を開いたが鋭い赦鶯の眼差しに封殺された。
赦鶯は殷石と武戴の間に入り、武戴へ視線を向ける。
「主上、出自に頓着されないそのお心は見事ですが、殷石の言うことにも一理ございます。兵の士気が下がれば軍の統率はできません。虎梁が渓の王族であると分かった今、兵を納得させるためにも何かしらの処分が必要でございます」
赦鶯はその顔に苦渋の色を濃くしてそう言った。赦鶯自身は武戴と同様、出自の如何で感情が左右されることは無い。虎梁が渓の王族だったとしても、これまでの虎梁の言動を顧みてこの国や武戴に反意があるとは思えなかった。だが、軍の士気も重要だ。寧から侵攻を受けている今、軍の士気が下がることはそのまま寧の侵攻を許してしまうことと同意だ。それだけは避けなければならない。
「渓の王族など捨て置けば必ず国に害をなすことになろう。今すぐ処分を!」
言いながら殷石は腰の刀を抜いて身構える。
「主上が決断されないのであれば、儂の手で引導を渡してくれるわ!」
今にも斬りかかってきそうな殷石に、虎梁も刀を取ろうと腰に手を伸ばすが佩刀していないことに気付いた。午前中の書類作業の際に執務室に置いたままにしてきたのを思い出した。身を護る武器を持っていない以上、このまま斬りかかられても抵抗する術を持たない。全身の力が抜けてその場に立ち尽くす。
斬られてもいい気がした。正体を知られて自棄になったわけではない。ただ、反意が無いことの証明など出来るはずもなく、殷石のように自分に反感を持っている者達に、渓の王族であっても、この国の将軍であり続けることを認めさせるだけの根拠を示すことが出来る気がしなかった。
抵抗する気配を見せない虎梁に殷石はにやりと笑い、斬りかかろうと身を低くした。
「止めよ、殷石」
まさに地を蹴ろうとする瞬間、殷石の肩を武戴が掴み制する。「何故お止めになる!」と抗議した声は黙殺された。やや乱暴に殷石を押しのけ、その手から刀を取り上げると虎梁に向かって放り投げた。




