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幽愁の月  作者: 巫部朱莉
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信じる理由

 その日の夜、虎梁(ふーりゃん)武戴(うーだい)から呼び出しを受けた。


 人気のない正寝を通り、指定された露台に上がると酒宴の用意と共に武戴(うーだい)が待っていた。

「来たか」と言って武戴(うーだい)は笑う。公務でない武戴(うーだい)と会うのは久しぶりだった。ゆったりとした袍を纏い、髪を下した姿の武戴(うーだい)は寛いだ様子でいつもより若く見えた。


「お待たせいたしました」


 座るよう促され、そばの椅子に腰かけると盃を渡された。


「とりあえず、無事に疑惑が晴れて良かった」


 酒を注ぎながら言う武戴(うーだい)の表情は柔らかい。虎梁(ふーりゃん)のことを案じてくれていたことが伺えて、その気遣いが嬉しく虎梁(ふーりゃん)は微笑んだ。


「ご心配をおかけしました」

「其方に疑いは持ってはいなかったが、証言が出た以上裏付けを取る必要があった。謹慎などさせてすまなかった」

「謝っていただくには及びません。あのような証言が出た以上当然の処遇ですから」

「そう言ってもらうと心が軽くなる。何故あのような突拍子もない虚言が出たのか不思議だ」

赦鶯(しゃおう)殿は私に話題性があるからではないか、と言っておられました」

「話題性か。」


 そう言って武戴(うーだい)は手酌で酒を注ぎ、一口飲む。虎梁(ふーりゃん)は手の中の盃を軽く揺らしてその水面を見つめた。空に輝く月が波面で揺れた。


「女の身で在りながら男の名を持ち、異例の速さで将軍に上り詰めたとあれば手っ取り早く醜聞を広めるのにうってつけなのだろう、と」

「確かに話題性では其方が一番豊富だろうな」


 そう言って武戴(うーだい)は笑う。


「誰もそんな虚言を真に受けてはいなかったが」と言って何かを思い出したように顔を顰めた。「殷石(いんしー)だけはこれ幸いと噂を広めて回っていたようだな」

殷石(いんしー)殿は余程私が気に入らないと見えます」


 苦笑する虎梁(ふーりゃん)に「さもありなん」と武戴(うーだい)は軽く頷く。


「一回り以上年下の女性に左軍将軍の地位を取って代わられたのだ。愉快ではなかろう」

「だからと言ってこうも食って掛かられるとこちらとしても応対に困ります」


 ため息交じりに言葉に言外の意味を含ませたつもりは無かったが、武戴(うーだい)は別の意味で捉えたようだ。軽く眉を上げて


「今のところ殷石(いんしー)を罷免するだけの理由が無いのだ。すまないな」

「そう言うつもりで言ったわけではございません」


 殷石(いんしー)を将から廃して欲しいわけではない。それに仮に殷石(いんしー)を罷免したとしても次の後釜に座れるだけの人材が今の軍の中で思い当たらない。武戴(うーだい)が王になって八年。人材の育成は思ったほど進んではいない。人を育てるということはそんなに簡単なものではないのだ。それを考えると虎梁(ふーりゃん)の出世は異例の速さで、そんな新参者に自分の地位を奪われた殷石(いんしー)の憤懣も分からないわけではない。


「私がこの地位に在る以上、殷石(いんしー)殿の憤懣は受け止めるしかないわけですから」


 この先、殷石(いんしー)に代わる人材が育つか虎梁(ふーりゃん)自身が将軍の地位を辞する以外に殷石(いんしー)の悪意を交わす手立てはない。若干げんなりしながら言って盃に口を付ける。強めの酒が喉を焼く感覚に軽く目を伏せて息を吐いた。


殷石(いんしー)に代わる人材が育つには時間が掛かる。其方には要らぬ苦労を掛けることになるが辛抱してくれるだろうか」

「勿論です」

殷石(いんしー)とその取り巻きは五月蠅いだろうが、それ以外の者は其方を信じているから皆助けになってくれよう」

「ありがたい限りです」

「俺も困ったときは些少ながら力になるから遠慮なく言うが良い」


 悪童のような顔をして言う武戴(うーだい)虎梁(ふーりゃん)は苦笑する。


武戴(うーだい)様の些少はちっとも些少になりませんから」


 そう言って武戴(うーだい)を見つめる。こちらを見返してくるその眼差しは柔らかく、普段の凛然とした佇まいからは想像できないほど優しい。公務では決して見ることのない顔。それだけ心を許してくれているのだと思うと喜びで陶然とした気分になる。だが同時に、どうしてそこまで心を許してくれるのかと疑問にも思う。


「……武戴(うーだい)様はどうして私をそこまで信じてくださるのですか?」


 将軍になって二年。武戴(うーだい)の側で仕えるようになってまだ二年にしかならない。主と麾下という関係において自分のことを深く話したことなど無い。こうして酒宴に付き合うようになって他愛もない会話を交わすことは増えたがそれ以上にはならぬよう一線を引いている。何より、武戴(うーだい)に明かせない重大な秘密を抱えたこの身を何故そこまで信用してくれるのか不思議だった。


「不穏な噂が立つほどの私を、疑いもせずどうして信じてくださるのですか?」


 虎梁(ふーりゃん)の言葉に武戴(うーだい)は軽く眉を上げる。何を当たり前のことを聞いてくるのか、というような顔でこちらを見て首を傾げる。


「其方が信用するに足りる人物だからだ」

「それでは答えになっていません。私の何をそんなに信じてくださるのですか?」

 そう言うと武戴(うーだい)は少し考えるようにして虎梁(ふーりゃん)を見つめ、ややして口を開いた。

「強いて言うならば其方の目、だな」

「目、ですか?」

「其方の目は煩悶を抱えた者の目だ」


 武戴(うーだい)の言葉に一瞬背筋が凍る。まさか気付かれたのか。抱え込んでいる秘密を知られているのだろうか。そう思い緊張したが、武戴(うーだい)は気にした様子はなく言葉を続ける。


「苦悩し、葛藤し、逡巡し、それでも前を向いて生きている者の目だ。その苦悩が何かは詮索する気もないし、必要もないと思っている。煩悶を抱えたうえで飲み込み、それでも俺に仕えてくれるという其方を信じない理由などなかろう」


 その言葉は強く、心から信じてくれているということが分かる。そこまで信を置いてくれるということが嬉しい反面、武戴(うーだい)を欺き続けているという罪悪感が心を焦がす。


「もし噂通り私が渓の王族の生き残りだったら、どうなさいますか?」

「どうもないな。其方は其方だ」


 そう言って武戴(うーだい)は笑う。


「仮に其方が渓の王族だったとしても、俺は構わぬ。今、此処にいる其方が俺に仕えてくれているのだからそれで充分ではないか」


 一瞬、何もかも全てを打ち明けたい衝動に駆られた。全て胸の内に抱えているものを吐露したい思いに駆られ口を開きかける。だが、


 ――私は、本当は渓の王族の生き残りです。次期王位継承者でした。貴方に国を滅ぼされたので復讐を誓って軍に入り、この地位まで上り詰めました。貴方を弑す目的で軍に入りましたが今はその気はありません。


 そう言って信じてもらえるものか、と思って虎梁(ふーりゃん)は心の中で「いや」と否定した。きっと武戴(うーだい)であれば一笑に付してしまうだろう。それがどうした、と。


 ――だが言ってどうなる


 今まで武戴(うーだい)を、他の皆を欺いていたのは事実。武戴(うーだい)はきっと真実を知ったとしてもそれを他言したりはしないだろう。武戴(うーだい)の心の中に留めおいてくれるだろう。だが、それは畢竟、武戴(うーだい)にも秘密を抱えさせることに他ならない。共犯者になってくれと言うに等しい。この国の王に、それをさせるのか。


 虎梁(ふーりゃん)は開きかけた口を閉じた。


 出来ることならば秘密を打ち明けてしまいたい。そう思うのは自分が楽になりたいからに他ならない。秘密を抱えているのが心苦しいから、後ろめたいから、吐き出して楽になりたいだけなのだ。秘密を武戴(うーだい)にも共有させることで、皆を欺いている罪悪感から逃れたいだけ、それだけなのだ。


 陽に対し反旗を翻し、それによって国を滅ぼされた王の後継者として楽になることは許されないと虎梁(ふーりゃん)は思っている。武戴(うーだい)の言う通り、秘密を抱え苦悩し、葛藤し、逡巡し、それでも前を向いて生きていかねばならない存在なのだと。それが渓の王位継承者としての贖罪なのだと。


 虎梁(ふーりゃん)は軽く目を伏せ微笑む。


武戴(うーだい)様には本当に敵いません」


 秘密を抱えたこの身であっても、そこまで信を置いてくれる度量に、その器の大きさに、心の底から救われる。目の奥が熱くなり、込み上げてくるものを堪えるように俯く。


虎梁(ふーりゃん)


 優しい声で呼ばれて顔を上げると、武戴(うーだい)がこちらに手を伸ばしてきた。そのまま頬に触れると


「其方が何を思い悩んでいるかは詮索しない。だが、いつか話しても良いと思える日が来たらその時は教えてくれるだろうか。どんな内容でも俺は受け止めるつもりだ」


 穏やかな眼差しでそう言って労わるように頬を撫ぜた。


 突然の武戴(うーだい)の行動に虎梁(ふーりゃん)は目を瞬く。武戴(うーだい)から触れられることなど今まで一度もなかった。当然だろう、武戴(うーだい)は主で虎梁(ふーりゃん)は麾下だ。慣れ合うような関係ではない。にもかかわらず、頬を撫でる手は優しく、そこに慈しみさえ感じて虎梁(ふーりゃん)は鼓動が跳ねるのを感じた。


武戴(うーだい)様……」


 どう反応してよいか分からず固まっていると武戴(うーだい)


「そのように困った顔をするでない。こちらも反応に困るではないか」


 そう言い、軽く頬を抓られた。


「か、揶揄われたのですか」


 憮然としながら聞くと武戴(うーだい)は頬から手を放して軽く笑った。


「揶揄ったわけではない。ただ、其方が迷い子のような顔をしていたからつい、な」

「……迷っているわけではございません」


「そうか」と微笑んで武戴(うーだい)は盃の酒を一口で空けた。そして軽く息を吐き「なんにしても」と続ける。


「其方が何者であっても俺は構わない。そなたの煩悶が少しでも軽くなるのであれば、如何様にでも俺を使えばよい。俺で力になれるのなら何なりと言うが良い」


 鷹揚に言う武戴(うーだい)の言葉に何かが胸に込み上げてきた。ここまで信を置いてもらえているのだ。胸の内に巣食う煩悶など全て飲み込んで、誠心誠意、武戴(うーだい)のために仕えればよいのだ。


 込み上げて溢れ出そうになるものを噛みしめながら虎梁(ふーりゃん)は首肯した。




 事態が動き出したのはそれから間もなくのことだった。


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