荊闇(けいあん)
その日の夜、虎梁は再度、夏魁を呼び出した。昼間、瑞鄭楼に伝言を残すと深夜になって夏魁は姿を現した。前回と同様、中庭に姿を見せた夏魁を自室へと招き入れる。
「兄様にお願いしたいことがあります」
人気のない自邸ではあるものの、辺りを憚って声を潜めて虎梁は言った。
「荊闇を調べて欲しいのです」
その言葉に夏魁は困惑したように首を傾げた。
「荊闇を……?急にどうした」
「気になることがあるのです」
そう言って荊闇で上がる煙のこと、調査したところ樵だと判明したこと、それが偶然とは思えないこと。そして寧に不穏な動きがあることを伝えた。
聞きながら夏魁は眉を顰める。
「確かに偶然にしては出来すぎている気がするな」
「私もそう思うのです。前に兄様がこの国にも寧の間諜が入り込んでいる、と仰っていたでしょう。こちらの動きが寧に伝わり、軍の調査に合わせて樵を仕込んだとしても不思議ではないと思うのです」
「もしそうだった場合、荊闇に何か知られたくないことがある、ということになる」
「寧が荊闇に入り込み、荊闇を通じて麓の綾架の街に刺客を送り込んでいるのではないかと考えています」
「寧の方から登ってきたとして山を越えるのに四日は掛かる。荊闇が中間地点で、誰にも見られず野営をするにはうってつけの場所だな」
夏魁はそう言うと考えこむように腕を組んで息を吐いた。
「だが、本当にただの樵で荊闇には何もない可能性もある」
そう、虎梁の杞憂である可能性も十分にあるのだ。
「それならばそれでいいのです。私が穿ちすぎなのだと笑われればいいのです。将軍である以上、どんな些細な違和感でも疎かにしてはいけないと私は思うのです。ですから、荊闇を調べて何も無いことを確認したいのです」
何処か切羽詰まったような表情で虎梁は「本当は」と続ける。
「私自身が行って調べたいのですが、さすがにこの身ですとそう簡単にもいかず、兄様にお願いするほかに手段が無いのです」
虎梁の中で荊闇の煙と寧の不穏な動きが結びついてしまっている以上、何もなかったという確固たる確証が欲しいのだ。その思いを感じ取ったのか、夏魁は静かに頷いた。
「分かった、調べよう」
「ありがとう、兄様」
力強い夏魁の言葉に虎梁は安堵する。夏魁に調べてもらい、何もなかったと報告があれば、それでこの件に関してはそれで終わりだ。心を煩わせるものが一つ消えることになる。
そうなることを期待して虎梁は息を吐いた。
◇
翌日。夏魁は城下にいた。
馬商から早馬を借り街道を駆けていた。向かう先は遡州綾架。早馬を乗り継いで綾架までは五日程。目立たぬよう旅人の装いで一路、綾架を目指した。荊闇を囲む山脈の麓の街、綾架に辿り着いたのは首都を出て五日後の夕刻だった。
馬商に馬を返すと綾架の街へと入った。中は旅人や住人で大層賑わっている。入口の門を入ると真っすぐ大通りが続いていて、道の両側に宿や食事処など様々な店が並ぶ。店の前には露店が多く並んでおり、活気に満ちていた。
辺りを一通り見まわし、門に近い場所の宿へと足を向ける。門構えはほどほどに大きく、入ってすぐの所は食堂になっていて、夕食の人で賑わっている。店内の趣からして中の上の宿のようだ。
「食事ですか?お泊りですか?」
店内を見回していると従業員と思しき男に声を掛けられた。
「泊まりたいんだが空きはあるかい?」
「お泊りですね、空いてますよ」
男はそう言うと、別の従業員の女に部屋の案内を頼んだ。恰幅のいい女に案内されて部屋へ向かう途中、向かいから二人の男が歩いてきた。狭い廊下ですれ違う際、男たちは軽やかな身のこなしで女と夏魁を避けた。その動きが妙に洗練されていて夏魁は眉を顰めた。そう、まるで兵士のような身のこなしだった。男たちの服装は旅人にありがちな短い袍だったが、纏う雰囲気がただの旅人ではないことを物語っていた。
「最近は旅人は多いのかい?」
軽い調子で夏魁は女に話しかけた。女は軽く振り返り、その顔に笑顔を見せ
「多いね。今日は空きがあったから良かったけど、最近は連日満室になることも多いんだよ。お客さん、運が良かったね」
「それは僥倖だ。しかしなんだってこんなに旅人が多いんだろうね。街に入って人の多さに驚いてしまったよ」
「そうだねぇ、確かに例年にない多さだね。よその国の旅商人も多いみたいだし、王様が交易路を広げたのか功を奏しているんじゃないのかね」
そう言って女は「あぁ、この部屋だよ」と三階の一室に夏魁を案内した。
「鍵は渡しておくよ。風呂と厠は共同だ。食事は下の食堂で頼んでおくれ」
鍵を手渡して女は戻っていった。夏魁は渡された鍵で扉を開けると部屋の中に入った。
一つの部屋の中に寝台と卓子と長椅子があり、壁際に箪笥が置かれただけの簡素な部屋だった。夏魁は部屋の中から扉に鍵をかけ、寝台へ腰を下ろした。長時間乗馬していた体は思いのほか疲れていた。息を吐いて体をそのまま寝台に横たえると、壁の向こうから物音がした。どうやら壁が薄いようで人の気配がしている。そのまま人の気配を感じながら暫し体を休めると、食事のため一階の食堂へ向かった。
食堂は益々賑わいを見せていた。空いていた席に座ると従業員がすぐに注文を取りに来たので適当に何品か頼んだ。辺りを見回すと、食事をしている人々は様々だった。旅商人らしく大きな荷物を足元に置いた男、家族で食事に来ている一家、泊り客なのか荷物は持たずに食事をしている者、そんな中、先ほどすれ違った二人の男の姿があった。
男たちは何ということは無い、普通に食事をしているだけなのだが、僅かに違和感を覚える。それは食事をする姿勢が妙に良かったり、袍の袖から出ている腕が妙に鍛えられているように見えるところからきている。まるで兵士の様だ、と先ほども思った感想を抱いたところで食事が来た。
繁盛しているのが理解できる味の食事をとっていると、隣の席に座った白髪交じりの男が声を掛けてきた。
「お前さん、どこから来たね?」
彼の足元には行商で使う品が入っているのだろう。背負子のついた行李が置かれている。彼の問いに夏魁は人当たりのいい笑顔で答える。
「庁會から。綾架の街は庁會よりは小さいと聞いていたけどこの賑わいは庁會に負けてないな。小父さんはどこから?」
「儂は寧から。黄経由で商いできたんだが、庁會も通ってきたよ。あそこも賑やかな街だね。この街も負けず劣らずで良いところだ」
「寧からわざわざ。遠路はるばるご苦労なことで」
寧、という言葉に夏魁は僅かに眉を上げる。
「寧は最近、お国がなんだか風向きが怪しいって噂を聞いたが本当かい?」
そ知らぬふりで聞いて見ると、男は困ったように眉を下げた。
「陽にも噂がとどいているのか。そうなんだよ、王様と王弟様の仲が良くないらしくてね、あちこちできな臭い噂ばっかりで嫌になるよ」
「だからこの国に?」
「あぁ、陽は景気がいいから寧で商いをするより出稼ぎにきた方がずっと儲かるんだ」
「それじゃあ、たくさん儲けて帰らないとな」
「そうなんだけどね、不穏な噂が多くて寧にいるのも不安なんだよ。早いとこ落ち着いてくれるといいんだけどねぇ」
そう言うと男は茶を飲んで軽くため息を吐いた。一瞬、視線を感じて視線の元を辿ると、あの二人の男と僅かに目が合った。直ぐに視線はそらされたものの、男たちの気配が僅かに緊張を帯びているのが見て取れた。寧の話題に反応する兵士のような男たち。夏魁の中で虎梁の仮説——寧の者が綾架の街に入り込んでいる――が真実味を帯びてきた。
男たちから視線を逸らしながらも、その気配に意識を集中して食事を続ける。男たちは食事を終えると宿を出て、雑踏の中へ消えていった。
翌日、夏魁は朝早く宿を出ると綾架の街の外れへと向かう。夏魁は馬商で馬を一頭借りると、入口の門から反対側の門へと向けて馬を走らせた。馬を駆けさせること暫し。賑やかな大通りから離れ、建物も疎らになってきた道の先は三方に分かれる。その先には急峻な山が来るものを拒むかのようにそびえ立っており、その山へと続く道は鬱蒼とした木々と叢に吸い込まれていた。遠目から見ても打ち捨てられた道だが、その前には兵士が立っていて通りすがる人に目を光らせているのが分かった。
荊闇へ続く公の道はこの道一本のみ。だが幾つかの抜け道が存在する。記憶を探りながらその場所を探して馬を走らせる。公道に程近い場所にある抜け道の出口には、ここにも兵士が立っているのが見えた。恐らく、樵が作った獣道と報告があった道なのだろう。もし樵が寧によって仕込まれたものだとしたら、その獣道は偽装の可能性が高い。夏魁はその道を素通りして別の道を探した。
記憶にある他の抜け道の場所は他に三箇所。そのうち二箇所は長期間誰も通った形跡がなく、完全に消え去っていた。最後の三箇所目は公道から最も離れたところに位置する。そこに辿り着いた夏魁は眉を顰めた。
小さな沢に沿って続く小道の入口は、茂った木々の枝によって閉ざされているように見えた。だがよく見ると枝が折られ、自然に見えるよう装って入口が隠されている。近づいて枝をどけてみると、その先には踏みしめられた道が続いていた。無人になり、立ち入りが禁止されている荊闇に続く道が、本来であれば生きているはずがない。確実に最近まで誰かがこの道を通っていたことを表している。何者かの痕跡をその道に確認し、夏魁は一度、綾架の街へ戻った。馬商へ馬を返し、荷物を整えると徒歩で先ほどの道を目指した。
道の入口へ着いた頃には既に日が高く昇っていた。辺りに人の気配が無いことを確認し、夏魁は道へと足を踏み入れた。木々に覆われたその道は沢沿いに山を登っており、最も早く山を越えることが出来る道だった。その分、道のりは険しく道ならぬ道を岩をよじ登るように進む場所も多かった。だがその岩場に綱が通してあったり、道を塞ぐ木々が切り倒されたりして明らかに人の手が加わっている。つまり、定期的に何者かが通っていることを示している。
険しい道を、しかし軽々と夏魁は迷いのない足取りで登ってゆく。かつて渓があった頃には頻繁に使っていた道だ。十数年ぶりとはいえ変わらぬ山の様子に懐かしさを感じながらただひたすら足を進める。
休憩を挟みながら黙々と登っていくと、不意に前方に人の気配を感じた。急いでそばの茂みに身を隠して様子を伺うと、上の方から複数の人影が山を下りてくるのが見えた。人の数は全部で男が五人。皆が旅人の装いで背中に大きな背負子を背負っている。この険しい山の中を旅人が通るはずもなく、ましてや続く先は荊闇しかない。そして荊闇から更に先の道は寧へと通じている。
――一伍、五人。
目の前の道を一列になり下ってゆく男たちを見ながら夏魁は息を潜めていた。
一伍は軍の中の最も小さな単位。兵士五人で一伍を形成する。通り過ぎた五人はちょうどその単位に合致する。偶然とは思えない一致に不穏なものを感じながら、夏魁はその後姿を見送った。
完全に男たちの気配が無くなってから再び山を登る。日が暮れて、夜目が利く夏魁も山の中では身動きが取れず、山の中で一夜を明かして夜明けとともに再び歩き始めた。その道中、また五人組の旅人風の男たちが山を下ってくるのを見かけてやり過ごした。山の頂に辿り着き、断崖絶壁から眼下を一望する。そこにはかつて自分の知る景色と違わぬ絶景が広がっていた。
急峻な山々に囲まれた盆地には更に小さな山々が連なっており、岩柱を立ち並べたような幻想的な風景が広がっている。その小さな山々に囲まれた盆地が荊闇、かつての渓だった。
山を下り、更に小さな山を越えて荊闇が一望できる場所まで来て夏魁は眉を顰めた。前にここに来たのは渓が滅んで暫く経ってからだった。劫火に呑まれ灰塵に帰したそこは黒に塗り込められた亡者の原だった。あれから十数年。既に原野に還っているはずの其処には天幕が張られていた。天幕の側には数名の人影も見える。
予想が的中したな、と夏魁は思った。荊闇を中継にして寧が陽に入り込んでいるという虎梁の予想が。天幕が寧のものという確証はない。だが、確実に陽のものではない。荊闇と国境を接しているのは寧だけだから寧のものと思って間違いないだろう。道中すれ違ったあの男たちも寧の者なのだろう。少人数でああして山を下りて綾架や付近の街に潜伏して機を伺う。それしか考えられなかった。
だとすると、一刻も早く虎梁に知らせなくてはならない。抜け道が定期的に使われているところを見ても、かなりの数が陽に入り込んでいるものと思われる。綾架の街が賑わっているのもそれが要因なのではないだろうか。宿で見かけたあの男たちも寧から入り込んだ兵士なのだろう。だとすると寧が事を起こすのはそう遠くない。一刻も早く知らせてことが起きる前に阻止しなくてはならない。虎梁を――月潤を戦場へ送り出さないためにも。
視界に映る天幕と人影を一瞥して、夏魁は踵を返した。




