深夜の訪問者
会議が終わった頃には昼近くになっていた。虎梁は一度自宅へ戻り私服へ着替えると城下へ下り、夏魁から指定された瑞鄭楼という食事処へ夏魁への伝言を残した。ついでに昼食をそこで取ると城へ戻った。
午後からは公務の予定が無いため飛を手合わせにつき合わせた。飛は文官だが武官としてもやっていけそうな程に刀の腕が立つ。それ故、空いた時間があると虎梁はいつも飛を相手に手合わせをして鍛錬をしていた。木刀で無心になって打ち合っているとその時だけは心を騒がせる不安を忘れることができる。何度も打ち合っているうちに手にした木刀が折れて先が弧を描いて飛んで行った。
「太刀筋が乱れておりますよ」
肩で息をしながら飛が言った。虎梁もまた、息を上げながら汗を拭う。
太刀筋が乱れているということはそれだけ心が乱れているということだ。竹筒から水を飲みながら虎梁は苦笑する。心を乱している原因に心当たりがありすぎた。梨花のこと、夏魁のこと、荊闇から上がる煙のこと、寧の不穏な動き、どれ一つとっても心を騒ぎ立てるのに十分過ぎる。無心になろうと力が入りすぎてしまったようだ。折れた木刀を端に放って虎梁は大きく息を吐いた。
井戸から水を汲み、冷たい水で顔を洗うと少し落ち着いた。木陰に腰を下ろすと飛もまた隣に腰かけた。
「迷っておられるのではありませんか?」
飛が静かに問う。虎梁はそんな飛をちらりと見て「そうかもな」と呟く。
昨夜切り捨てたばかりの梨花を思うと胸の奥に苦いものが広がる。長年信頼してきた腹心に裏切られたという悲観。第二の母を失ったという喪失感。それでもまだどこかで信じたいと思う気持ち。様々な気持ちが入り混じって虎梁の心を乱していた。
昨夜、虎梁は梨花ではなく夏魁の言を受け入れた。長年共にいた乳母ではなく、兄と名乗る夏魁を信じたのだ。それは自分で選んだ選択であり、強要されたものではない。それに対して後悔はない。軍に入って以来感じていた違和感——聞かされてきた王の残虐さと相反する為人を夏魁の言葉が裏付けた。だから信じた。受け入れた。そう納得するものの、積年の情はそう簡単に覆せるものではない。梨花に対する未練がまだあった。
「あの日以来、私はずっと梨花に依存してきたのだな」
そう独り言ちる。家族を失ったあの日から依存してきたのだと思う。親を失った子供が身近な大人に庇護を求めるのは当然のこと。その求めた先が梨花だった。乳母として、物心つく前から側にいてくれた存在だったから無条件に庇護を求めて当然だった。疑うことを知らなかった子供の心はさぞ御しやすかっただろう。復讐の旗印の下、それだけに邁進すればいい状態を梨花が作っていた。梨花の敷いた道を疑うことなく歩んできた。
「私も同じです」と飛もまた呟く。あの惨禍を逃れた同胞をまとめ導いていたのは梨花だった。虎梁の乳母として同胞たちを率いるのに申し分ない立場だったし、その指示に疑うことなく従い突き進んできたのだ。その梨花が、実は寧と通じていて虎梁をも寧に通じさせようとしているなどにわかには信じがたいことだった。だが虎梁がそう言っている以上、梨花の謀反は事実なのだろう。
ちらりと飛は隣に座る虎梁を伺う。思い詰めたような表情で空を睨む顔が見えた。
飛にとって唯一無二の主。物心ついた頃から主として仕えるよう言われてきた。そのことに不満を抱いたことは無いし、一族の期待を担って歩む虎梁を尊敬していた。軍に入った虎梁を追うように国府へ入り、そばに仕えることが決まった時は喜びに震えた。一族再興への道を共に歩めると希望に満ち溢れた。だが、将軍となった主にはかつての復讐に燃えた姿は無かった。代わりにどこか思い悩むように、憂いを帯びた表情を見せるようになり、本心を語ってくれなくなった。飛が一族の期待を口にすればするほどに憂いの仮面は堅固になった。
それと同時に飛自身、王と接する機会が増えその為人に自分が聞かされてきたものに対する不信感を抱き始めていた。これまで当然のように信じていたものに対する疑念が湧いてきた。だが梨花に叱咤されその疑念に蓋をしてやり過ごしてきた。
「私も梨花様の言葉に全幅の信頼をおいておりました」
梨花を信じていれば間違いないと、目を背けてきたのだ。何故ならそれは自分で考えるよりも遥かに楽なことだったから。定められた道を歩く方が楽だったからに過ぎない。もし梨花が虎梁を寧と通じさせようとしなければ、これからも梨花の敷いた道を唯々諾々と歩いていったのだろう。だが虎梁は寧と通じることを拒んで梨花を排除した。飛はそんな虎梁についていくと決めた。
虎梁は視線を飛に向けると
「だが、これから進む道は自分で選ぶ」
誰かの敷いた道を行くのではなく、自分で考えて自分が選んだ道を行く。そうでなければ自分の行動に責任など取ることが出来るはずもない。復讐を誓った月潤はもういない。此処にいるのは陽の将軍、虎梁だ。
静かに言う言葉には確固たる意志が現れていて飛は静かに頷いた。
「どこまでもお供いたします」
◇
その夜。虎梁は自邸の中庭から空を仰いでいた。昨日の深夜の外出に加え、日中、飛と散々手合わせをした体は疲れていたものの、どうにも気が昂って眠れなかった。
四方を壁に囲まれた中庭には縁台が置かれており、それに腰かけて空を見上げる。今日は雲が出て月が見えない。月明りも無いため辺りは真の闇に包まれている。申し訳程度に灯された燭台の明かりが僅かに揺れて辺りを照らしている。使用人も既に帰宅している時間のため、自邸には自分以外に人気が無く静まり返っていた。ひやりとした空気が肌に心地よく、夜着に羽織った上衣の襟を合わせて息を吐く。
昼間、夏魁に伝言を残したがいつどうやって会いに来てくれるのだろうか、と思っていると物音がした。屋根の上に人影を見止め身構える。黒づくめの衣装に身を包んだ人影は、虎梁で無ければ闇と同化して見分けがつかないだろう。隠密行動を取っているのが分かるその姿に、腰に下げた刀に手を掛けて人影を睨む。人影は身軽な動きで屋根から降りて燭台の明かりの届く範囲に来た。明かりに照らされた顔を見て虎梁は警戒を解いた。
「兄様」
「早速伝言を残してくれただろう。待たせた」
そう言って夏魁は微笑んだ。
縁台に座るよう夏魁を促して虎梁は室内から酒瓶と盃を持ってくる。盃を夏魁に渡すとそこへ酒を注いだ。
「それで、梨花との話はどうだった」
夏魁の問いに虎梁は僅かに目を伏せた。昨夜、夏魁の言を受け入れ梨花を切り捨てた。そのことは後悔していない。夏魁の言葉に流されたわけでもなく自分で考えて判断した結果だ。陽の将軍として寧と通じることはあり得ないし、それを促してきた梨花と今後も繋がりを持ち続けることもあり得ないことだ。だが、どうしても長年の情は簡単に捨てることは出来ない。どこかで後ろめたい気持ちを抱きながら口を開く。
「梨花は私に寧王へ助力を乞うよう言ってきました」
「直球だな」と苦笑交じりに夏魁が言う。「それで、それを受け入れたわけではないだろう」
「当然です。私は陽の将を拝しているのだから受け入れられるはずがありません」
そう言って苦い笑みを浮かべる。
「まさか本当に梨花の口から、寧との繋がりを示す言葉が出てくるとは思わなかった」
夏魁の言葉を疑った訳ではないが信じ難かったのも事実。梨花自身の口からその言葉が出てきて納得せざるを得なかった。
「それだけ焦っているのだろう」
「焦る?」
思いがけない言葉に虎梁は首を傾げる。
「寧の中で内紛の動きがある。現王と王弟で勢力争いが起こっているようだ。寧王は自身の覇権を強めるため、精力的に周辺国への動きを強めているようだな」
「それは陽だけに限ったことではなく?」
「陽だけじゃない。呉や黄の周辺もきな臭くなっている」
呉と黄は寧と国境を接する国であり寧より規模は小さい国だ。つまり寧は国境を接するすべての国との間で諍いを起こそうとしているということになる。
「その中でもやはり陽が一番乱を起こすには手っ取り早いだろう。何せお前がいる。渓の再興を理由にお前と寧王を通じさせ、お前に陽王を討たせることが出来れば容易く陽が取れるのだから。梨花もそのつもりだったのだろうが当てが外れたようだな」
そう言うと夏魁は盃の酒を一口含む。
「……私は梨花の駒に過ぎなかったのですね。」
夏魁の口から語られる言葉に思わずそう呟いた。梨花が虎梁を寧に通じさせようとしたことについては怒りを以って理解した。だが誰かの口からその事実を聞かされると胸が痛む。梨花を慕っていた自分の思いを嘲笑われているようで苦しかった。
「すまなかった。お前の気持ちを慮っていなかった」
謝る夏魁に首を横に振る。
「いえ……。梨花は最初からそのつもりだったのでしょうか」
最初から駒として見られていたのだろうか、と虎梁は誰に問うともなく呟いた。そう、確かに軍に入り地位を上げれば王に近づくことも不可能ではない、と幼い月潤に言ったのは梨花だった。あの頃から既に駒として見られていたのだろうか。だとしたら随分な賭けだと思う。軍に入ったところで功績を残して上へと上り詰めるのは万に一つの可能性に過ぎない——実際虎梁はそれを成し遂げたわけだが。
そう言うと夏魁は軽く首を傾げる。
「軍に入れるのは梨花の筋書きなのだと思うが、最初の狙いは違ったと思うぞ」
「別の狙いがあったということですか?」
「あぁ。恐らく梨花の筋書きではどこかで翔霞を取り戻すつもりだったのではないかな。実際、梨花はずっと翔霞の行方を追っている」
翔霞の名を聞いて虎梁は思わず胸元を抑える。懐に忍ばせたその品を。既に手元にあることを伝えた方が良いか逡巡するが、夏魁は気付かず言葉を続ける。
「翔霞を取り戻してお前に使わせることが最初の目的だったんじゃないかな」
「私に翔霞を使わせる……?何のために?」
そう問うと夏魁は一瞬言葉を噤んだ。少し考えるような表情を見せる。
「翔霞の持つ力については知っているな?」
「あらゆる液体を自在に操ることが出来る、でしょうか」
「そうだ。あらゆる液体を意のままに操ることができる。人体の六割は水分なのだから、翔霞の力を使えば人でさえも自在に操ることが可能だ。双子だったお前が使えば一度に大勢の人間を操ることも可能だろう」
その言葉に虎梁は息を呑んだ。確かに人体の六割が水分なのだから、軍の中で翔霞の力を使えば、陽の軍隊を意のままに動かせるということになる。畢竟、陽の軍隊を自身の傀儡にすることが出来るということだ。
翔霞の力は使用する者の力量に左右される。並の者が使えばせいぜい自分の周辺三尺程度の範囲しか効果は及ばないが、王がこの力を行使すれば一里にも及ぶ。双子だった虎梁は父王よりも強大な力を持って生まれてきた。そんな虎梁が使えば、少なくとも戦場丸ごと影響を及ぼすことも可能であろう。
改めて、自分の持つ力と翔霞の組み合わせが脅威になるものだと認識し唇を噛んだ。
「梨花は、翔霞をお前に使わせて陽の内部から騒動を起こさせようと目論んでいたんじゃないかな。軍に入って禁軍に配属されれば王の傍に侍る可能性もあるし、禁軍に配属されなくとも州師であればその中で乱を起こし、その隙に乗じて寧が陽に攻め込むことも可能だからな」
「だから梨花は私に翔霞の行方を捜してほしいと言ったのか」
そう呟く虎梁に夏魁は「あくまで俺の想像だけどな」と苦笑する。
「だが、予想以上にお前は出世して禁軍将軍になった。直接王を狙える立場になったのは梨花にとっては嬉しい誤算だっただろう。翔霞なくとも事を成すことは可能になったが、事を成した後の利用価値も含めて、やはり翔霞は手に入れたいところだろうな」
「翔霞の有無は重要なのですか?」
「ではないかと思う。翔霞のもう一つの力はなんだ?」
そう言われて思い出す。
「渓の玉泉に力を注ぐことで月雫石を生み出すことでしょうか」
「そうだ。一つ手に入れれば巨万の富を得られる月雫石を生み出す代物だ。お前と翔霞は寧にとっては喉から手が出る程に欲しい存在だろう。翔霞を手に入れられていない以上、そんなに早く寧が動くはずはないと思っていたのだが、思いのほか国内事情が切羽詰まっているようだな」
そう言って夏魁は手の中の盃を空ける。虎梁はそんな夏魁を見ながら胸元で拳を握る。懐に忍ばせた翔霞の存在を夏魁はまだ知らない。昨夜、梨花にも告げなかったがそれは正解だったのだろう、と夏魁の話を聞いて思った。梨花が、ひいては寧が重要視しているのであれば知られてはならないだろう。知られてしまえばどのように利用されるかも分からない。勿論、今の虎梁であれば容易く利用されることは絶対にさせないが警戒はしておくに越したことは無いだろう。
「……もし翔霞が手に入ったら、兄様ならどうされますか?」
「どう、とは?」
訝し気に夏魁が首を傾げる。
「何かに利用されますか?」
そう問うと夏魁は静かに笑った。
「ないな。渓という国が無い以上、翔霞はただの笛だ。俺やお前が力を行使しようとしない限りな。万が一手に入ったとしても、そんな諍いの火種になるようなものを俺は使う気はないし、お前もそうだろう?」
問われて頷く。虎梁も翔霞の力を使う気は毛頭無い。その気になれば一国を滅ぼすことも可能な代物だ。使えるわけがない。そう言うと、何かに気付いたように夏魁が眉を顰めた。
「もしかして手に入れているのか?」
虎梁は懐に手を入れ忍ばせたそれを取り出す。夏魁には知らせておいた方が良いと思った。絹布の包みを開くと、白くとろりとした色合いの翔霞が燭台の明かりの下に晒された。今宵は月が無いため、不思議な光沢は見られない。翔霞を見止めた夏魁の目が驚きで見開かれる。
「いつ……手に入れたのだ」
「ほんの四日程前です。主上より賜りました」
「陽王が?どうやって?」
「城下の商人より宝庫に献上されたそうです。宝庫に眠らせておくよりは私に使って欲しいと」
「梨花は知っているのか?」
「いえ、まだ誰も知りません。今、初めて兄様へお伝えしました」
「そうか……」と言って夏魁は翔霞を見る。その顔には複雑な感情が入り混じっていて虎梁の心をざわつかせる。実物が手元にない間は使う気が無いと言っても、実際に現物が手元にあると心が変わるということは多々ある。夏魁が心を変えてしまったらどうしよう、と一瞬思った。
僅かな沈黙の後に、夏魁は虎梁へ視線を戻した。
「翔霞が手元にあることは誰にも知られてはいけない。その存在はどの国にとっても猛毒となる。お前にその気が無くても、人を容易く操ることが出来る代物だと分かれば、どんな手を使ってでも利用しようとする者が現れる。だから、その笛が翔霞であることは誰にも言ってはいけない。俺も誰にも言うつもりはない。俺たちだけの秘密だ。いいな」
真摯な眼差しに虎梁は頷く。そして安堵した。翔霞の現物を目の前にしても変わらない夏魁の態度が心強かったし、翔霞という秘密を共有できたことが嬉しかった。これまではどんな秘密も悩みも一人で抱え込まなくてはならなかったが、これからは分かち合ってくれる人がいるというだけでこんなにも心が軽くなるものだろうか、としみじみ思った。
ふと、夏魁が虎梁を見つめたまま何か思案しているような顔になっていることに気付いた。真摯な眼差しがもの言いたげに僅かに揺れている。
「兄様?どうかされましたか?」
「……お前はいいのか?」
「え?」
静かな声で問われ首を傾げる。夏魁は手の中の盃を弄りながら少し戸惑った様子を見せた。
「翔霞を手に入れたことで、お前は力を得たことになる。その気になればこの国を転覆させることも可能なほどの力を。その力を以てすれば陽を滅ぼし、渓を再興することも夢ではない。渓の再興を目的にずっとここまで走り続けてきたのだろう。それを成さずに、お前はそれでいいのか?」
その問いに虎梁は苦笑を返す。
「いいのです。そもそも渓の民はほんの僅かしか生き延びることができませんでした。その僅かな民で一国と名乗ることなどできないし、他国の民を流入させて再興させれば、それは最早渓とは言えないのではないでしょうか」
そう言って掌に乗せた翔霞を見つめる。懐かしい故郷の情景を刻んだその造形が胸に痛い。
「あの日、確かに私は国を滅ぼした者への復讐を誓い、必ず渓を再興すると誓いました。その思いだけで軍に入り此処まで上り詰めたのです。ですが、地位が上がるにつれて、聞かされていた獣のような王の姿と、実際に接して感じた主上の為人の乖離に苦しみ、自分が取り返しのつかない過ちを犯しているのではないか、と疑念を抱いてきたのです。そしてその疑念を兄様が裏付けてしまった」
繊細な彫刻に指を這わせるとひやりとした触感がする。いつの時代に彫られたものか定かではないその繊細な細工は、深い山の中でひっそりと独自の文化を築いてきた渓そのもののような気がして望郷の思いに駆られる。
「渓が滅びた理由が、渓に義が無いのであれば仇討ちなど以ての外でしょう。父様の望外な野心の所為で滅びたのであれば、それは受け入れなくてはならない試練だと思います。少なくとも私は、渓の王位継承者として受け入れなくてはならないのです」
そう言って翔霞を握りしめ、胸に抱く。王位継承者であることを示す宝笛。だが渓亡き今は諍いの種となり得る遺物だ。故にこの存在は誰にも伏せて知らせるべきではない。
「月潤」と夏魁がその名を呼んだ。「お前はこの先どうしたい?」
「私は――この国の民として、虎梁としてこの国を守ろうと思います。幸いにも将を拝しているのですから、最もこの国を守るのに適した配置です。それが、敗国の王に与えられた唯一の道では無いでしょうか」
「月潤としてではなく、虎梁としてこの国を守るか……。分かった」
そう言うと夏魁は立ち上がる。訝し気にその姿を見上げると夏魁は虎梁へ向き直り、その前に膝をついた。
「兄様?」
「ならば」と虎梁の手を取り夏魁は言う。
「俺はお前の兄として、お前を護る。お前が虎梁として生きるのなら、俺は情報屋の夏魁として陰からお前を支えよう。禁軍将軍としてお前が最大限に活躍できるよう、俺が必要な情報を持ってくる」
護る、と言われて虎梁は目の奥が熱くなった。
復讐を誓ったあの日から、自分は同胞たちの思いを守るための存在であり、誰かに護ってもらうことはなくなった。軍に入ってからは特に、自分の身は自分で護らなければすぐに蹴落とされ踏みにじられてしまう環境下にいた。そんな環境を生きてきた身にとって、無条件に「護る」と言ってくれる兄の存在は何物にも代えがたい。幼いころに親と家族を失い家族の愛に飢えていた虎梁には、身に染み入るようにその思いが嬉しかった。
「ありがとう、兄様」
目の奥から込み上げてくるものを堪えながら微笑んだが、抑えきれなかったものが一筋頬を伝って落ちた。焦ったように手巾を取り出し、涙を拭ってくれる夏魁の姿に温かいものを感じ笑みが零れた。
「しかし、兄様の方こそよろしいのですか?」
「何がだ?」
「その……兄様は殷石のお抱えではないのですか?」
そう言うと夏魁は嫌そうに顔を顰めた。
「お抱えではない。あれはただの金蔓だ」
「金蔓とはまた随分な」
「他人を蹴落とすのにありとあらゆる情報を必要としているからな、あれは。そういう意味では非常に金払いのいい上客ではあるが、断じてお抱えなどではない」
憮然とした表情でそう言う姿にどこか昔を思い出して虎梁は笑う。
「でも、私のために動いてくださるのなら兄様が大変になりませんか?」
殷石を金蔓と言い放つのだから今後も殷石の依頼はきっと受けるのだろう。その上で虎梁のためにも動くとなると相当な労力ではないのだろうか。そう思い問うと
「俺は何ということもない。これまで通り情報収集をして、必要な情報を必要なものに渡すだけだ。やること自体はこれまでと大差ない」
それよりも、と少し眉を顰めて声を落とす。
「俺はお前が心配だ。将軍という立場上、今後も危険な戦場に赴くことも多いだろう。将軍ともなれば後方に控えて前線に出ることも少ないだろうが、それでも危険は付きまとう。俺はそれが怖い。戦場においては、俺は役に立てない」
不安をにじませた声で夏魁は言う。その心配を受けて虎梁は苦笑する。
「この地位にある以上は避けて通ることは出来ない道です」
軍に入った以上、どんなに怖くても決して怖気づくことが許されない道。望んで自分から入ったのだからそこに潜む危険も承知のこと。だが、身内からしてみればたまったものではないだろう。この地位にあることで余計な心労を掛けてしまうことを申し訳なく思いながらも、案じてくれるその気持ちに胸が熱くなる。
「絶対に何もない、とお約束はできませんが、私も自分の命は惜しい。それに、兄様がいてくれるのだから、戦地に赴いたとしても必ず戻ってきます」
その言葉に夏魁は頷いて虎梁の手を力強く握った。
「俺はもう二度と家族を失う痛みを味わいたくない。だから、陽が他国と戦に発展する前に各国の情報を集めてお前に渡す。お前ならばうまく使ってくれるだろう」
「約束します。兄様が集めてくれた情報は必ず生かします」
握られた手を握り返して力強く言うと夏魁は静かに笑った。
「期待している」
握った手から温もりが伝わってきて、軍に入ってから初めて虎梁は自分の命が惜しいと思った。自分を案じてくれる人がいて、自分も案じる人がいる。ただそれだけのことなのに「それだけ」がとても重かった。でも、とても嬉しかった。




