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幽愁の月  作者: 巫部朱莉
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梨花(りふぁ)③

「しかし、月魁(ゆえくい)様を名乗るその者は一体何者でしょうか」


 梨花(りふぁ)の中では夏魁(しゃくい)月魁(ゆえくい)の成りすましということで結論づけられたようだ。おそらくこれ以上、虎梁(ふーりゃん)が何を言っても聞き入れられることはないだろう。胸の内にどこか苦々しいものを感じながら虎梁(ふーりゃん)は口を開いた。


夏魁(しゃくい)と、名乗っていた。情報屋だと」

夏魁(しゃくい)……ですか」


 一瞬、梨花(りふぁ)の瞳が険しくなった。だが、それは本当に一瞬のことですぐに元の穏やかな眼差しに戻る。だがその一瞬の変化に妙な胸騒ぎがして問う。


「知っているのか?」

「いいえ、私は存じません。ですが情報屋で姫様のことを知られているとなると、早急に対策が必要ですね」


 そう言うと何かを考えるようにじっと虎梁(ふーりゃん)を見つめる。ややして意を決したように口を開いた。


「姫様のことがその情報屋から陽に漏れるのは時間の問題かと思われます。そうなったときのため、寧王に助力を求められては如何でしょうか」


 その瞬間、虎梁(ふーりゃん)の全身からザッと音を立てて血の気が引いた気がした。


「今、何と言った」


 絞りだした声は冷たい響きをしていた。出てくるはずのない者の名を耳にして頭が芯から冷える気がした。


「何故そこで寧王が出てくる」


 その声には自分でも驚くほど怒りが滲み出ていた。それを感じ取ったのか、梨花(りふぁ)がビクッと身を竦ませる。虎梁(ふーりゃん)は握られた手を振り払い卓子に拳を叩きつけた。天板が揺れ茶器がガチャと耳障りな音を立てる。


「寧と陽は敵対している国だということは其方も知っているだろう。私は陽の将軍だ。何故寧王へ助力を乞えと言うのか」


 思わず語気が荒くなる。


 寧と陽は隣り合っていながら国交が無い。陽がまだ今のような大国になる前、度々寧から侵略を受けていた歴史もあり、寧に対しては、いつ再び侵略してくるか分からない危険な存在だと認識されている。実際、寧との国境は他の近隣諸国との国境より警備が厳重で、兵の配備も多くされている。そんな敵国の王に、陽の将軍である虎梁(ふーりゃん)が助力を乞うなど天地がひっくり返ったとしてもあり得ないことだ。


「私に陽を売れ、というのか?」


 怒りに声が震える。跪いた梨花(りふぁ)は勘気に触れたことを察して顔の色を悪くしている。だが、毅然とした態度で口を開く。


「私は陽の将軍である虎梁(ふーりゃん)様ではなく、渓の王である月潤(ゆえるん)様に申し上げているのです。姫様の正体が陽に知られてしまえばそのお立場は一瞬で崩れるのですよ。亡国の復讐を目論む反逆者として処刑されるやもしれないのです。万が一そうなった時に、姫様はどうされるおつもりですか。唯々諾々と処刑を甘んじて受け入れるおつもりですか」


 そう言われて虎梁(ふーりゃん)は言葉に詰まる。夏魁(しゃくい)虎梁(ふーりゃん)のことを殷石(いんしー)に知らせるつもりはないと言った。虎梁(ふーりゃん)はその言葉を信じているが、梨花(りふぁ)にそれを言ったところで信用されるはずもない。それどころか、得体のしれない者の言を安易に受け入れるつもりか、と責められるのがおちだ。


 口籠ってしまった虎梁(ふーりゃん)に対し、険しい表情で梨花(りふぁ)は続ける。


月駿(ゆえじん)様……姫様のお父上は寧王と非常に懇意にされておりました。あの惨劇で月駿(ゆえじん)様が亡くなられたことにとても心を痛めておられたのです。その月駿(ゆえじん)様の娘である姫様が助力を求めれば、寧王は喜んで力をお貸しくださるでしょう。陽の将軍としてではなく、渓の王としてのご自身の立場をお考え下さいませ」


 渓の王として、その言葉に心の中の重石が重みを増した気がした。祖国が滅びたあの日からずっと虎梁(ふーりゃん)に課せられている、期待という名の重石。月潤(ゆえるん)の名を捨て虎梁(ふーりゃん)と名乗った日からその身を縛り付けて、もはや解くことが出来ないくらい雁字搦めになっている重たい鎖。その鎖の先を握っているのは紛れもなく梨花(りふぁ)だ。


 思い返してみれば虎梁(ふーりゃん)になってからの自分の行動は全て、梨花(りふぁ)の敷いた道を歩まされていたのではないだろうか。渓の王として、そう言われてしまえば虎梁(ふーりゃん)には否と言うことは出来ない。皆の期待を一身に背負って――背負わせたのは他でもない梨花(りふぁ)だ——ひたすらに梨花(りふぁ)の敷いた道を歩き続けてきた。そう気づいたとき、何かが腑に落ちた気がした。


「渓の王として、と其方は言うがそもそも渓の民が今、どれほどいるというのだ」


 あの日、生き延びた渓の民はせいぜい数十名程度。それだけの人数で国を名乗ることなどできはしない。


「其方は常々私に一族のため国の再興を、と言ってきたが田舎の一集落にも満たない人数でどうやって国を再興するというのだ」


 これまで当たり前のように言われ続けていた一族の再興が、到底実現不可な世迷言だということに今更ながら思い至った。


 雁字搦めになっていた鎖の一端が少し緩んだ気がした。


「生き延びた者全員で渓に戻ったとしても、十二年の間に草木に覆われ、山に呑まれたあの場所を、再び人が住める場所に造り直すことができるのか」


 かつて渓の都だったあの場所は、今は草木に覆われた荒野と化している。仮に手を入れたとしても、とても人が住めるようになるような状態ではないだろう。


「渓を滅ぼした陽への仇討ちを決めたのは私だ。だが、仇討ちをしたところで渓を再興できるとは今の私では到底思えないのだ。其方の言う一族の再興とは一体何だ」


 心の重石を振り切るようにして絞り出した声には沈痛な色が滲み出ている。


「それでは姫様は諦めてしまうと仰るのですか」


 愕然としたような顔で梨花(りふぁ)が呟く。


「あの日の光景を忘れてしまわれたのですか。劫火と陽の兵士によって蹂躙された故郷を。無慈悲に奪われたご家族の無念を。全て諦めてしまうのですか」


「違う」と呟いた声は重く沈んだものとなった。あの日誓った復讐を諦めているわけではない。ただ、現実的には武戴(うーだい)を討つ力量は自分にはない。そう思って軽く自嘲する。


 違う。力量が無いのはただの言い訳に過ぎない。武戴(うーだい)に信用されている今の自分であれば、酒宴の際に懐に刀を忍ばせて、隙を突いてその命を屠ることは可能だ。だがそれを実行に移すとなると、虎梁(ふーりゃん)にはそれができるとは思えなかった。これまで接してきて分かった為人が、梨花(りふぁ)から聞かされてきたものとかけ離れていて、心情的にも仇討ちの理由が揺らいでいるのは事実だ。答えあぐねている虎梁(ふーりゃん)梨花(りふぁ)は首を軽く振る。


「違うのであれば何故、そのように苦しそうなお顔をされるのですか。姫様がそのように迷ったお顔をされると、残された同胞たちが寄る辺を失ってしまいます。我々にとっては姫様が残された唯一の希望なのです」


 どうか見捨てないでください、と縋るような顔で言われると、胸の奥が痛む。まるで梨花(りふぁ)たちの希望に反する行動をとる自分が、非道なことをしているかのように思わされてしまう。ふと、絆されるな、と言った夏魁(しゃくい)の言葉が脳裏を過った。そう、確かに自分は今絆されている、と虎梁(ふーりゃん)は思った。


 同胞達の期待に応えるため、これまでずっと己を殺して奮闘してきた。そう思っていた。だが本当は、期待通りの行動をとれば梨花(りふぁ)が喜んでくれたから。乳母として、乳飲み子の時から側に在り育ててくれた第二の母が喜んでくれるから、言われるままに歩んできた。だけど立場が変わるにつれて見える景色も異なってきて、自分の歩む道に疑念が沸いてきた。だがその疑念をぶつけると梨花(りふぁ)に失望されてしまう。それが怖くて今まで疑念を見ないふりをしてきただけだった。


 もし梨花(りふぁ)が何某かの意図をもって虎梁(ふーりゃん)の歩む道を示してきたのなら、その意図を知りたいと思った。なんの疑いもせずに歩いてきた道に、どうしてこうも疑念が湧くようになってしまったのかその理由が知りたかった。


 虎梁(ふーりゃん)は目の前の乳母を真っすぐ真摯に見つめた。


「其方の言う一族再興は何を意味している。僅かに数十人程度の渓の民で成す再興とはどういうものだ」


 その問いに梨花(りふぁ)は軽く首を振る。


「あの日生き延びた者だけでは無理でございます。だからこそ、寧王のお力を借りるべきなのです」

「何故寧に頼らねばならない」

「私どもだけでは人手も資金も足りないからでございます。渓の都を再興するには建物や設備の整備をする者たちが必要です。また、整備された後にそこに住む住人を集める必要がございます。そして人が住めば商いを行うものや医者、学校なども必要となります。そう言った一切合切を、寧王であれば力を貸して融通してくださるそうです」

「其方は寧王に伝手があるのか?」


 そう問うと梨花(りふぁ)は事も無げに頷く。


「ございます。月駿(ゆえじん)様と寧王は非常に懇意にしておられましたし、その縁で私の実家は王宮御用達の商家となりましたので、姫様がご命令を下さればすぐにでも寧王へご助力願えます」

「寧王に助力を乞い、寧の民を渓に入れて渓を再興するわけか……」


 呟いた声は低く皮肉な色をしていた。


「姫様?」


 怪訝そうな顔でこちらを見つめる梨花(りふぁ)虎梁(ふーりゃん)は睨みつける。間諜だと言った夏魁(しゃくい)の言葉と梨花(りふぁ)の言動が繋がり、体の芯からふつふつと怒りが込み上げてくる。


「つまり、其方は渓を寧の属国にしたいのだな」

「そんな……違います!私はただ……」

「黙れ」


 反論の声を上げる梨花(りふぁ)を一喝して黙らせた。


 裏切られた気分だった。これまで第二の母として信頼していた梨花(りふぁ)によって、渓を寧の属国にすべく動かされていたことに酷く腹が立っていた。幼いころから共に在った無二の信頼を利用されていたのかと思うと、湧き上がる怒りに全身が震える。頭の中がまるで沸騰しているような感覚に陥り、くらりと眩暈がする。目の色が変わったのが分かったのだろう、梨花(りふぁ)が怯えたような顔で身を竦ませた。


「寧王の力を借り、寧の民で渓の国を再興したところでそれは最早渓ではない。単なる寧の属国だ」

「違います。民は流動するものですからその国に住めばその国の民となるのです。大事なのは渓王がそこにいるということなのです」

「寧王の庇護のもとで私に渓王を名乗れと?それが属国に成り下がる以外の何だというのだ」

「ですが、もし陽で姫様の正体が暴露されてしまえば姫様の身が危ういのですよ。そうなる前に寧王に助力を乞い、陽王を討つ算段を付けることが急務でございます」

「渓の王である以前に、私は陽の将軍だ。陽を寧に売るような真似ができるか」

「では姫様はお父上の仇討ちさえも諦めてしまわれるのですか」


 押し殺した悲鳴のようなその声に、虎梁(ふーりゃん)は冷や水を浴びせられたような気になった。

 復讐を誓ったのは確かに自分だ。劫火と陽の兵士に蹂躙される故郷を見て絶対に許さないと心に決めたあの日を忘れることは無い。だが、あの日から聞かされ続けてきた惨劇の真相が別にあると聞かされて、その復讐自体が正当なものか分からなくなっている。


 怒りに渦巻いていた脳内がすっと冷静になる。


「渓が滅びたのは、月雫石の独占を目論んだ陽の非道によるものだと其方は私に語ったな」

「その通りでございます。属国になることを拒んだ月駿(ゆえじん)様を陽王が無慈悲に切り付けて、そのお命を奪ったのでございます」


 虎梁(ふーりゃん)は目を細めて梨花(りふぁ)を見る。


「それを其方はどうやって知ったのだ。私とずっと一緒にいたはずの其方が」


 そう問うと梨花(りふぁ)はぐっと口籠った。


 あの日の惨劇を、梨花(りふぁ)はまるで自分が見てきたかのように虎梁(ふーりゃん)に語っていた。だが、よくよく考えればあの日、虎梁(ふーりゃん)のそばにいて山で鍛錬に同行していた梨花(りふぁ)が知りえるはずもない事実だ。一体どうやって梨花(りふぁ)は知ったのだろうか。


 思わぬ問いかけに梨花(りふぁ)は一瞬視線を泳がせて言う。


「あの惨劇の場から逃れることが出来た下官がおり、その者から聞いた話でございます。逃げるときに深手を負って、私どもの所へ逃げ込んだ後、息を引き取った者がおりましたでしょう」


 お忘れですか?と言われ記憶を探るが心当たりはない。忘れてしまったのだろうと言われてしまえばそれまでだが、欺瞞に掛けられている気がした。信じていたはずの者の口から出る言葉が嘘にしか聞こえず苛立ちに眉を顰める。ここで夏魁(しゃくい)から聞いた事実を突き付ければ梨花(りふぁ)はどんな反応をするのだろうか。そう思って口を開いた。


「父様が寧と謀って陽に攻め入ろうとしたため反撃にあった、と私は聞いた」


 その瞬間、明らかに梨花(りふぁ)の顔色が変わった。取り繕うことを忘れたように一瞬狼狽した。直ぐに何事も無かったかのように元の険しい表情に戻ったが、虎梁(ふーりゃん)はその一瞬の変化を見逃さなかった。同時に、夏魁(しゃくい)の語った内容が事実なのだと得心した。


「……誰がそのような妄言を?」


 梨花(りふぁ)の声が震えている。動揺を隠しきれていない。


「兄様だ」

「しかし、その者は月魁(ゆえくい)様ではなく成りすましに違いなく……」

「兄様は父様の望外な野心を止めようと何度も進言し、挙句、縁を切られて死んだことにされたと言っていた。私はそれを信じる」

「姫様は私よりもその者を信じるのですか?乳飲み子のころから共に過ごした私よりも、何者かも知れないその者を!」


 悲痛な叫びが胸を抉る。梨花(りふぁ)は悲しそうに目を潤ませて虎梁(ふーりゃん)の手を握る。両手で包まれた掌から梨花(りふぁ)の温もりが伝わってきて虎梁(ふーりゃん)梨花(りふぁ)から目を逸らした。

 ここで絆されてはいけない、と自分に言い聞かせる。今までずっと梨花(りふぁ)の示した道を疑うことなく歩いてきた。疑念が湧いても見ないふりをして歩いてきた。だが夏魁(しゃくい)との出会いで初めてその疑念に正面から目を向けることが出来た。今、此処で梨花(りふぁ)の言葉に心を揺らしてしまえば、この身を戒めている鎖から逃れることは不可能だ。


 これまで無条件の信頼を寄せてきた相手に、不信を突き付けるのは想像以上に苦痛を伴う。虎梁(ふーりゃん)はぐっと歯を食いしばり梨花(りふぁ)に視線を向けた。


「悪いが其方の言葉は信用できない」


 梨花(りふぁ)が目を剥いた。全身を戦慄かせて信じられないというように首を横に振る。その様子が、心の底から傷ついているように見えて虎梁(ふーりゃん)は視線を逸らしかける。だが、ここで目を逸らしてしまえば永遠に柵から解放されることは無いと己に言い聞かせ、睨む目に力を込める。


「其方から聞かされていた話と兄様から聞いた話は真逆だった。其方が語る陽王の為人と私自身が実際に接した陽王の為人もかけ離れていた。そんな状態で其方は寧王に助力を乞えという。陽の将軍である私に国を売り、寧王の庇護を受けて渓を再興せよと言われてどうして受け入れられよう。私の中で最早其方への不信感が拭えないのだ」


 突き放すように低い声でそう言って握られた手を振り払った。寄る辺を失った梨花(りふぁ)の手が縋るように何度か宙を掻く。梨花(りふぁ)は何か言いたげに口を開いたが、言葉にならず唇を震わせている。瞳には涙が溢れ頬を伝っている。見つめてくる瞳には深い悲しみが見て取れて胸が痛んだ。視線を逸らすようにして立ち上がり、梨花(りふぁ)に背を向ける。


「寧を使わねば成しえない渓の再興など私は死んでも望まない。其方らの期待に応えることは出来ぬ。今、この瞬間に月潤(ゆえるん)は死んだものと思え」


 その瞬間、梨花(りふぁ)がどんな顔をしたのかは背を向けている虎梁(ふーりゃん)には分からなかった。長年信じてきた乳母との断絶を口にして虎梁(ふーりゃん)は部屋を後にする。背中に感じる、縋るような視線を断ち切るように扉を閉め、宿を後にした。

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