梨花(りふぁ)①
「行くのか?」
夏魁が問う。虎梁は静かに頷いた。
先ほどの騒ぎで逃げた馬は遠くまでは逃げておらず、近くの草むらに所在なく佇んでいた。その馬に騎乗して虎梁は手綱を取る。
「また……会えるでしょうか」
此処で別れてしまえば二度と会えなくなる気がしてそう問うと夏魁は笑った。
「城下に瑞鄭楼という食事処がある。そこに伝言を残してくれれば会いに行く。伝言は……そうだな、幽愁の月、と伝えてくれ。俺の名前は出す必要はない」
「幽愁、ですか……」
まるで今の自分を表しているようだと苦笑する。
「梨花のところから戻ったら、兄様に報告します」
「待っている。気をつけてな」
頷いて、虎梁は鐙を蹴った。馬が嘶き走り出す。夜の闇に消えてゆく後姿を見送って夏魁も踵を返した。二人の姿を少し欠けた月の明かりが静かに照らしていた。
紗渓の町に着いたのは約束の時間を少し過ぎた頃だった。指定された宿屋へ向かうと、当然ながら出入口は閉じられていたが、扉を軽く叩くとすぐに中から応えがあり、梨花の連れだと名乗ると扉が開けられた。出てきたのは宿の主人か、中年の男だった。人相が分らぬよう、領巾を顔に巻いた来客を胡乱な目で見て中に招き入れる。
建物の中へ入ると、すぐのところが食堂になっていたが、深夜の今は無人だ。扉近くの卓子に、深夜の来客を待つため燭台と暇潰しのためだろうか、碁盤がおいてあり碁石が並んでいた。待たせたことへの詫びを言い、小金を握らせると男は上機嫌になり宿の奥へと案内した。
案内されたのは最も奥まったところにある客室だった。宿の格式にもよるが、大体のところで最も奥の客室が賓客をもてなすための最上の部屋だった。同時に人目につきにくく、密談には最適な場所だった。そんな場所を案内され、虎梁は眉を顰める。こんな場所で梨花は一体どんな話をしようというのか。
虎梁の心情など知りようのない男は、ごゆっくり、と言って食堂の方へ戻っていった。客室の扉の前で一人になった虎梁は軽く息を吐いて扉を叩く。直ぐに扉の覗き窓が小さく開き、誰かがこちらを伺う様子が見えた。外にいる人物を見止めて鍵を外す音がして中から女が顔を覗かせた。女は虎梁をすぐに中へ招き入れると周囲に目を配り、人気が無いのを確認して扉を閉めて鍵を掛けた。女は鍵を閉めるとすぐに虎梁に向き直り、破顔した。
「姫様、お久しゅうございます」
嬉しそうにそう言って腕や肩に触れてくる女。
虎梁の乳母であり、目下最大の悩みの種となっている梨花だ。
「まぁ、なんとご立派になられて……。前にお会いしたのは将軍になられる前でしたから二年ぶりでしょうか。久方ぶりにお会いできて嬉しゅうございます」
目にじんわりと涙を浮かべてそう言う梨花に、虎梁は複雑な思いで笑みを返した。
「其方も息災なようで安心した」
二年ぶりに会う乳母は少し老けたように思える。髪に白いものが混じり、目尻に皺が寄った姿に時の流れを感じた。第二の母として自分を育ててくれた乳母に、久しぶりに会えて嬉しいという気持ちはあるものの、夏魁の言葉が頭にあるため素直に喜べない。慈しむように見つめられる眼差しを直視できず、つい視線を逸らしてしまう。誤魔化すように顔の領巾を取り、外套を脱いだ。梨花は当然のように虎梁の手からその外套を受け取り、部屋の奥へと促してきた。
客室は入ってすぐの所に厠と風呂場があり、短い廊下を進んだ先に居間があり、更にその奥に寝室が二つある造りだった。居間の卓子の上には茶器と茶菓子のようなものが準備されていた。
虎梁が椅子に座ると梨花は湯呑に茶を汲み、虎梁へ手渡してきた。
「お着きになるのが遅かったので心配致しました」
そう言いながら茶菓子の包みを剥き、中身の菓子を小皿へ乗せていく。子供にするような過保護な仕草に虎梁は苦笑した。
「途中で馬が疲れたようで、休ませながら来たからな。待たせて済まなかった」
渡された茶を一口飲みながら梨花の様子をじっと見つめる。本当に、梨花が寧の間諜なのか。夏魁の言葉を疑うわけではないが、物心ついた時から軍に入るまでずっと傍にいた存在が、間諜だと信じたくない気持ちが大きい。
梨花は菓子の包みを剥き終わると自分の湯飲みへ茶を入れながら
「姫様の噂は何処にいても伝わってきます。先日は武道大会で優勝なさったとか。さぞかし凛々しいお姿だったのでしょうね。私も見とうございました」
我が事のように嬉しそうに言って微笑む姿と、間諜であるという話が結びつかず、虎梁は戸惑っていた。やはり夏魁の言った間諜という話が何かの間違いではないか、とさえ思ってしまう。いや、間違いであってほしいと思った。
「して、今日の呼び出しの理由はなんだ?」
しばしお互いの近況について雑談を交わしていたが、一向に本題に入ろうとしない梨花にしびれを切らして虎梁は尋ねた。
「ただ談笑をするために呼び出したわけではないだろう?」
そう問うと梨花はどこか決まりが悪そうな顔をして言った。
「姫様に良い知らせと悪い知らせがございます」
「……良い知らせから聞こうか」
「翔霞の行方が分かったのです」
「っ!」
思わず息を呑んだ。
虎梁が武戴から翔霞を賜ったのはつい三日前のことだ。もう入手したことが知られているのか、と唖然とした。翔霞を賜った場は武戴と二人だけで他に人気は無かったし、そのことを虎梁は飛にさえまだ話していない。一体どこで誰に見られていたというのだろうか。
懐に忍ばせた翔霞へ一瞬意識を向ける。賜った日から肌身離さず持ち歩いている父の、そして国の形見の宝笛。渓の正当な王位継承者であることを示す証。
だが、と虎梁は思い直す。呼び出しを受けたのは五日前だ。呼び出しの理由が翔霞であるならばまだ自分が手に入れたことは知らないはずだ。ならばここは敢えて何も言わずに梨花の言葉を待った方が良い。そう思い虎梁は口を噤んだ。
そんな虎梁の姿に、驚愕していると思ったのか梨花が言葉を続ける。
「あの日、失われたと思っていた翔霞が、陽のとある豪族の手にあると分かったのです」
梨花の顔は興奮で少し高揚している。ならば、まだ自分が翔霞を手にしていることは知らないようだ。少し安堵して虎梁は頷いた。
「それで、悪い知らせとは?」
「その豪族の手を離れてしまったのです。こちらで何とか譲り受けることができないか、もしくは買い取ることができないか交渉していたところでございました。そんな中、事業に失敗して借金の形に取られてしまったらしく、今全力で行方を追っているところでございます」
悔しそうに言って梨花は頭を下げた。
「本来であれば、翔霞を手に入れて姫様にお渡しするためにお呼び立てするのが筋でございますが、本日お呼びしたのは姫様にお願いしたいことがあるからでございます」
「私に頼みたいこと?」
「はい」
居住まいを正して梨花は虎梁を見る。
「翔霞は陽で舶来品を扱う商人の手に渡ったところまでは確認が取れております。その商人は王宮に出入りのできる商人だとか。ただ、私の方にはその商人に伝手が無く、それ以上はまだ何もつかめていない状態でございます。翔霞はその見た目は月雫石で作られた工芸品でございますので、もしかすると国庫に献上されるやもしれません。姫様にはそれとなく、翔霞が献上されていないかを調べていただきとうございます」
梨花の鋭さにひやりとする。梨花の言う通り、翔霞は希少価値の高い宝玉で作られた工芸品だ。ただ、借金の形に取られたのであれば、その商人がここぞというときの切り札に隠しておくか、法外な高値でどこかの豪商に売りつけるのが通常だろう。国庫に納めるという発想にはなかなか至らない。着眼点の鋭さに内心舌を巻くと同時に、その鋭さに夏魁の言う間諜という言葉が当てはまる気がして、虎梁は掌にじわりと汗が滲むのを感じた。
「調べてはみるが、翔霞ほどの品ならば商人が手放さないものではないのか?」
既に手元にあることは何故だか言わずにおいた方が良い気がした。
「いいえ、姫様。逆でございます」
「逆?」
「商人にとって王宮に出入りできる権利は、何物にも代えがたい権利なのです。その中でも王宮の上級官吏に繋がりを持てたら一生、いえ、子々孫々に渡り安泰を保障されるようなものなのです。翔霞ほどの品であれば献上することで間違いなく上級官吏に繋がりを持てるでしょう。目先の利益よりも先の安泰の方が重要なのですよ」
「そんなものなのか?」
「姫様は商人ではございませんから理解しにくいかもしれませんね。私は商人の家に生まれ育っておりますため、商人のものの考え方はよく分かるのです。翔霞は必ず国庫に献上されると思います」
そう言い切る梨花に虎梁は僅かに眉を顰める。
梨花は間諜の一族だと夏魁は言っていた。表向きは商人の家系だと。今の話からすると実際に商人の家柄であることは間違いないようだ。夏魁の情報と違わない梨花の話に複雑な思いで頷いた。
「分かった。国庫に献上されていないか確認しよう」
そう言うと梨花がほっと安堵したような表情を見せた。




