夏魁(しゃくい)②
歳の離れた兄、月魁は物心ついた頃には王宮にはおらず、他国へ逗留しており時折国に戻ってくる存在だった。戻ってきたときには他国の珍しい土産をたくさん持って帰ってきて、珍しい他国の話をしてくれる兄が月潤は大好きだった。自分も鍛錬のため山に籠ることが多かったため兄と会える機会は少なかったが、それでも会うたび、月潤、と優しく名を呼んで頭を撫でてくれる兄を慕っていた。
そんな兄が父と激しく口論しているのを何度か見たことがある。激しい剣幕で言い争う二人が怖くて、物影に隠れて早くいつもの優しい二人に戻るよう願っていた。そして何度目かの口論の後、いつものように国を出た兄が、逗留先の他国で病に倒れ死んだと聞かされた時は大泣きした。もう二度と会うことは出来ないのだと、幼心に寂寥感に苛まれ何も手につかなかった。
その兄が、今、目の前にいる。
「嘘だ……だって兄様は死んだと……」
落とした刀を拾うことも忘れ、呆然自失の体でそう呟くと、夏魁は自嘲するように笑った。
「そうか、俺は死んだことになっているんだな」
そう言って夏魁は少し俯いた。
「無理もない、父上の逆鱗に触れて勘当された身だからな」
悲し気に呟くその声音は胸の芯に響き、この人物が兄の月魁である確信を深めた。ならば夜目が利くのも合点がいく。渓の王族には夜目が利く者が多かった。だが、どこかでまだ信じられない自分がいて、虎梁は震える声で言った。
「兄様ならば、力を使えるはずだ」
渓の王族の身に伝わる、水を操ることが出来る力を。
虎梁の言葉に、夏魁はすっと片手を川面に向けて差し出した。ぱしゃり、と水の滴る音がした次の瞬間、川の水が螺旋を描いて立ち上がった。
「……っ!」
虎梁は驚いて目を瞠る。目の前で、まるで意思を持ったかのように螺旋を描く水柱は、水面から離れると夏魁の腕へと纏わりつく。水の帯を纏った腕を夏魁が虎梁の前に差し出すと、水流は一つにまとまり、夏魁の掌の上で球状にまとまった。
ふるふると震えながら掌の上に浮かぶ水球は、夏魁が掌をぐっと握ると弾け、細かい水滴となって地面へ落ちた。
「これで信用してくれるか」
水に濡れた手を布で拭いながらそう言った夏魁を呆然と見つめる。間違いない。渓の王族に伝わる力だった。この人物は間違いなく兄の月魁だ。
驚きのあまり声も出ない虎梁に、夏魁は静かに言う。
「あの時……俺が父上を止めることが出来ていれば渓が滅びることは無かったし、母上や月蘭も死ぬことは無かった。お前も、虎梁などと名乗らずに暮らせていたはずなのに……。あの頃の俺は本当に無力だった」
俯いて悔やむように紡がれる夏魁の言葉に、虎梁は首を傾げる。
「父様を止めるとはどういう……?」
父の何を止めていれば渓が滅ぶことは無かったというのだろうか。渓が滅んだのは、月雫石の独占を目論んだ陽によるものだと聞かされていた。だが、心の何処かでそれは事実ではない、と思っている自分がいて夏魁の言葉が引っかかった。
夏魁は俯いた顔を上げると「お前はまだ子どもだったから知らなかっただろうが」と口を開いた。
「父上は国土を広げたかった。深い渓谷に囲まれた狭い国土では飽き足らず、もっと国を広げて国力を強くしたかった。だから寧と共謀して兵を挙げ、陽に攻め入る目論見をつけていた」
思いもよらぬ言葉に虎梁は目を見張る。父が陽に攻め入る画策をしていたなんて聞いたことが無い。それではまるで話が逆だ。
「俺は何度も止めた。国を広げてどうする。軍も持たない渓が国土を広げたところで、統治できるとは思えないし、広げる利点がどこにある。渓はあの環境だったからこそ穏やかな治世を送ることが出来ていたのに、寧に兵を借りてまで挙兵してどうする。そんなことをすれば、渓はあっという間に寧の属国に成り下がってしまうだけだと何度も進言した。だが父上には聞き入れてもらえなかった。親の、王の言うことに歯向かうのなら、金輪際縁を切ると言われて叩きだされてしまった。だが俺は何としても父上の目論見を止めたかった。寧王へも派兵しないよう嘆願したが相手にされなかった。そしてその後だ、陽の軍によって渓が滅ぼされてしまったのは」
一息にそう言って夏魁は腰かけた岩に拳を打ち付けた。
「知らせを受けて戻ったころには全てが焼け落ちていた……」
苦し気にそう言う。きっと今でも後悔しているのだろう。父を止められず、国の滅亡を傍観してしまった自分を。打ち付けた拳は小刻みに震えていた。
そんな夏魁の言葉に虎梁は衝撃を受けていた。今まで自分が聞かされていた話とはかけ離れた内容だったからだ。陽が身勝手な理由で攻め入ってきたのではなく、父が陽に対し兵を挙げようとしていたなど、にわかには信じがたい話だった。
「嘘だ……父様が陽に戦を仕掛けようとしただなんて……」
だが、どこかで腑に落ちている自分がいて虎梁は頭を振った。
「先に手を出してきたのは陽だと……月雫石を独占するために配下になることを強要してきたのではないのですか?」
泣きそうな声で虎梁は言う。目の前の兄の存在に、そしてその口から語られた事実に、酷く動揺して虎梁の仮面がはがれていた。ずっと押し殺していた月潤の顔がそこにはあった。
「配下になることを拒んだから、渓は滅ぼされたのではないのですか?」
「その話は誰から?」
「誰って、梨花が……」
そう、寧へ亡命した後繰り返し梨花から聞かされた話。いかに陽が非道な手段を用いて渓を滅ぼしたのか、月潤から家族を奪ったのか、何度も何度も繰り返し聞かされてきた。
だが夏魁は梨花の名前を聞いて眉を顰めた。
「梨花か……。」
そう呟いた声音は苦々しい。
「あの女には気を付けた方がいい」
「え?」
「あの女は寧の間諜だ」
「なっ……!」
そう断言する夏魁に虎梁は愕然とした。
梨花が寧の間諜。そんなことあるはずがない、と思う一方で「やはり」と思う自分がいて更に愕然とした。
渓が攻め落とされた後は梨花が先導して寧へ亡命した。梨花が寧の出身だったため、知古を頼って必然的にそうなったと思っていた。乳飲み子の頃から月潤の傍にいた乳母だったため、信頼すればこそ、疑うことなど微塵も無かった。
だが、その信頼に陰が落ちていたのは事実。軍に入り、王の傍に仕えるにつれ少しずつ湧いてきた疑念。繰り返し聞かされてきた話とはかけ離れた王の為人。そして今、夏魁の語った言葉により、その疑念が更に深まってしまった。
「何故、梨花が間諜だと……」
そう聞いた虎梁に対し夏魁は真摯な眼差しで言う。
「梨花が元々寧の人間だということは知っているな」
虎梁は頷く。
「父上が寧から兵士を借りる際に、寧王と父上を橋渡しした人物がいる。あの当時、渓の王宮にいた人間の中で寧とつながりがあったのは梨花だけだ」
「だから梨花が間諜だと?」
「そんな単純な理由じゃない」
夏魁は苦笑した。
「梨花の身許を調べたことがある。奴の一族は、表向きは寧の商人ということになっているが、その正体は、一族の女を他国へ潜り込ませる間諜だ。陽にも奴の血筋のものが素知らぬ顔で潜り込んでいる」
「……っ、知っていて放置しているのですか?」
陽の将軍として聞き捨てならない言葉に思わずそう声を上げたが
「俺は陽の民ではない、根無し草だからな。わざわざ進言する義務はない」
ぐうの音も出ない正論だけに何も言えず唇を噛んだ。
「奴の一族がそうである以上、梨花もそう思って間違いないだろう」
そう言うと夏魁は腰かけた岩から立ち上がる。服の埃を払ってゆっくり虎梁のそばに寄る。
「渓が攻め落とされた後、生き延びた者がいないかずっと探していた。だが王宮どころか城下までもが全て焼け落ちていて生き残りを探すのは絶望的だと思っていた。そんな中、軍に女でありながら、男の名を名乗って入隊してきた人物がいると聞いて見てみたらお前がいた。生きていてくれたのは嬉しかったが、名を変えている以上、不用意に接触するのは得策ではないと思った。だから殷石に使われるふりをして見守っていた」
虎梁の足元に落ちた刀を拾い、虎梁の手に握らせる。
「お前と梨花が時折連絡を取り合っているのも知っている」
「……何故そんなことまで……」
知っているのだと問うと
「俺は情報屋だからな、情報集めは得意だ。お前のことは入隊してからずっと見守っていた。飛が時折夜中に城を抜け出して、梨花とお前の橋渡しをしているな。飛は用心しているようだが詰めが甘い」
そう言われて虎梁は俯いた。
ずっと見守ってくれていたのなら、名乗り出てくれれば良かったのに。そうすれば同志の思いを一身に受けて、孤独に耐える必要も無かったのではないか。渓の王族として共に、課された枷を分かち合うことが出来たのではないか。そう一瞬思ったけれど、名を変え復讐に身を窶している虎梁へ接触した場合、どこからその素性が漏れるか分からない。安易な接触が、ひいては虎梁自身の立場を危うくしてしまうことを慮って、これまで接触してこなかったのだろう。そう思った。
「兄様は……何故、夏魁と名乗っているのですか?」
月魁という名はそんなにありふれた名ではないにしても珍しい名前ではない。にも関わらず別の名を名乗っているのは、やはり彼もまた身分を隠し、陽への仇討ちを目論んでのことなのだろうか。もしそうであれば、今まで自分一人に背負わされていた同志たちの期待を分かち合うことが出来るのではないか。
僅かに期待して問うと夏魁は目を伏せた。
「俺が月の名を戴く資格が無いと思ったからだ」
渓の王族に連なるものは名前に「月」の字を抱くことになっている。かつて月から降り立ち、月の引力により水を自在に操ることが出来る証として。父王は「月駿」、姉は「月蘭」、そして月潤に月魁。父王の父も、祖父も、その先も、全て月の字を受け継いできた。その絆である月を抱く資格が無い、と夏魁は言った。
「渓が滅びたのに俺は王族として何もできなかった。だから月の名を捨てた。そしてあの夏の惨劇を忘れぬよう、自分への戒めとして夏魁と名乗っている」
悲しそうに言うその言葉は、虎梁が期待したものとは違っていた。大切なものを守れなった己への戒めとして名を捨てた夏魁と、復讐を完遂するまで名乗らぬと決めた虎梁とでは、その名に対する思いは正反対だった。少なくとも、一族再興の思いを彼と分かち合うのは難しい気がして唇を噛んだ。
「お前が名を変えて軍に入ったのは、父上たちの敵討ちのためか?」
問われて頷く。
「一族の復興が生き延びた私に課せられた使命だと……」
「梨花が、か?」
頷いた頭にふわっと大きな掌の感触がした。遠い記憶の中にある、懐かしい感触。
「……そう言ってお前を縛り付けていたのだな、あの女は」
その言葉に弾かれたように顔を上げる。見下ろしてくる瞳には怒りの色があった。
「兄様?」
首を傾げるとそのまま抱きすくめられて驚いた。
「……何が一族復興だ。渓が滅んだのは父上の望外な野心のせいだ。お前も母上も月蘭も他の皆も、それに巻き込まれたんだ」
忌々しそうに吐き捨てる声が聞こえるが、その表情は伺い知れない。自分より広い肩幅と厚い胸板に、幼いころもよくこうして抱きしめてもらったな、と懐かしく思った。だが記憶にあるよりも小さい気がするのは自分が成長したからで、そこに十年という月日が確かに存在するのだと実感して虎梁は泣きたくなった。
「お前が梨花に会う前に接触出来て良かった。あの女は信用してはいけない。渓が滅んだのは父上の咎だ。仇討ちなどしてはならない」
強く、だが優しい声でそう言われて虎梁の中で何かが弾けた気がした。それは長年にわたり背負わされてきた同志たちの期待なのかもしれないし、期待に応えようと己を殺してきた自分の矜持だったのかもしれない。目の奥が熱くなり、堪え切れなかった嗚咽が口から洩れる。堰を切ったように涙が溢れてきて、夏魁の胸の中で子供のように泣いた。そんな虎梁の背中を夏魁が宥めるように優しく撫でた。
泣いて泣いて、ようやく涙が落ち着いて虎梁は夏魁から体を離した。いい年をして幼子のように泣いてしまったことが気恥ずかしかった。
「ごめんなさい、取り乱しました」
気恥ずかしさを取り繕うように言うと夏魁は「気にするな」と首を横に振った。
「俺の方こそすまなかった。今までずっと一人で抱え込んできて辛かっただろう。もっと早く名乗り出ていれば良かった」
優しい兄の言葉に、落ち着いたと思った涙がまた滲んできて慌てて手の甲で拭う。
「……この後、やはり梨花に会うのか?」
問われて頷く。
「会う。そして確かめたい。梨花が私に語った話が偽りなのか。偽りだとしたらどうしてそんなことを言ったのか確かめたい」
夏魁の話を疑っているわけではない。ただ、乳飲み子の時から傍にいて、第二の母のように慕っていた梨花を信じたい気持ちもある。もし梨花が偽りの物語を虎梁に語っていたとしたら、どうしてそんなことをしたのか、その真意が知りたい。
夏魁は頷いて、もう一度その大きな手で虎梁の頭を撫でた。
「梨花の目的が何であるかは分からないが、十分に気を付けろ。お前の情に訴えかけてくるだろうから絆されるなよ」
掌から夏魁の優しさが伝わってきて虎梁は頷いた。そしてふと気になった。夏魁は殷石の依頼で虎梁のことを探っていたのではないか。情報屋は依頼された情報を持ち帰ってこその商売で、それが出来なければ信用は地に落ちる。
「……兄様は私のことを殷石に伝えますか?」
情報のやり取りを生業としている夏魁にとって、殷石からの依頼を反故にすればどうなるかは火を見るよりも明らかだ。だが夏魁は苦笑して
「そんなことするわけないだろう。今の俺にとって何よりも大切なものはお前の身の安全だ」
「でも、依頼を反故にしたら兄様がただでは済まないんじゃ……」
心配する虎梁の言葉を制して笑って見せる。
「虎梁少年は赤子の頃に孤児院へ預けられたが、両親は渓の人間だったらしい」
虎梁少年とは、本当の虎梁、月潤が寧に逃れる前に亡くなった少年のことだろう。
「商いのため渓から寧へと移り住んだ夫婦がいたが、病で夫が亡くなり、後を追うように妻も病で亡くなったそうだ。生まれて間もない虎梁少年が残されて孤児院に預けられたのは事実だそうだ」
「本当の虎梁の両親が渓の……」
思いもよらない事実に驚いて言葉が出ない虎梁。
「だから、殷石へは虎梁の両親が渓の人間だったということだけ伝える。それは紛れもない事実だ。それだけでも殷石には十分だろう。亡国の、しかも陽に滅ぼされた国の民を親に持つと知れば、きっと鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てるだろうさ」
確かに殷石ならばそうするだろう。亡国の民の血筋など将軍に相応しくない、と糾弾してくる様子が目に浮かぶ。そしてすぐに武戴へ報告するのだろう。きっと復讐を企てるつもりだと進言するのだろう。その進言を受けた武戴はどうするのだろう。
そう思って胃の腑を掴まれたような気分になった。
武戴は殷石の言葉を聞き入れるだろうか。もし聞き入れたとしたらどうなるだろうか。
不安が首を擡げてきて思わず胸元で拳を握った。
そんな虎梁の様子を見て夏魁は言う。
「あの王ならば心配はいらないだろう」
「え?」
夏魁の言葉に首を傾げる。瞳の奥の不安に気付いているのか、優しく笑みを浮かべて言った。
「殷石がどれほど騒ぎ立てようと、あの王ならそれがどうした、で終わらせる。お前を追求することもなかろう。それだけの器を持っている男だ」
きっぱりと断言する夏魁の言葉に、擡げた不安が少しだけ治まった気がする。
夏魁の言う通り、武戴ならきっと殷石の言葉を一笑に付すだろう。出自の如何を問わず、と言ったのは武戴自身だ。間違いなく殷石の訴えは軽くあしらわれるだろう。だが、武戴は問題にしなくても、殷石以外の朝廷の者たちがよくは思わないだろう。もしかすると将軍の座を降りることになるかもしれない。そうなれば、武戴ともこれまでのように関わることは出来なくなる。
そう思ったとき、胸の奥に鈍い痛みが走った。
胸を締め付けるような切ないその痛みの理由を、虎梁は見ないふりをした。




