虎梁(ふーりゃん)
御身はただ一族のためにだけ在れ
狩れ、狩れ
憎き我らの敵を
我らが同胞の仇を
我らが受けた辱めを
許すまいぞ
魘されて目を覚ました。全身にじっとりと嫌な汗をかいているのが分かる。鼓動が早く息が上がっているのを感じて大きく息を吐いた。ゆっくりと体を起こすと長い黒髪が頬に垂れた。寝台の脇の開け放した窓から煌々と輝く月が見えて虎梁は眉を顰めた。
今宵は満月。月明かりに照らされた室内は静謐さに満ちていて夜の闇と月明りに包まれたそこは何処も彼処も色を失っている。
寝台から立ち上がろうと体を動かすと衣擦れの音が僅かに響く。静寂の中ではその音さえ際立って聞こえ、思わず辺りを見回す。変わることなく静寂に包まれた室内を一瞥して窓辺に立った。山の端近くにかかった満月は白く冷たい輝きを放っていて、その光に苛まれた気になって虎梁は夜着の胸元を強く掴んだ。
「虎梁様、如何されましたか?」
不意に戸が叩かれ、聞こえた声に虎梁は肩を震わせて振り返る。見ると入口の扉に填められた擦り硝子の窓の外に仄かに揺らめく灯りがあった。深夜の来客に軽く息を吐いて扉へと向かう。覗き窓から外を伺うと見知った姿が見え、虎梁は閂を外した。
「物音がいたしましたゆえに……失礼を」
そう言って入ってきたのは細身の端正な顔立ちの青年。虎梁付きの文官、飛だった。彼が入ってくると同時に手にした燭台の明かりで室内が照らされ、失っていた色味を取り戻す。
「物音を立てないよう気を配っていたつもりなのだがな」
苦笑しながら言う虎梁に飛は穏やかに微笑む。
「虎梁様の動きに関しては、私は鋭いんです」
当たり前のように恐ろしいことをさらっと言ってのける飛。実際彼の官邸は虎梁の官邸の隣に与えられているのである程度以上の物音であれば感じることはできるであろうが、さすがに寝台から窓際に来るまでの音を感知するのは無理がある。
胡乱な目でじっと飛を見つめると彼は苦笑した。
「嘘です。冗談です」
「だろうな」
飛の出立は夜着ではなく外出用の袍に身を包んでおり、髪が僅かに湿り気を帯びているところを見ると、どこかに出掛けていたのだろう。どこかに出掛けて、帰り際にたまたま虎梁が起きていることに気付いたのだろう。
こんな深夜に外出か、とその行動に思うところがあり虎梁は眉を顰めた。
「……梨花か?」
低い声で問うと飛はその顔から笑顔を消した。
「はい。梨花様から伝言を預かってまいりました。」
先ほどのちゃらけた様子は鳴りを潜め、真剣な眼差しで飛が言う。
「五日後の丑の刻、紗渓の東にある宿にて待つ、とのことでございます。」
辺りを憚るように声を潜めて言う様子は、只事ではない内容であることを物語っている。
紗渓とは王都の外れに位置する街。此処からは馬を飛ばしても一刻は掛かる街だ。そんな遠方まで呼びつけて、しかも丑の刻という深夜。どう考えても良い話では無いだろう。
嫌な予感に胃の腑をぐっと締め付けられるような感覚に陥る。その様子を敏感に感じ取ったのか、飛が不安げな顔で虎梁を覗き込んでくる。
「虎梁様……何か気がかりなことでもおありでしょうか?」
虎梁より五つ年下のこの青年にはきっと虎梁の心内を計ることはできないだろう。
「……いや、大丈夫だ」
無理に微笑んで答える主の姿に飛は安堵したように微笑む。
「梨花様によると、その時も近いとのこと」
声を潜めているものの、どこか興奮を隠しきれない声音に、虎梁は気持ちが重く沈んでゆく。
やめてくれ、と心の奥深くで叫ぶ。もうこれ以上重石を増やさないでくれ、と。
無邪気に投げかけられる期待ほど重たいものはない。虎梁の背には、長年にわたり課せられてきた無数の期待が計り知れない重石となって圧し掛かっている。
「ついに我々の悲願が果たされる時がきたのです」
しかしその思いを声に出すことは許されず、虎梁は目の前の忠実な麾下を悲しい目で見つめる。
「虎梁様……いえ、月潤様」
「その名を呼ぶな!」
反射的に低く鋭い声で飛の言葉を遮った。周囲に意識を凝らし、人の気配が無いことを確認してもう一度声を落として言う。
「その名は捨てた。一族の復興が叶うその日まで……私は虎梁だ」