第11話 教練
翌日、ダフマンは練兵場の号令台に意外な人物を見い出した。
ロードバックだ。偶然にも第三海兵団の指導教官として、この地に赴任してきたのだ。
彼は手短に訓示を終えると、すぐさま各練兵教官に基本動作の訓練に入るよう指示した。
ダフマンは思わぬ味方を見い出してホッと胸を撫で下ろした。ロードバックは第三海兵団所属の五千人のグローク人の中から自分に気付いてくれるだろうか。その思いは間もなく現実のものとなった。分隊行進の最中、ダフマンはロードバックと視線を合わせることに成功したのだ。一瞬、彼は驚いた表情をみせたが、すぐに笑顔を浮かべてダフマンを見送った。こうして顔を見合わせることができたのも、「頭右」の号令を理解できた者が七割、「敬礼」の号令を理解できた者が五割に満たなかったことが幸いしたのだ。軍隊の常識を知っている者は、上官の目に止まりやすいというわけだ。
ロードバックや他の教官にしてみれば頭の痛いことだ。なにせ右と左の区別のつかない者が三割もいたのだ。
初めての分隊行進だ。足並みを揃えて整然と進むのは無理としても、せめて号令の意味くらいは教えなくとも理解できるというのが常識というものだ。人類の新兵なら誰もがその常識を即実行するだろう。
さっそく至る所で教官たちが右と左を教える光景が目に付いた。ダフマンの所属する分隊でも、グレイが他の無知な者たちへの見せしめに槍玉に挙げられた。
「前はここだ!」
いきなりグレイの腹部に教官の拳が入った。
彼は僅かに前のめりになる。
「後ろはここだ!」
続けざまに教官のつま先がグレイの尻に入った。
彼は反動で直立不動の姿勢を取った。
「右はこっちだ!」
教官の踵がグレイの右足を踏んだ。
「左はこっちだ!」
教官の踵がグレイの左足を踏む寸前、彼は素早く左足を引っ込めた。
「バカ者、避けるな!」
グレイは教官にぶん殴られた。
物心ついてからこの方、ダフマンの周囲に右と左の区別がつかない者などいなかった。彼はグローク人奴隷の社会環境が想像以上に劣悪であることを感じ取った。
教練は当然のごとく基本的姿勢動作から始まった。
「きをつけ」「休め」「敬礼」「直れ」「前へ進め」「分隊止まれ」「歩調止め」「歩調取れ」「駆け足進め」「分隊進め」
練兵場の各所で教官の号令が乱れ飛んだ。
一部隊は中隊規模の約一三〇名で構成されており、三名の人類士官及び下士官が教官として指導していた。部隊は更に十の教班に分かれ、便宜的に年長者のグローク人が班長に割り当てられた。階級は一律に二等兵。全員が私服のため階級章は付けていなかった。
「陸戦における戦闘はすべてこの基本動作に基づいている。軍隊の規律を生む母体と言っていい。身体が無意識に動くようになるまで、この基本動作を徹底的に覚えるのだ。これさえ身に付ければ、ある時はおまえたちを分厚い壁に、またある時は鋭い槍にするだろう」
ダフマンの耳底にロードバックの訓示が蘇る。
前夜の雨で教練場の各所に水溜まりができていた。服を汚すまいとした意識が、行進の最中に水溜まりを跳躍させた。
教官がすかさず彼の襟首を掴んで怒声を浴びせた。
「貴様、行進中に水溜まりごときで歩調を乱すとは何事か!」
ダフマンの視線がロードバックの姿を探してさまよった。が、彼の姿は見当たらない。
「いいか、ここはパーティー会場じゃないんだ。服の汚れなど気にしていたら、命がいくつあっても足らんぞ。よく覚えておけ」
教官は蒼白のダフマンを突き飛ばすと、また隊列に同行して罵声を浴びせ続けた。
「猿の王、跪け、人類に! 猿の王、靴を舐めろ、人類の! 猿の王、聞け、おまえたちの王は人類だ!」
「貴様らの営倉は動物園だ。行きたくなければ血反吐を吐いてでも立ち上がれ!」
「おまえたちは猿から進化しそこなった出来損ないだ。神が戯れに創った失敗作だ!」
なぜこんな屈辱的な言葉を言われなければならないのか?
兵の気力を奮い立たせる手段だとすれば、その効果は疑わしいとダフマンは朦朧とした頭で考えた。むろん、反抗が軍隊の不文律に触れることはわかっている。それに蓄積された疲労が反抗心を奪い去っていた。
第三海兵団の敷地は各分隊の行進で泥濘と化していた。果たして何時間、こうして地面の上を駆けずり回っているのだろうか? 農園で働いていた経験のある者は、壮年でも持久力を維持しているように見える。彼らは不平一つ言わずに黙々と教官の命令に従っている。ダフマンは今日ほど自身の虚弱体質を恨めしく思ったことはなかった。
「分隊止まれ!」
その号令を聞くや、ダフマンは眩暈と共に膝から崩れ落ちた。
「貴様、まだ休めとは言っておらんぞ!」
教官はダフマンの胸倉を掴むと無理やり立たせた。
ダフマンは気力を振り絞って直立不動の姿勢を取った。
こうして教練初日は終わりを告げた。グローク人兵は食堂へ駆け込むと、用意された宇宙食に食らいついた。思い思いの場所で談笑を交えながらの夕食は、厳しい軍隊生活における唯一の楽しみと言っていい。ダフマンも蹌踉とした足取りでようやくテーブルに着いたが、疲労のせいで胃が食事を受け付けようとしなかった。彼はただでさえ食欲の湧かない宇宙食を目の前にして、初日早々、自分の考えが甘かったことを思い知らされた。
「どうした? 食べないのか」
振り向くと、そこにロードバックの姿があった。
ダフマンの顔に自嘲気味の笑みが浮かぶ。
「だめだ、疲れ切って胃が受け付けないんだ」
「無理にでも詰めておくんだな。明日の教練に差し支えるぞ」
「食ったら、そのまま吐き出しそうだ」
「なに、初めはみんなそんなものさ。すぐに慣れるよ」
「周りの連中を見てみろよ。みんな平気で食ってるぞ」
ロードバックが周囲を見回すと、なるほどダフマンの言う通り、食事に手を付けないグローク人は一人としていなかった。
「重労働慣れしているからな。人類の新兵ならこうはいかん。みんなへばって、おまえのようになるのが普通だ。なんとも頼もしい連中だな」
ダフマンが目を伏せた。
自分が人類だったら。一瞬、そんな想いが脳裏を過った。
「戦友の一人に言われたよ。おまえは人類の臭いがするって」
ロードバックがダフマンの肩に手をかけた。
「俺も昔、こう言われたことがある。あなたはグローク人の臭いがするって」
「誰だい? そんなこと言ったのは」
「彼女さ。パーティーに数人のグローク人の知り合いを呼んだら、それっきり縁が切れた」
「ハハッ、振られてよかったじゃないか。グローク人の立場から祝福してやるよ」
声を上げて笑ったせいか、疲労が抜けて身体が軽くなった感じがする。これなら胃袋も食事を受け付けそうだ。
ダフマンはパック入りの紅茶で咽喉を潤すと、もそもそとペースト状の宇宙食を口に運んだ。
これはいったい何だ? もし牛肉を模した味付けなら間違いなく最低品だ。自分の舌がこの味に慣れることは永遠にないだろう。
「このタルタルソース、塩分がきつすぎるぞ」
「激しい教練の後だ。塩分補給が必要なんだ」
「なるほど、味よりも栄養というわけか」
周囲からは「宇宙食も結構いけるじゃねえか」とか「なにより量が多いのが魅力だ」とか、この不味い食事を肯定する声が聞こえてくる。
ダフマンのフォークを持つ手が止まった。彼らの発言に唖然としたのだ。
ロードバックが軽く友の背を叩いた。
「ともかく一日も早く教練に慣れろ。これを乗り切らない限り、軍艦乗りの道は閉ざされたも同然だ。俺もウォーケンもおまえがこの困難を乗り切れると信じている。待っているぞ」
ロードバックが去ったあと、ダフマンは目の前に残された宇宙食をガツガツと食い始めた。
そう、厳しい教練を乗り切るために……。この食事もまた彼にとっては戦いなのだ。




