叶女(かのじょ)
○
三年生になってからというもの、なぜか僕は夢や目標を掲げることを良く思わなくなった。
しかも、それを大人なんかに聞き出された日には苦しくなって眠れもしない。
僕たちが、あなたたちみたいになってしまったら、どうするの?
そうやって簡単な文字や言葉にするだけではきっと壊れてしまうのだ■■■って。……
なんて……また叶うはずもない理想を考えながら、僕は進路希望調査票を眺めていた。
つぎの階が屋上といった、うす暗い階段の途中で、僕は「あ」『あ』と裏返る自分の声が嫌になり立ち止まった。
プリントを捨てようと思えば自由だった。
でも右上のすみに落書した女の子が、かわいく描けて、持って帰って続きを書こうかなと、自分の気持ちわるい声で笑うことができたのは本当に夢みたいだった。
そのときだった。もういいよ、と大きな声が上のほうで響いた。
「かくれんぼでもしてるんだろうな」隣にいる彼女が天井を見上げている。
「い、行って! みる?」と僕がてのひらに爪を握りこんで声をふりしぼると、「それよりも、おまえ、その気持ちわるい紙捨てろ」と彼女はいつものごとく愛想のない低い声をだした。
これは一生誰にも言わないつもりなのだが僕には好きな子がいる。じつをいうとこの愛想のない彼女は僕の好きな子に信じられないほど似ている。だけど…僕の好きな子にははじめからもう好きな男子がいて、どうあっても僕は彼女を諦めるしかない。たとえ諦めなくても動かせる運命でもない。だってその顔の良い男子にもまた他所の高校におもいを寄せているべつの女性がいるし、それなのにその女性は過去のトラウマで男性を恐怖していると―…いうのだから。
「ねえねえ」なんだか僕らはおなじところをぐるぐると永遠に回っているだけのような気がする。
「ねえってば」僕がふと振りむいた彼女の顔はぐうぜん髪でかくされて見ることができなかった。
怒らせてしまったのだろうか。ただし彼女は無言のうちに、僕の手からいきなりプリントを! 引っ張った! その瞬間、僕は思わず「痛い!」と声をあげた。僕の手のなかが、切れた。あたふたしていると、暗い階段の途中におちていた、みじかい刃のようなものを蹴ってしまった。このままでは行けない。なにがいけないのか自分でもよくわからない。いけない。いけない。いけない。と金属音はどこまでも階段を転がりおちていく。僕はそのナイフのようなものを拾おうとしたが、そのときどうしてか、僕の手は、僕の意志に反して涙をぬぐった。前を向いていた。不思議だ、そうやって彼女に手をぎゅっとつかまれると体が急にかるくなった感じがするのだ。理由なんてない。いつだってそうだ。そうして僕たちは上へ上へといそいで、走った。さいごに、立ち入り禁止のはずの扉を…開いた。…目から手をどけると、そこにはただ血がにじんだようなまぶしい空があるだけだった。そこに子供はいなかった。鳥もいなかった。高い柵も、囲いもないのに、なのに僕の視界はせまくなった。
突然、目脂が膜をはったのか視界がかすんだ。
そして同時に、僕のなかにあった『自由』の意味までかすんだような不気味な錯覚がした。
それでも何度か瞬きをしていると地上の小規模な人の流れが小さく鮮明にみえるようになった。
そのなかに僕は誰でもいい、知っている人をひとりでも探したかった。
僕はわけもわからずに、彼女の手を一振りに振りほどいてしまった。僕はいったい本当の意味でひとりになりたいのか、ひとりになりたくないのか。そのもどかしさで自分が馬鹿になってしまったのかと思った。「まだだよまだだよ」不安定な声と手がふるえた。僕は狂ったように走りだしていた。
螺旋のながい階段を、僕は背後の彼女に見つからないよう駆け下りた。
○
「外に出られたのか、それで…」
彼女は自分の髪のにおいを嗅ぎながら、くぢゅんとくしゃみをした。「なんだその動きは」
「わ! わかりません」
結局なんだったのか。あの廃ビルから出てみたものの、建物の外はなんとなく祭りを終えたあとの、あるべき姿をとりもどす直前の道路のようで、そこには厭世的な人間を煽っては傍を乱暴に去っていく、車の往来などもなく。うつむき歩く人間との接触もない。僕にとって、唯一、ありのまま息ができる”ここ”は、彼女の言う通り、こういう道路は空しいだけだけれど、本当の意味で僕には「外」だった。
僕はというと、そういう道路の中心で、急に立ち止まったり、急に走りだしたりを繰り返していた。
だって! 僕の足もとに「ちょっとたすけて!」ふわふわした小さいものがぶつかってくるのだ。
外に出てからずっと、僕は突進してくるこれを避けなければと焦っているのだが、彼女はなにも助けてはくれず、「監視されてるだろ、おまえ」などとわけのわからないことを訊いてくる。その間にも、僕は足にぶつかってくる一匹の仔猫を、懸命に避けようと両足をすばやく動かし続けていた。
「あっち、いけ」だけども仔猫はみじかい足で僕の動きにぴったりとくっついてきて! 僕がおおきく動かした足についついあたってしまうことがある。それがまるで僕のほうから蹴ってしまったみたいで、(お互いに)びくっとするのだが、それでも、がんばって僕の足にぶつかってくるふわふわは、なぜだろうか僕には痛くもかゆくもなく、ひそかに気持ちよくもあるのだ…が。
…しかし。と僕はまた、急に立ち止まった。
もしや、この仔猫はよく目が見えないのかもしれない。はたまた親が居なくなってしまった復讐と、恐怖で、人間に八つ当たりをしているのかもしれない。そのどちらかで僕にぶつかっているのかも、と察したとき、僕はとっさに、この小さい生き物の未来を想像してしまい目の前が暗くなった。
「おまえ、目がわるいだろ」彼女はそう、仔猫をうまくすり抜けながら、そこに一体何があるというのか太陽をじりじりと見つめていた。
「悪くなりますよ」
僕はまたこつんと仔猫を蹴ってしまった。
「なにが?」と彼女は聞き返してくる。「め! 目が、わるくなりますよ」「おまえも悪いだろ」「ぼくは悪くないですよ」「いいやおまえのせいだって」そういう風に、どこまでいっても彼女の発言は僕の足もとで、こつん、こつんと意味不明な発言におわってしまう。
『ぼくのせいなんですか?』僕は彼女の言葉を待った。待っているあいだ、僕は足元の仔猫にたいしてかわいい、かわいそう、などと勝手な同情をつみかさねるたびに、心がぐっと窮屈になった。
『おまえのせいだって』
彼女はそう囁いて仔猫を抱きかかえると、すうっと栗色のにおいを嗅ぎながら、そのみじかい毛をよしよし撫でてやった。「まだ判らねえのかよ」といつになく優しい(大人の嫌な)声もだした。
彼女はこの仔がなきやむまで、ひととおりまるい頭を撫で終えると、ふらりと手を上にあげた。
そしてどこまでも拡がってみえる道路をゆびさした。彼女につられて僕も後ろをふりかえった。
彼方まで白線が続いてみえる路上では、陽炎だけが心もとなく揺れていて「お前がそんなんだから、こんな幽霊みたいなものが見えるんだろ」そう言ったきり、彼女の手からはなれた仔猫は勇ましくどこかへ走っていってしまった。それきり、どこかさびしく、このとき彼女からたった一度感じられた優しさの気配は、青く青く…どこから声がするのかわからないセミくらいに僕の世界になじんでしまっている。僕は、つよすぎる夏の日差しを手でさえぎった。そのひとりの暗闇のなかで嫌いな大人を想った。嫌いな大人にいつか手ばなされたとき自分はあの仔猫のようにひとりで走っていけるだろうか。指の間からすこしだけ白い太陽をのぞいては、僕は広すぎる頭のなかをすこし焼いた。
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だから、今日の「そう、そう、昼休みにね、おにぎりに砂が入ってた」。幹が白っぽい樹々にかこまれた公園を、静かにとおり抜けようとしていたところ、どこかから子供たちの声がした。ただし子供の姿はどこにも見つからなかった。
涼しそうな木陰があったけど、置き去りにされた虫かごが絶えずぱちぱち言っててうるさかった。
直前まで誰かが遊んでいたのだ。惰性でゆれているブランコの鎖を、僕はつめたく手にとった。おにぎり「砂が入って、捨てようっておもったけど、一口食べてね」やっぱり食べれなかった。そう、口にして、それから僕は乗りもしないブランコの鎖の音でぢゃりぢゃりとそれを誤魔化した。すると彼女は急に腹を抱えて、笑いだすのかと思った。彼女はふとその場にしゃがみこんだ。
それを見おろす僕は彼女のスカートの中をみてしまった。
観てはいけないものを見ているという変な想像をしているうちに、彼女はとつぜん靴の裏をさわりだした。そして何かをはがしたかと思えば、それは白い色のガムで、それをいったいどうするのかと僕が身構えた直後、彼女はそれをくちに含んで『うう』と息を押し殺したのだ。
笑いをこらえているのかさびしさに耐えているのかよくわからない顔をしていた。
その顔はもっとも僕の記憶に残っているなかで彼女にしてほしくない表情だった。
そして僕が恥ずかしく笑おう笑おうとしている間にも赤かったそらはくらくなっていった。
彼女の顔が見えなくなる。
『うう』と僕も闇雲に靴の裏のガムをはがそうとしたけれど、そんなものはどこにもない。時間がすぎた。表裏一体というふうに彼女の口内をのぞくみたいな、夜がそらをのみこむ。僕らは約束通りに、放課後に鍵をこっそり開けておいた窓から学校にしのびこんだ。
”今の僕には”どうしても、誰もいない夜の学校で済ませておかなければいけないことがあった。
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日頃からよほど我慢をしているのか。彼女は扉をぶち抜くように教室の中に入っていき、いきなり足を振って机を蹴り倒そうとした。
僕はそれを制止するふりをして、彼女の反対側からおもいきりその机を引いた。
机が倒れる直前、ばらくぢゃと、机の抽出から何かが落ちてきた。それは教科書のようなものと…進路希望調査票だった――。
なにより机が倒れてすごい音がしたのも僕の胸をざわつかせた。
彼にしては…と思った。彼にしてはありえないほどに進路希望の用紙には皺のひとつもない! どうして…第一志望のところにだけなにか書いてある…! 第二、第三の欄には何も書かれていない。僕は理不尽に怖くなってからっぽに自分の机。自分の机。自分の机へと彷徨った。
「やっぱり…もう、遅い?」「おまえがやるって言ったんだろ」と、彼女がどこかから赤いものを取りだした。それは懐中電灯で―そのとき窓から月明りがさし込んだ。僕はあいつの進路希望の紙を拾った。彼女がそれを照らすと、てかてかと鉛筆の『医師』という丁寧な筆跡だけが光ってみえた。
僕の足もとの土足と、一緒に、床に投げつけられた医学部なにがしという本まで目についた。
なんで! 僕は言っていた。あいつは本当は何なのか。
瞬く間に頭のなかに、あいつに蹴られて泣くのを耐えていたクラスメイトを思いだした!
僕はまた苛々(いらいら)してたかが一枚のプリントを一直線にみくだした。
なんで、他人よりつよい体格をして、大人しい人間に暴力をふるうあんなのが!
どうして医師になりたいものかと! 気味が悪くなった。本当に医師をこころざす人間が、あれだけも人をいじめたりするものかと怖くなった。本当に彼は! なりたいのか。本当は、彼はやりたくないのか…なのに書いたのか。医者なんて、ありえない夢みたいな話だが…もしや大人や親に! 医者になることをあいつは強要されているのか、どうでもいいそんなことあいつの意志のどうこうなんて知りたくもない、ただ……プリントの、第一『志望』のよこの空白にだけは、つよく汚い文字で、脂肪、死亡、と皮肉めいた文字がいくつも書かれていた。もしかするとそれは…僕のような人間が体が太った彼への仕返しとして書いたのかもしれないし…あいつ自身が、べつの誰かへの復讐として書いた文字かもしれない。僕は少しのあいだ『脂肪』、『死亡』、という残念な文字を見つめた。
それでもあいつが悪く理解されるのはあいつの仕業だと思うしかないから。
ながれで僕は砂が入ったおにぎりを想った。そのまま彼の将来を想像した――
実感を刺したそれが、てきとうな妄想に止まらずいやに哀しくなってきた。
(本当はこのとき何をどうやっても満たされない自分自身の中身のなさが哀しかったのだ)
僕はあいつに仕返しをしたかった。だから学校に侵入した。あいつをこのさき立ち直れないようにしてやりたかった。それなのに僕は…あいつの参考書を拾い、ましてや彼の机を起きあがらせた。
僕は、彼の進路のすべての『シボウ』という字がこれ以上ひろがらないよう、消しゴムでゆっくりと消していった。消していきながら『自分はいったい、何をしに、学校に来たのだろう』という、決してすがすがしさとは違う、鉛筆では表せないような…黒い空洞を…自分の胸に感じていた。
そこにはなぜだろう何となく、まるい夜空の月がきつくおさまるきがした。
夜みたいに、黒い僕のからだの影はよりながく廊下のほうへ伸びていった。
月ってなんでひかってるんだっけ、とどうでもいいことを一瞬だけ考えた。
自分の胸を手でつよくおさえると、何かが貫通して背中から汗がながれた。
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『何がしたかったんだお前』、とか、代わりにあの参考書破ってやろうか、とか。
彼女の声色が冷淡になっていく。そうするほどに夜空の色までが深くなる。僕のなかを一巡する不安の流れに比例して、そらに光る月や星座が薄い雲に流されていく。そんな気がしてしまう。
しばらく教室は四角く、真っ暗になった。僕は彼女の制服の裾をちょっとつまんだ。
「ぼ、ぼくは」どうすれば、いいですか? 彼女の返答次第では僕は僕を終わらせる覚悟がある。
それなのに「しらなーい」と(僕がじぶんの制服の裾をつよくにぎっている間にも)、もうそのへんのてきとうな机の上に、彼女はとんと飛び乗ってしまっていた。
「――お前はわかってるくせに」
そして彼女は、制服をおおきく翻しながら、不安定な机の上を浮遊するように、自由に舞った。わたしが知っているこたえは! などと言いたげに、あろうことか、ふたつも机をとばして、黒板の方角の、ずっとさきの机にもうしっかりと彼女は着地していた。
僕は夢でも見ている気分だった。その机は僕がずっと前から気になっている女子の机だった。
その机と椅子と、彼女のほそすぎる足とに、僕は交互に目をこらした。自然と僕の足も動いた。
もしもこのまま彼女を見失ったら、とうぜん彼女のことは理解できないだろう。それに、それは同時に僕の生き方や人生も、この先、永遠に誰にも理解されない裏返しなのだと、僕は漠然と思った。
机から、音もなく飛び降り、そのままの勢いで逃げるように彼女は暗い廊下へ消えたのだが、このとき教卓のヒヤシンスの花瓶と、彼女の髪のにおいとが相俟って、青く甘いものが教室に充満していた。本当にそれだけだった。それが僕をいっそうかくれんぼの親のような心にさせた。
僕は廊下をすべるように走った。『廊下を走ってはいけない』という誰かの音声が頭をよぎった。
そのような声を、追い抜くような爽快を、僕は感じた。頭がかっと熱くなった。するとなぜか今日のサッカーの授業で「走らないおまえは」邪魔だといわれた声まで僕の荒い呼吸の音といっしょによみがえった。調子が重くなった僕は気づかない段差であやうく躓きそうになった。けれど、自身の重たさを蹴るようにして、風のない場所で向かい風をうけながら彼女をさがして追った。
本気を出して走るなんて、いつ以来だろうと。忘れかけていた刺激に咳き込みながら――。
気づけばそこは廊下ではなくて、校庭をすでに通り抜けていた。そして学校というものを背後に感じた刹那、数秒だけ、自分が何者かに追われている心になった。それは、今ここに居ないはずのクラスメイトか、はやく『進路のプリントをだしなさい』と僕の人生を急かしてくる大人たちか。そのいずれにせよ、今の僕には、限界だった。息が切れた。こ、これから、将来、未来…に、僕は■■■に、なりたい、今日…朝に、打ち明けて、しまった! やめたほうがいい、らしい。親は……『お前のために』、やめたほうがいい、といった、なんでもない景色が、寝静まった夜の街が、しないはずの親の声が、僕の横をながれていく。ふりあげる足に、だんだんと感覚がなくなる。もどかしくなって、僕ははじめて前髪を手でかき上げた。そして声をつよめた。「なにがいけないんだよ!」僕は頭の中で、繰り返した、なんで。なんで。こんなにも、思い通りじゃない、将来とか、目標のことで…なんで! 考えた、のに■■■は! やめたほうがいい、という、あのとき僕はたしかに一回押しつぶされて、ある意味では死んだのだ! 『僕のため』と! いうならその力で僕がいじめられるのだって……そうじゃない。そうじゃない。と心臓がいまに止まりそうなほどに、激しく上下する。そのたびに、すたた。すたた。と僕が走る速度は、頭が真っ白になるほどに安定する、だから僕と! 彼女、ふたりのかんかくは! せまくなっていく! そのはずなのに! なんで! なんで! と息を止めて走って、もうすこし! もうすこし! って近づけば近づくほどに、すたた。すたた。すたた。と、これ以上。離れないで。お願い。と、彼女との足音のずれを! 理解しなきゃならない!
汗が流れて、頭が痛くて、その先で僕は! 自分の気持ちわるい『なんで!』変声期の声で喘いでいるなかで、今すぐにでもやめてしまいたいなかで、なのにそんな苦しい間にだけ、僕が。……
本当に手に入れたいものが、そのカタチが、ぱちぱちと光り明確に目の端に浮かび上がるのだ。
どこにもたどり着かない、堂々巡りの途中で、ようやく僕の目には、先を走る彼女の真っ白な足が見えてきた。僕の体が、真夜中の、道路を走っていることを、街全体に響き通る自身の足音に思い知らされた。止まらない怒りと、恐怖とにふるえる手が、彼女の背中に、いまに触れそうになった。
この勢いのまま彼女にふれるのだと知ると、血が全身を駆け巡る。ほんとうになにも無い自分が、輝く彼女の全部が欲しいように、目の前の彼女さえも”あの子の姿”を真似しているのかもしれない。そんなことを思ったら、なんでだろう僕の視界は暗転した。転んだのだ。足がもつれたせいだ。
膝に違和感があり、見下ろすと血がにじみはじめていた。ずぼんを捲ると血がながれた。
「見つかったな」もう、と彼女から、僕の顔を覗きこんできた…はじめてみた。こんな悲しそうな表情をはじめてみた。「か、かな、しいの?」と息を詰まらせておきながら、僕は痛みをかくすように、笑っていた。そのつもりだった。だから僕にはわかってしまった。ああ、今の彼女の表情こそが、今の自分が本当にしている表情なのだと。僕は本当に悲しくなった。
「こんなに熱いのに」僕はとっさに彼女から顔をそらした。彼女が、僕の膝をなめている。
「こんなに熱いのに」血は無機質な鉄の味がする。僕は目をつぶった。だから彼女の舌の感触そのままを、頭の中でていねいに描くことしかできなかった。これは生きている温かさだ、まるくうごいている、彼女のそのやわらかく這ったあとのまるい唾液の冷たさは、切れた皮膚の、中で……。
僕は恥ずかしくてその”手当て”を見ることも感じることもできなかったけれど。
心のカタチを、彼女はそこに描いていたのではないかと疑っている。
○
「どこまでもついてきやがって月みてえに」そう言うと彼女は僕の手をはなした。
僕が泣きやんだからだと思う。そうはいっても、僕の潤んだままの目はいつまた涙が出てくるかわからない。たったそこにいるはずの彼女に…ちゃんと目の焦点を合わせることも叶わない。
その間、僕は自由になった手を宙に泳がせてみた。月の光が白い腕の無数の傷を照らした。
『ねえ、蚊がとまってるよ』
「どこに」
「くびのところ」
『じゃはやく殺してくれよ』
彼女は僕のほうにからまった黒い髪を向けたまま、星なのか、人工衛星なのか、わからない光を見上げている。僕は本当に彼女ごとたたいてしまおうかと考えたけれど、おもわず躊躇した。盆の季節になったらそういうなんでもない生命に誰かの魂が宿るという話を思い出したからだ。
ただ去年に祖父が死んでしまったから―そういう事に脳が過敏になっているのかもしれない。
虫を殺してはいけないし、殺されなくても僕はどうせ死ぬのだし…というふうに、それならばもし夢や目標をつかんでいたとしても、結局はそれは終わってしまう人間にとって意味があるのかどうか。
無意味なことと知って、大人は僕からそれを訊きだそうとしたり否定をつよめたりするのか。
…祖父の葬儀を終えたあの翌日も、父親はそれほどさびしそうな様子をみせなかった。
それを受け入れたのかどうか、などと僕は問うことをしなかったけれど…とにかく父親は普段通りに新聞を広げながら「おれもあと二十年か三十年か…」などといった。
その晩のことだった。せっかくだしということで、祖父がもう少し若いころの写真をみようと家族のうちの誰かが言いだした。僕は眠たくて嫌だとも言えなかった。
あの一晩の、家族どうしの久々の長話も僕の記憶からは抜け落ちていたのだけれど――。
祖父のアルバムの写真も何枚かは、ところどころ抜き取られていて…それでも、これだけは忘れない。母親が「あ」と指をさしたかとおもえば、僕自身も『あ…』と声を大にした。そのとき父親は、「ああ」と笑った。そこにあったのは、祖父とならんでうつっている父親自身の写真だった。高校生くらいの顔立で、白黒で、まじめな表情をしてそこに立っていた。似ている、と思った。僕に、似ているのだ。いやそれはもう似ているという問題を通り越して、僕の数十年後の顔はまさに、目の前の父親になっているのではないかという既視感さえおぼえた。僕は! 目の前の父親と同じ未来をたどるのかととたんに心細くなった。『二十年あと三十年あと…』などと僕はこの人と同じ脳で生きなければならないのかと震えるほど奥歯をかみしめた鮮明な記憶がよみがえる。それは妄想でもなんでもない。その日を分岐点に、僕の夢とか未来というものは、運命の呪いにたたきのばされてしまった。そうしてできた、道ともいえない道を、僕は今日まで誰かの足跡を探すように歩いている。
昨日両親に否定される前に、僕はとっくの昔に自分の意志をつらぬけない道に立っていたのだ。
僕はなんでいつもこういうことばかり思い出してしまうのだろう…。
僕は涙が溢れそうで上をむいた。「解き放たれたいな」と僕は口だけをうごかした。
夜空なのに、今はこんなにもあかるく目にうつる。
――そう、暗いのに、あかるいのだ。
彼女から逃げてしまった蚊もそこにまぎれて飛んでいった。
不運にも蚊に螫されてしまったのか、それとも僕のながい自分語りに痒くなってしまったのか、まだそこにいる彼女はくすぐったそうに自分の腕を擦るように抱くようにしている。
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僕はどういうときに春が終えたと感じ夏がそろそろ終わるなんてことを感じるのだろう。ぱちぱち。ぱち。夏にしてはやや肌寒い、真夜中におちた住宅街の端からはしに、ぱち。ぱち。という妙な音が響いている。彼女が爪を切りながら歩いているのだ。
その音があまりに大きく感じるため、「おきるよ、寝てる人たち」と僕が言うなり彼女は、ぱちぱちっ。と黒々とした、微弱な音を漏らす電線を見上げた。「なんか…こんな白黒の箱に、人が寝てるなんて信じられねえよ」「ほんとほんと」珍しく僕は彼女に同意ができた。あかい鳥居のあたりで、ひときわ広々と空を覆い隠す樹木がしげっている。僕にはその木葉が、まばゆい昼間にどれほどの色を放つのかを、たったいま想像することができないでいる。
今の僕には本当に、枯れた大人の黒い手がおびただしく空にむかっているように見えている。
いいやむしろ、こちらに手招きをしているようにしか見えない…。「これからどうする?」僕はまるで自分に言い聞かせるような質問をした。「爪切り終わったあとの指、嗅ぐ…」と、彼女の声はなぜか嗄れていた(大きな声ばかり出すからだろうか)。僕は彼女が爪を切り終わったあとのどこか焦げたような匂いを想像し、今はただ偶然に、逆光になっているだけの暗い彼女のことを想像した。
「こっち視んな気持ちわりい…」
「ごめんなさい」
――本当は明るいのに……。
本当は優しいのに、僕がそんなことを言わせているのだ。
わかいキイロ、青みどりを僕は頭上の木葉に心でかさねた。
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僕はおろおろとしながら邪魔なのに切れない前髪を時間をかけていぢくっては立ちどまった。
驚いた。そこで突き当たりだった。僕が、はたりと見上げる途中に、何かの柱があって。そして、上方向への矢印がみえて、『注意!』とあった。僕はなんの迷いもなくこの分かれ道を曲がろうとした。ただし見上げるとミラーがあって、その凹凸の中の自分の体がやけに大きくみえて怖くなった。
「夏祭り」「体育祭」「文化祭」とお互いに嫌いな人やモノを言いあいながら、不穏でありながら、どこか僕はこの夜の路地裏に居心地のよさを覚えてしまっている。
だんだんと暗い中でも目が見えてきて、足元の、蛾の死骸ばかりが目につくようになった。
ああ、と思った。僕とこうしてこんなところで、これからというところで自我を終わらせるしかない彼女なのだと思った。
明日にはもう同じ彼女はいないのだ。
だから? どうにか…今夜のうちに言っておきたくなった。僕が本当にこれからなりたい姿やしたいことを最初から最後まで話そうと思った。おかしなことだけど「うるさい」「気持ち悪い」「髪を切れ」という彼女の否定の言葉たちは、ただの否定の言葉でしかない。―この横断歩道を渡りきるまえに―言わなきゃ! と決めた、白。黒色。白。(の色々なこと)を交互に! 言う。言わない。言う。なんて、「ぼくは」「じつはね」「ぼくは」という横断歩道を渡りきるまえに、しかし僕の足は無我夢中で、今までこんなことできなかったのに、気づけば進む道を自分のほうから車道へずらしていた。
だって僕が目指した進路って…そういう未知だから。
もしも僕が”彼女”だったら迷わず同じことをする―
願ったとおり彼女は僕の手をつよく握り返してきた。
彼女と一緒ならどこまでも行ける、そう想った矢先。
彼女はまるでなにも聞こえないようになってしまった。
「ねえねえ」「あの」と耳打ちをしても無視をされる。変わりに、彼女は民家の窓ガラスにうつる僕の顔を…撫でながら(その黒い鏡にうつる彼女は必然的に左利きになった(左利きは天才だという迷信は僕の憧れだった(もしも僕が天才だったら進学などしてみたかった(そして彼女が指にたまっていく埃を呼吸でとばすと煌めいた。
彼女はもう手遅れに変になってしまったみたいだった。
「たとえば、あのそらの星座は、なにかちがう生き物のカタチを夢みて……」産声みたいな輝きを放っている。
「は…どういうことですか?」、急におかしくなった彼女を心配する僕の言葉はさえぎられた。彼女は次のようなことを続けた。『けれどそのすきまは繋がらないトンネルのように遠すぎて、もう会えないかもしれないね』僕はこらえきれなくなり、彼女の顔を覆っていた手をよわくどけると、
首がすわらない彼女はまぶしそうに、こういうのだ。
「ひかりってざんこくなきぼう」
もう、怖くて、やめてほしかったよ。どこからかバイクの音がしてくる。もうそんな時間なのだという、現実が面白くもない。ぼくの家にも新聞をいれに往くのであろうエンジンの音と、うるさい光が、こちらへ近づいてくる、片道一車線の真ん中を注意もなしに歩いていた僕らは、それをよけなければならない。僕は彼女の手をひいた! ”恐ろしい速度でバイクは彼女とのぎりぎりをすれ違った”。足もとの「出合頭!」という字が一瞬間だけおおいに照らされた。「しゅつごう? なに」と僕はそれ以上かんがえることをしない。それと同じくらいにあらわになった彼女の顔は例のごとく逆光になった。バイクはずっと向こうをいった信号機で、しずかにうごかなくなった。その周辺の家々の壁が、信号機の赤色を一面に反射させていた。それでも僕は彼女の正体を疑うことをしたくはなかった。
それからの道のりは、なんだか夢の中を歩くようだった。
追いかけっこを、ぐるぐると誰かと続けているような気持ちになった。
ただただ風船のような僕の頭に、彼女の声みたいな空気が温かく流れてくるだけ…『わたしには一年前からさきの記憶がないんだ』…「うん、」と僕はうなづいた。そうだね、だってその頃はまだ「ぼくは二年生だったから」、しかたがないよ。
(夜空の月が急に見えなくなった)
進路や目標に急ぐことなんて頭になくて…愉しかった。かな? 現在では「当時よりも私にはこうして歩く意味すら分からなくなってしまった」、「ぼくは、このままでいいよ」こういう道を永遠にきみと歩きたい、聞こえないのをいいことに、僕はそんなことまで口にした。ぞっとした。僕の頬に、ぬるい何かが流れた。雨が降ってきた。天気予報になかった雨は一瞬で街の景色になじんだ。
「雨だ」「…あの星もたぶん、朝には存在しないよね」と彼女はめずらしく後ろ向きなことを言った。
どこまでも”光”というものを、あらゆる意味で彼女は受け入れたくないのだと思った。誰が、何をもって、彼女のことを本当の意味で照らすことができるのか。僕にだってわからない、わからない。
そうやって僕がまた無意識に下を向こうとしたときだった。
はっとした。途轍もないいきおいで前方から風が吹いてきて、雨と、何かが飛んできた。
それはまぶしかった。僕は目を閉じた。暗いはずのそこには…祖父は今でも元気でいるし、友達がいる学校が楽しくて…あまりの風の強さに体が浮いてしまいそうになった。けれど彼女は美しく髪をはためかせながら、飛んできた何かをキャッチした。「は…」と僕はなげいた。その手にあるのは傘だった。僕は意味もなくこのおかしな状況を幸運だと感じた。赤だった信号機も青に変わった。
「青だよ」と言った僕に、傘をさしながら、しかし真剣な顔で爪を切っている彼女はこのまま居なくなってしまうのか…僕の足音へかさねるようにして、ぱち。ぱち。ぱち。と、消え。たく。ない。と指を切っていくのだ。等間隔だった外灯もぱち。ぱち。ぱち。とてんてんとひとつずつ光を消していく。「かえろうよ」僕は彼女の懐中電灯で彼女を照らした。■■■! 「あれ!」、なんだっけ、名前が、だって! 今までそばにいたのに、彼女の名前は、■■■! どうしてこんなにも、こんなこと! 夢であってほしい。だって僕たちどこにもいけないよ! 「それはどこにでもいけるってこと」「わからないよ!」、こんなにも胸が痛いのに! 「ここにいるから」と彼女は切り終えた爪で僕の心を優しくひっかいた。(僕はこのとき、あのとき走っていった仔猫の心がわかってしまい本当に悲しくなった) だから! 『ああ! あ』うご、け! と子どもと、大人―高校生の僕―外皮と肉体を切りはがすみたいな悲鳴を! 僕が叫んだとき、”僕の気持ち悪かった声は”、低くなり、声は二度と、”二つ”に揺れなくなった。その瞬間この世界のほうが壊れるくらいおおきく揺れた、夢とか現実とか、希望もむなしさも、本当にわからなくなるほどに、つよく揺れた。彼女は制服のセーラーカラーをちょっとひきさいてそれを綺麗な白い紙にして渡してきた。『あ』「あ」とその先を言えない僕は下を向いた。
が、やめた。僕は彼女にふさわしく前を向いた。
前髪をいぢろうとする手をまっすぐに伸ばした。
その中であらゆるすべてがふっと光に包まれた。
微笑むように、嫌いな朝が来るのだとわかった。
そして僕はその光にすみずみ照らされるという、たったそれだけのことで、彼女のことを理解できた気がした。たしかに壊れていくし、それでいて創られ続けていく世界のどこかで、いつか、彼女が笑っているような予感もある。それもすぐに彼女とはここで最後なのだという実感に変わっていく。■■■! 彼女はそう言って姿を消した。僕もすぐにそんな風に変わってしまうだろう。揺れ動き色がかわり傷みをともなう光のなかで不思議と僕は幸せな彼女のことだけを、想えた。
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■■■! と、僕は彼女の名前をさけんだ! 思いだせたのだ! そうおもったと同時に、僕は、反射的によだれをすすった。じゅっと音をたて、あたりを見渡そうとくびを、顔を上げると、そこは見慣れたまぶしい教室で、僕の腕は(何かを離さないようにするみたいに)机を抱くようにしていた。
そして――。
光に慣れはじめた僕の…目の前には、本当に本当に彼女にそっくりな、あの子が立っていた。
僕はかおを熱くしながらいそいで口もとをぬぐった。
腕にあたってしまった鉛筆が床にちゃらと転がった。
たまたま通りかかったあいつが鉛筆を拾ってくれた。
へえ、と思った。僕はさっと机の上に目をそらした。
そこにはあの進路希望調査のプリントがあった――。
そうだった。僕は授業中に、この紙に女の子の絵を描こうとして寝てしまったのだろう。
はしっこの、白紙の部分にはまだ顔の輪郭ともいえない、うすいまるい線がのこっていて…それを僕が消そうとしたときだった、あの子は(やっぱり…かわいい…)じゃなくて、目の前の彼女は! 後ろにいた友だちに「じゃあね」と手を振って、ゆっくりと僕のもとに戻ってきたのだ!
「なんか、言ってたよお」と彼女は、おっとりとした綺麗な声をだした。それがなぜか僕には意外だった。「なんて!」と僕は即座にききかえした。僕はまさか! なにか”夢”をみているあいだに! すごくすごく変なことを言ったのかもしれない!
「な、なんて」僕は彼女の前で、いったいどこまでを話したのだろう。……
彼女はそんな緊張しなくてもいいよと言う風に顔の前で白い手をゆらゆらとさせた。
「えっとねえ」彼女はすっと僕のほうに手を伸ばしてきた。「きみがこのせかいの、ひとつ? になる」、みたいなこと、と彼女はわけのわからないことを言いながら、僕の進路のプリントに、気づけば指をのせていた。「なにそれ、え、なにそれ」と僕があたふたする様子に、臆することなく、『おんなじー』と彼女が笑ってから。それから二人で何を話したのかを僕はまったく覚えていない。「えっと、えっと」、「わたしと第一志望おんなじー」、「あ、あの」、「声かわった?」、「ぼ、ぼくは、ぼくは……」