睡眠について
黒子は俺の声にも動じず、テーブルに料理の盛られた皿と液体の入ったコップをそれぞれ二つずつ置くとすぐに下がっていき、その姿は瞬く間に見えなくなった。
皿の方に目を落とせば、焼かれた肉の塊。肉料理のようだ。
「……これは?」
「ここは料理も提供してくれるの。それに密会用の店の割には味も悪くない」
目の前に置かれているのは洋食店で出されるステーキとほぼ同じ見た目で、現実の世界でよく見るものと瓜二つだった。
って、これは俺の夢の中なのだから当然か。
おそらく無意識の内にもご馳走を想像して、ご馳走といえばステーキだと……。
ご馳走=ステーキという自分の貧しい発想に少しガッカリしながらも、リンの方はと言えばステーキを凝視していた。
「……リン?」
「えっ? あ、ああ、ごめんなさい。さあ食べましょう。安心して、味がいいのは私が保証するから」
確かに美味そうだ。
ただ、ジューシーで見た目は満点なのだが香りがあまりない。
それでも朝から何も食べてなく、あれだけ歩いたのだから空腹を思うには十分だった。
しかし夢の中で食べるものに味はあるんだろうか?
皿にはフォークとナイフも添えられており、現代風で扱いに困るようなものはない。
さっそく肉を切ろうとすれば少し硬い。
一口を切り分けて口に運ぶと弾力が強く、夢の中のご馳走ステーキの割に味は微妙。
不味くはないけど、特別美味くもない。
というか、こんなにはっきりと味がするんだ! とむしろそっちの方に驚いていた。
「……ん?」
視線を感じて顔を上げればリンが観察するように俺のことを見ており、自分の皿には全く手をつけていない。
「どうかしたのか?」
「ううん……なるほどね」
「なるほど? 何がだ?」
「食事は同じだって、それが分かってちょっとホッとしてるのよ」
「食事が同じ? って、そりゃそーだろ?」
「いいえ、どうかしらね」
リンはようやく自分の皿に手をつけ始め、肉を大きく切り分けると威勢よく一口目を頬張った。
そのあと飲み物で流し込むようにコップへ手を伸ばし、口の中を空にすると再び口を開いてみせた。
「あなたの世界とこの世界とでは、睡眠に関しては大きく違うのよ。なら、食事だって同じとは限らないと考えるのはおかしいこと?」
「……まあ、おかしくはないかな」
俺もコップに手を伸ばし、この濁ったような色の液体を飲んでみた。
……ぶどうジュースのような味。
おいしいけれど、ちょっとぬるい。
「でも、これで説明がし易くなってよかったわ」
そう言ってリンは残りの肉にフォークを突き刺した。
「この世界における睡眠は、これと同じってことよ」
突き刺した肉を顔の前に掲げ、リンは言う。
だが俺には意味が分からない。
「これって……肉、じゃなくて……食事と同じって言いたいのか?」
「ご名答。理解が早いじゃない」
リンは肉を置き、再び飲み物を手に取った。
「褒められたところ悪いが、全然意味が分からないけどな」
「まあ、でしょうね。なら別の言い方をするわ。この世界の睡眠には犠牲がいるの」
「睡眠に……犠牲?」
「そう。この世界で眠るためには、その睡眠時に何か生贄が必要なのよ」
「…………」
何を言っているのか全く分からない。
いや、正確には何を言っているかは分かるが、それでも言っていることの意味が分からないのだ。
「それって、どういうことなんだ……?」
「だから、これよ」
リンは再びフォークを手に取り、肉を掲げて見せる。
「おそらくあなたの世界でも同じように食事をして、食べることで栄養を得て活動する。どう? 違ってる?」
「……それは同じだよ」
「そう。よかったわ。じゃあ今度、それを睡眠にも当てはめてみて」
「……睡眠にも……?」
「あなたの世界的に言えば、この世界では眠るための食事が必要なの。ただ食事と違うのは、これみたいに死んだ肉を焼いたものじゃなくて、生きているもの。まさに生贄が必要なこと」
……。
言っていることはなんとなく分かった。
だが、それはあくまで”なんとなく”だ。
実際、まだ意味が分からない。
「だからこの世界で眠るときには睡眠物、つまり眠るための生贄を用意するのよ」
「……それを用意しないと、どうなるんだ?」
「眠ることができない……と、そう言いたいところだけど――」
「どうなるんだ?」
「……ずっと眠らずに生きることができると思う?」
「それは――」
「できないわ。あなたが今、空腹を感じて食事を始めたとすれば、そうした生理現象は私たちの世界の人間と同じようようね。なら、そこも理解できるはずよ」
「……ああ、それは分かる。ずっと眠らないでいるなんてことは不可能だ」
「そういうこと。もちろん、それはこの世界も同じよ」
「じ、じゃあ、そのすいみんぶつとやらを用意しないで寝たらどうなるんだ……?」
「話を聞いてなかった? 生贄が必要だって言ったわよね」
「だから、それをすいみんぶつって呼ぶんだろ? それを用意しないで眠ったらどうなるかって聞いてるんだよ!」
「落ち着いて。私はさっき、こう言ったわ。生贄なしには眠ることができない。この事実を聞かされたのなら、その答えはもう明白じゃない?」
全然明白じゃなかった。
わけが分からないままだった。
それでも一つ確かなのは、俺は森の中で眠っていたということ。
そのすいみんぶつとやらを用意せずに、だ。
「……でも、俺は――」
「ああ、そうそう。食事と同じようなもの。私はさっきそう言ったけど、それは正しくもあり間違いでもあるわ。だって食事は、何を食べるかを自分で決めることができるでしょ? けど、睡眠に関していえば、それは違う。大きく違うのよ」
は? と今度は俺の方がポカンとした表情をしていただろう。
その顔を見てか、リンはクスッと笑ってから言葉を続けた。
「睡眠時に必要とされる生贄、それをその眠っている者が選別するはできないの。一般的にはね」
「……生贄を選別できない? どういうことだ?」
「つまり、眠っているものはその眠るための生贄を選べないってこと」
「じゃあその生贄はどうやって選ばれる……?」
「それこそ簡単な方法よ。もしあなたが飢餓で苦しんでて動くのも辛いとき、食料があなたの周りにあるとしたら、その食料をどこから取るの?」
「それは……近くにある食料を取る」
「そういうこと」
どう? もう分かったでしょ?
そう言わんばかりにリンは口角を上げ、俺のことを見つめてくる。
「……悪い、ここまで説明してもらっても、やっぱりよくわからない……」
「そう?」
「ああ。というか現実的ではないというか……」
何言ってんだ、この女?
ここまでの説明を聞いて、まずそう思ってしまった。
というか、話が突拍子もなさ過ぎる。
仮にこれが夢の中の、それこそ別の世界だとしても、この女が言っていること全てが本当であるとも限らない。
夢の中に出てくる狂人。
そんな可能性だってあるのだ。
何? 眠るのに犠牲が必要?
それも生贄?
は? なにそれ? どういうことだよ?
たかだか眠るってだけのことに、どうしてそれほど真剣な表情になる?
じゃあこの世界だと不眠症が歓迎されるとでも!?
馬鹿らしい!!
こんな変な夢からは一刻も早く目覚めたい。
ここに来て、心の底からそう思った。
だからフォークを手に刺してみようかと思ったが、その前にドン! と物音が目の前から聞こえてハッとした。
顔を上げるとリンは既に残りの肉を平らげており、音はコップを荒々しく置いたためだと分かった。
なんだかリンは苛立った様子で、そのまま立ち上がると
「そろそろ行きましょう。私が会計を済ませてくるから、その間に食事を済ませておいて」
そう言い残して去って行く。
暗がりに紛れて姿はすぐにぼんやりとしか見えなくなる。
俺は言われたとおり食事を済ませようと残ったステーキを口に放り、ジュースを飲み干した。
朝からステーキは結構ボリュームあって、ふぅと一息ついていると「さあ、行きましょう」とリンがすぐに戻ってきては早く店を出ようと言ってくる。
そのまま従い、店を後にすると日はまだ高く、昼ぐらいに感じられた。
まだ目が覚めそうな気配はなく、仕方なく俺はもう少しこの世界と付き合うことにした。
「……で、これからどうするんだ?」
「どうするって、決まってるでしょ?」
どうするか分からず戸惑いかけたところで、リンが笑みを見せる。
「宿に行くわよ」