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春夏秋冬  作者: 向井孝雄
8/13

夏・荒れ狂う嵐の中で とまどい

 「ハッキリ言って、今のわたしは、あなたのこと、好きでも嫌いでもないって気分なんです。」

終わりのほうでは強ばった表情が緩み、見開いた瞳からはうっすらと涙がこぼれていた。妙子は一目散に駆け出した。孝雄は長い髪を振り乱して走っていく妙子の後姿を呆然として見送っていた。


その夜、孝雄はじっとしていることができなかった。ベッドに入って目を閉じても妙子の顔が浮かんでくるし、妙子の声が聞こえてくる。孝雄は、雨の降る歩道に飛び出して、大声で叫びたい気分だった。が、それはできなかった。その夜は、とても眠れない気がした。机の上の薄いブルーの便箋が目に付いた。手紙などほとんど書かない孝雄が、妙子から初めて詩を書いてもらった時に、いつかはお返しをしようと思って買ってきたものだった。孝雄は何枚か引きちぎると、傍らにあった万年筆を手にした。


翌日、孝雄は一日中イライラしていて、授業などとても身に入らなかった。昨夜の事が気になって仕方なかったのだ。授業が終わるとすぐ総務室に行って、頭を抱え込んでいた。しばらくして妙子がやって来た。

「あら、早いのね。」いつもと変わらず、そうあいさつすると、妙子は鞄を置いて仕事を始めた。孝雄は、内心驚いた。妙子は、今日はもう総務室に来ないか、来るにしてももっと沈んでいるだろうと予想していたのだ。孝雄は混乱した。そうして、昨夜の事はやっぱり彼女の気の迷いだったんだという思いが首をもたげてきた。

「ゆうべのことだけどさぁ。」

孝雄が精一杯軽い口調で声をかけると、急に妙子の顔色が変わった。今まで、はなうた交じりに軽快に動かしていた彼女の右手がピタッと止まった。孝雄は仰天した。弾みかけていた心が、凍りついたようになった。妙子がキッとして孝雄のほうを振り向いた。涙のにじんだ大きな瞳をいっぱいに見開いて、孝雄をにらみつけていた。孝雄は、彼の恐れていたことを一度に認めざるを得なくなった。もはや、妙子に問いただすことは一つもなかった。孝雄と妙子はにらみ合ったまま微動だにしなかった。その間に、孝雄の頭には、悲しい事実が次々と浮かび上がってきた。

妙子にとっては、今この一瞬が最も悲しい事実だった。

突然、妙子がいすをけって外に飛び出した。孝雄は、はじかれたようにその場にヘナヘナと崩れ落ちた。孝雄の頭は混乱していた。そのままにしていたら、身も心も砕けてしまいそうだった。孝雄は何も考えないようにした。鞄を手にしてフラフラと総務室を出た。

帰り道、孝雄は夢遊病者のような定まらない視線で歩いていた。ただ、手と足だけが動いているように感じた。交差点で信号を待っている時、渡りきった先に赤や青にチカチカと光るものが目に入った。孝雄は我に帰った。孝雄が見たものは、酒の自動販売機だった。孝雄はポケットをまさぐった。五百円玉が二枚出てきた。あたりを伺う余裕もなくそのお金を自動販売機に投入すると、ウィスキーの小瓶を鞄に忍び込ませた。


孝雄は酒を嫌っていた。酒が父親を暴れさせると思っていたからだった。もちろん孝雄は、これまでアルコールを一切口にしたことはなかった。家に帰って、自分の部屋にはいると、孝雄はウィスキーのビンを取り出して机の上に置いた。つい買ってきてしまったが、孝雄はまだどうしようか迷っていた。ふと、ウィスキーの瓶から目を逸らすと、ハートマークのシールで封をされたピンクの封筒が目にはいった。いたたまれなくなった孝雄は、ウィスキーの瓶を手にすると一気に飲み干そうとした。何度もむせ返りながら、孝雄はようやく全部飲み干した。初めてのウィスキーに、孝雄は完全に泥酔してしまった。

次の朝、まだアルコールの残っている青い顔をして、孝雄は登校した。一日中ただ座っているだけだった。授業が終わると、無意識のうちに総務室の前に来ていた。総務室のドアを開ける音で、夕べからずっと眠っていた孝雄の意識が目を覚ました。孝雄はゆっくりと総務室の中を見回すと、言いようのない悲しさに襲われて、その場に立ち尽くしてしまった。目をつぶると、孝雄の手の中で無邪気にはしゃぎまわる妙子の姿と、昨日の涙をにじませた妙子の顔とが、交互に浮かんでは消えた。孝雄は風に吹き倒されるようにヘナヘナと崩れ落ちた。思いっきり泣いてもみたかった。泣いてみることで、少しでもこの悲しみから逃れたかった。しかし泣けなかった。孝雄の頭は、悲しみと絶望と疑惑と、あと幾つかの不安とで混沌としていた。

「ガチャ」ドアの開く音がした。孝雄は、我に帰ったが顔は上げなかった。誰かが入ってきて、孝雄の横に立っているのがわかった。と、その人はすぐに総務室を駆け出して行った。孝雄はハッとした。顔を上げると、机の上には4つに折った便箋が置いてあった。孝雄は当然のごとくそれを空けてみた。それは、妙子の書いたものだった。


『突然妙なことを言い出して、驚いているだろうと思います。このままでは、わたしもスッキリしないし、あなたにも私の気持ちをわかって貰えない様なので、これを書くことにしました。私の気持ちというのは、この間も言った様に、今の状態では、あなたのことを好きでも嫌いでもない。つまり、特に意識していないということなんです。というより、私は今になってそのことに気が付いたと言ったほうが本当でしょう。最初は、自分から好きですと言っておいて、今さらこんなこと言うなんて、身勝手だとは思います。でも私があなたのことを好きだと思っていたのは、私の勘違いだったのです。ただ、先輩として、リーダーとして、とてもいい人だなあと思っていただけなのに、そそっかしい私はあなたのことを好きだと勘違いしてしまったのです。わかっていただけますか。それからもう一つ。今の私の気持ちでは、あなたと恋人みたいな仲になるなんて、とても考えられないことだったんです。』


孝雄は、何度も何度も読んだ。しかし、取り付く島はなかった。むしろ、彼の切羽詰った絶望に追い討ちをかけるようなものだった。無駄な努力を繰り返した末、孝雄は悲しむのはやめようと決心した。しかし、そう決心したとたんに、孝雄は心のやり場を失った。心のやり場を失った状態は、悲しみよりももっと辛い物だった。しかし、孝雄は再び悲しみに浸りたくはなかった。心のやり場に困った挙句、孝雄は妙子の薄情さに白羽の矢を立てた。彼女の薄情な行動に対する憎しみに心を向けてしまったのだ。しかし、そこには空しさが残った。孝雄は、そういう状態のときでさえ、妙子の立場になって考えずにはいられなかったのだ。自分が今まで付き合っていた娘を突然好きでなくなったら、僕だってそのことを一時も早くハッキリさせたいと思うだろう。と考えると、とても彼女を恨む気にはなれなかった。むしろ、彼女を悩ませた自分を憎みたいほどだった。

孝雄は、幾分落ち着きを取り戻した。この空虚な気持ちを埋めるために、何をすべきかが少しずつわかってきた。


『失いたくない。

先走りしたことは認めよう。

そのために、君の心を傷つけてしまったのなら、僕の責任だ。

僕が君を抱き寄せたとき、君がどう感じていたのかは僕にはわからない。

しかし、そのとき君がうれしくなかったというだけが原因で、あれこれと考え始めたのだとしたら、それは君の考え違いだと思う。

しかし、君があんなことを考え始めたというのは、それだけが原因じゃないと思う。君は、自分で今まで考えていたほど僕のことが好きではなかったことに気が付いたのだろう。そうして、そう考え始めると、次から次へと僕の嫌なところばかりが思い当たる。そしてだんだんと、本当に好きでなくなってしまう。しかし、自分から言い出した手前、こんなに早くもう好きでなくなっちゃったなんて言えない。自分をそんな悪い子にはしたくないから。「別な意味の『好き』だったんです」とか「異性間の友情」とか、ごまかす。

君がそこまで考え込んでしまえば、今さら僕がいくら説得しても、君の考え(というより感情)を論理的に変えることはできないようだ。失いたくないけれど、残念だけれど。別れざるをえないと思う。

僕の考えでは、例の落ち着いた交際は、決して過てる愛情の認識から生まれるものではなく、どちらかというと、甘い愛情や恋愛ごっこを超越した一段階上のものだと思っていた。そして、その手始めとしては、お互いを信じあうことだし、勿論真の恋愛に入る前に、ほんのちょっと甘い恋愛の期間を通過するものだろう。それが、最初のころのデートの時の、互いに少し恥じらい、少し取り繕い、それでも結構楽しかったひと時。しかし、最近はそういう場面は少なくなった。後まで残る楽しさというものが少なくなってきた。しかし、僕はそれが本当だと思っていた。二人だけの楽しみの場が、二人が別々の環境で暮らしている各々の生活の場に影響するというのは、戯れの恋、恋愛の入り口だ。お互いに離れている時こそ信じ合い、逢った時だけ存分に楽しむ。そういう真の恋愛にだんだん近づいてきていると僕は喜んでいた。しかし、君は後に残る楽しさこそ恋愛の本質だと思っている。その点でまだ子供だ。恋に恋しているといえよう。

僕にとって、真の恋愛のパートナーとして、信頼して育てていけると思っていた君が、僕についてこれないというのは残念だ。できるなら、僕の考えを君に植え付けてやりたいが、それもできまい。お互いにもう少し大人になってから、君とめぐり会いたかった。とはいえ、非常に心残りだ。君に裏切られて、僕の大人の愛情を受け止めてくれる人が、僕の身近には居ないといいうことがさらに確証されたようなものだ。』


孝雄は、ブルーの便箋を何度も何度も読み返していた。いまさらこれを渡しても、空しいだけだ。破り捨てたい衝動に駆られながらも、孝雄は便箋を折って封筒に納めると、引き出しの奥にしまった。

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