春・そよ風と遊ぶ妖精のように 春の妖精
ふと気がつくと、あたりは少し薄暗くなっていた。孝雄はゆっくりと立ちあがると花に別れを告げ、家の中に戻った。部屋のドアをゆっくりあけると、妙子はまだ眠っていた。孝雄はまた迷った。自分はこの部屋の中に居てはいけないような気がした。神聖な場所が自分の存在によって汚れるようにおもえた。が、妙子の寝顔には、そういった孝雄の懸念を断ち切ってまでも部屋の中にとどめておくほどの魅力があった。孝雄はその魅力に負けて、しばらくぼんやりと入り口につったっていた。静かに窓を開けると、窓の桟に腰を掛け片足を窓の外へ投げ出して何気なく外を眺めた。重々しく沈んで行った夕日の残したあたり一面の真紅な贈り物が街並を同じ色に染めていた。晩春にしてはやけに澄み切った空に、さっきまでいかにも身軽そうに浮かんでいた雲が、今は夕日の残り光を遮って、闇の反面を孝雄に向けていた。目を閉じて、さっきまで青い空をバックにして身軽く輝いていた真っ白な雲のベッドに、静かに寝息を立てている妙子を置いてみた。下界は視野から消えた。あたりは一面の雲の絨毯。孝雄はいつのまにか妙子の傍らに立っていた。そして、無防備にも眠っている妙子を強く抱きしめたい衝動に駆られた。唇を重ねてみたいと思った。あたりには誰もいない。妙子は眠っている。孝雄の胸は高鳴った。我慢できなくなって寝ている妙子の方に手を差し伸べた。 と、急にあたりの風景が一変した。そこは総務室。まわりには顔なじみの連中がいた。妙子はもう寝ていなかった。机に向かって、セッセと何かを書き写していた。孝雄は急に恥ずかしくなって、夢中で総務室から駆け出した。
妙子がうっすらと目を開いた。孝雄はつい彼女から目をそらしてしまった。自分の顔には、いままでの想像の痕跡がすっかり残っているようで恥ずかしかった。
「喉は乾いてないかい?」
「ええ、すこし」。
孝雄は窓の桟から飛び降りると、コーラをとりに台所へ行った。コーラの瓶とコップをカチャカチャいわせながら孝雄が戻ってくると、妙子はベッドに腰をかけて乱れた髪を直していた。
「もう大丈夫かい?」コーラの栓を抜きながら尋ねた。「ええ」。コーラをついだコップを手にして妙子のとなりに座るともう一つのコップを手渡した。妙子と隣り合わせに座っていると、ほんのりと彼女の肌のぬくもりが伝わってきた。それにつれ、孝雄は先ほどの自分の夢想のことを思い出して居たたまれない気持ちになった。黙っていると自分の気持ちが全て見透かされてしまいそうで、こわかった。
「なんか持病でもあるの?」孝雄は愚にもつかない質問をした。
「うん、血圧が結構低いみたいで、たまにああいうことがあるんですよ。」
「もう大丈夫かな?」
「ええ、大丈夫です。」そう言って、妙子は乱れた髪を直しながら、ゆっくりと部屋の中を見渡した。
「先輩の部屋って、本が多いんですね。」
「うーん、どちらかというと読むより買う方が好きみたいだけど」と言って文庫本のたくさん詰まった本棚を指差した。
「わーおもしろそうな本がいっぱいあるんですね」
「全部読んだってわけじゃないけど、読みたい本があったら持って行っていいよ」
「ありがとうございます。でも、難しげな本ばっかりみたい。私は、マンガのほうがいいわ」いい放って妙子は、恥ずかしそうに笑った。
「あっ、でも最近は詩集なんかもいいなぁって思って・・・。」
「詩集!?」思わず声を上げて孝雄はひるんだ。
「詩が 好きなの?」
「ええ、なんかここのところ急に…」
「乙女チックな詩かい」
「いや~、そんなんじありませんよー」
「そうかい、僕は『乙女チック』な詩、大好きだけど・・。」
「えーっ、本当ですか~」今度は妙子が大声を上げる番だった。孝雄は少し憤慨気味。つい、孝雄が視線を送った先には、詩集のコーナーがあった。妙子は敏感に気付いて、ベッドから立ち上がると、詩集の並んでいる棚へ歩み寄って行った。
「センパーイ。これ何ですか?」妙子が、棚の一番はしっこにあったメモ帳サイズの大学ノートを指差した。
「あっ、だめっ!!」言う間もなく、妙子はノートに手をかけて引っ張り出した。ノートには、「置き忘れた言葉」と書いてあった。
「これは、トップシークレットだから」と言いながら孝雄はノートを引っ手繰った。妙子が一瞬怯えたような顔をした。しばしの沈黙。孝雄はノートのページをめくると、妙子に差し出した。
春の妖精
あけはなした窓から
ことわりもなく
いつの間にか飛び込んできた
春の妖精
クルクルとよく動くいたずらっぽい瞳は
時々じっと動かずにこっちを見つめている
パクパクとよく動くかわいい唇からは
留まることを知らない他愛ない悪口
あっちへ行ったりこっちへ来たり
いたずらの花を撒き散らして
僕を困らせようとする
やわらかくふりそそぐ春の陽と
どこからかやって来た春の風に
誘われて飛んできた
春の妖精
クルクルとよく動くいたずらっぽい瞳は
僕のまなざしをとらえて離さない
パクパクとよく動くかわいい唇からは
僕の微笑みの種があふれる
あっちへ行ったりこっちへ来たり
いたずらの蜜を撒き散らして
僕の心はおぼれてしまう
妙子は食い入るように読んでいたが、読み終わるとキツネにつままれたような顔をした。「この詩、本当に先輩がかいたんですかぁ?」
「そうだよ、おかしいかい?」
「おかしいってわけじゃないんですけどぉ。先輩がこんなロマンチストだったなんて…」孝雄は、ちょっと顔を赤らめた。
「すみません。突然押しかけて、すっかりお世話になりました。」
「じゃ、送っていくよ。」母親は奥の部屋でアイロンをかけていた。
「お大事にね。」幾分そっけなく返事してまたアイロンかけに戻った。余計な詮索をしないことが孝雄には有難かった。妙子の家に着いたころには、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
「先輩の家って、全く反対方向じゃないですか。それなのに、今まで毎日送ってくれていたんですかぁ。」
「いいじゃん。僕も送りたくて送っていたんだから。」
「じゃ、今日は色々とありがとうございました。ご迷惑じゃなかったら、これからもよろしく。」孝雄はバツグンに幸せだった。自分のベッドに休んでいた妙子の様子を想像すると、その日は寝付けなかった。妙子の高校生らしいフレッシュなパヒュームの香りがかすかに残っていた。