面倒な一向宗
永禄四年、夏の気配を感じるジメジメとした梅雨の晴れ間のある日のこと。
参道も歩きやすく整備されて、見栄えの良い本宮が建てられた山の中腹には、大勢の人々が参拝に訪れるようになっていた。
なので私の住んでいる社務所の周りは、高い仕切り板が組まれて、自分と狼たちそして、関係者以外を、原則として立ち入り禁止としてもらった。
麓の村の人たちは私のことをよく理解しており、常日頃からプライバシーを尊重してくれているので、とても助かっている。
それでも厄介事はやって来るもので、今も我が家を囲む仕切り板、その正面の門を通過しようとした男性が、家の番犬たちに取り押さえられるという事件が起きた。
何も知らない参拝者が興味本位で覗こうとするぐらいなら、警備員のワンコたちが睨みを効かせる程度で済む。
だが今回に限っては、私と人間の仲介役である麓の神主さんがその場におらず、単身で正面から堂々と侵入しようとしたので、あえなくお縄となった次第だ。
怪しい不審者を正門前で取り押さえたことで、家の広間でのんびりと塩せんべいを齧っていた私は、番犬の一匹に紅白巫女服の袖に前足をポンポンと乗せられたので、何かあったのかなと首を傾げながら案内に従って、下駄に足を通して外に向かって歩いていく。
玄関の引き戸を開けて門の前に視線を向けると、褒めて欲しそうに一列に座り、勢い良く尻尾を振る狼たちが見えたので、取りあえず順番に頭を撫でていった。
稲荷神である私が現れたことと、何やら不穏な様子に、大勢の参拝客が何事かとざわつきながら集まってくる。
そんな中、数匹のワンコに背中から押さえつけられて、うつ伏せに拘束された男性が、顔を真っ赤にして荒々しく声をあげた。
「何が稲荷神じゃ! 民を騙し、邪教を広める女狐が! 貴様の度重なる悪行は! 仏様が決して許さぬぞ!」
最近敷かれたばかりの石畳にうつ伏せにされているのは、歳をとったおじさんで、黒地の僧服を着て、藁傘が近くに転がっていた。
同じような服装の者も数名居たが、家のワンコが怖いのかオロオロと取り乱すばかりで、今なお興奮気味にまくしたてている男性を、ただ見ているだけだった。
「不浄の固まりを田畑に撒くなど!」
「灰や腐葉土、鶏糞や牛糞、あとはボカシ肥料でしょうか?
確かに直接撒けば毒になりますが、私の教えた手順に従えば、農作物の発育が良くなりますよ」
農作業は常に先を見据えて準備しておかなければいけない。種籾の選別や合鴨農法だけでなく、昨年のうちから有機肥料を作らせ、農村の田畑に馴染ませておいたのだ。
……と言っても私も最適な分量や効果は知らないので、とにかく作成手順を伝えて、まずは少量の肥料でどの程度収穫量が上がるのかを、慎重に調査させる。
ついでにこれまで通り、何も混ぜてない土壌でも比較対象を行うようにと、口を酸っぱくしてお願いしたのだ。
(籾殻の選別と苗の直植え、長縄を使っての等間隔の植え込み作業、うろ覚えの農具の設計図、これでたとえ発酵や肥料の分量で失敗しても、収量がトントンになれば儲けものだけど。
こればかりは各々の土壌の問題もあるし、実際にやってみないとわからないしなぁ)
所詮は普通科の女子高生であって、農林高等学校に進学したわけではない。いつ何処で覚えたかも忘れた知識であり、作成手順でさえ本当に正しいのかと、不安を上げればキリがない。
それでも何もせずに黙って見ているという選択肢はなく、稲荷神として多少なりとも役に立たなければ、いずれは妖怪認定されて今住んでいる場所を追い出されてしまうだろう。
なのでまだ神様だと信じてくれているうちに、一歩ずつでも試行錯誤を重ねて信頼を築いていくのだ。
「なっ……何を言って! そっそうじゃ! 家畜を殺して食すのも! 一向宗で禁じられておるのを、知らぬ訳ではあるまい!」
「孵化しない無精卵を食べているので、殺生にはあたりませんよ」
食べるのは基本卵であり、合鴨も鶏も締めて殺すなど勿体なく、寿命が来るまではせっせと働いてもらっている。そんな答えを返しながら、私は一向宗とは何ぞやと疑問を浮かべる。
自分が知っている日本で信じられている宗教と言えば、仏教とキリスト教と神道ぐらいだ。なのできっと彼が信仰しているのは、その三つのうちの宗派の一つなのは見当がついたが、細かいところはわからない。
「無精卵? 孵化しないだと? なっ……何を言っている! 卵からは雛がかえるものじゃ!
そのようなこと! 童子でも知っておるわ!」
「本当に、そう思っているのですか?」
「どういう意味じゃ!」
自分も専門家ではなく詳しいことは知らない。なので一生懸命頭の中で考えながら、相変わらず顔を真っ赤にして怒鳴っている彼に説明を行う。
「人間の女性が周期的に内股からの出血に苦しむのは、何故だと思いますか?」
「そんなもの! 地神や水神を穢すために! 女の股から血を漏らしておるからに決まっておろうが!」
「えっ……何ですか? ……それは」
そんな迷信を信じてるとか、マジで引くわぁ……っと表情には出さないが、思わず現実で一歩下がりながらも、人体の仕組みを知らなければ十分ありえると思い直す。
つまりこの戦国時代の一般常識として、女性の月のものは穢れだと忌み嫌う風潮が蔓延していても、仕方がないのだ。
私は隠しきれずに若干顔を引きつらせながらも、そういうものだと真摯に受け止めることにした。
「コホン! はっきりと言いますが、女性の内股からの出血は穢れではありません」
「出鱈目をほざくな! 女狐めが!」
まさに聞く耳を持たないと言った感じだが、周りの参拝者は興味津々といった表情であり、時間が経つごとにさらに大勢の人が集まってくる。
「これは女性が男性の子種を受け取らなかった結果、未使用の卵子を体外に排出することで起こる出血です。
ちなみに身籠った場合は月のものは起きずに、悪阻となります」
この辺りの説明は難しかったのか、血気盛んなおじさんは言葉もなく呆然といった表情で私を見上げている。
果たしてこの中の何人が生理の仕組みについて理解したのかは不明だが、重要なのはそこではない。
「話を戻しますが、重要なのは女性は身篭らなかった卵子を、定期的に体外に排出するということです。
そしてこれは、鶏の卵にも当てはまります」
つまり無精卵とは、鶏にとっての生理のようなものなのだ。品種改良が進んでいない戦国時代に、毎日ぽこじゃが生むかは疑問だが、それでも雌鳥だけで卵は生める。
わざわざ村の鍛冶職人に頼んで、特注のメイドインジャパンのフライパンを使って、麓の養鶏場で生みたて卵で目玉焼きを調理した。
卵そのものは小ぶりで菜種油も貴重であり、調味料も味噌と塩しかないが、口に入れた瞬間、懐かしい味に思わず涙が溢れてしまったものだ。
「なっ……なっ! 何を言うか! これこそが女狐である証拠よ! 人民を惑わそうなどと! かような戯言を申すな!」
「そうですか。では無精卵を温めて、いつ雛が孵るか試してみては?」
「……はっ?」
これ以上は説明しても無駄だと判断し、私は地に伏した彼を冷ややかな視線で見下ろし、淡々と言葉をかける。
すると先程まで真っ赤だった顔色が、目に見えて悪くなっていった。
「子種を授からなければ、卵をどれだけ温めても雛が孵るわけがありません。
それに私が指導した田畑も、結果が出ないうちから戯言だと否定するのは簡単です。
ですが、もし私の教えが正しかった場合、困るのはどちらでしょうね」
お供の者たちも皆揃って青い顔になったが、何とも面倒臭い一向宗にこれ以上は関わり合いになりたくない。
言うべきことは言い終わったので、用がありますので失礼……と、背を向けて社務所に戻っていき、ワンコが拘束したおじさんも、すぐに解放したのだった。
後日神主さんから聞いたのだが、彼は麓の村にある一向宗の寺の和尚だった。
何でも、稲荷神を語って怪しい教えを広める女狐め。もはや我慢ならん……と、抗議活動の名目で周りの村々の同業者も引き連れて、わざわざ直談判に訪れたとのこと。
ちなみに宗派の開祖の親鸞さんは、善人さえ往生できる。悪人ならなおさらである! と、公然と肉食妻帯をした方らしいが、長い時の流れの中で思想が変化したり、枝分かれするのは良くあることだ。
さらには個人的な意見なのに総意であると発言したりと、ようは仏教どころか一向宗でさえも一枚岩ではないと言うことだ。
それを知った私は、この時代の宗教は本当に複雑怪奇で心底関わり合いになりたくないと思ったのだった。
なお話を戻してこうなった原因を説明すると、最近仏教の一向宗から神道の稲荷神へと改宗する信徒が増えており、村民からのお布施は減少の一途を辿ることになっていた。
さらにはその女狐は流言で人を惑わせ、田畑に汚物を混ぜたり、蜂や鶏を飼って、積極的に卵を食べようとしたり、身寄りのない女子供でも安心安全に働けるよう、農業以外の新たな職種を斡旋したりと、やりたい放題だった。
最後のは言いがかりも甚だしいが、頭に血がのぼっている人間は厄介だと理解させられた。
彼らは最初は全てが真っ赤な嘘であり、民衆を言葉巧みに騙しているだけで、どうせすぐに損を掴まされたと一向宗の寺に泣きついてくる。
誰もがそう高をくくって踏ん反り返っていた。
だがそれが一ヶ月、二ヶ月、……半年が過ぎても人心は離れることはなく、逆に稲荷神を信仰する者は増える一方で、歯止めがかからない状態であった。
これはただ御高説を賜り、念仏を唱えるだけの坊主たちよりも、理屈はわからないがとにかくそのものズバリと的確な助言をくれる狐っ娘のほうが、結果的には民の救いになっているからだ。
こうなった原因はこの時代の宗教が腐っているからであり、BL的な意味でも腐っていたが、まあ今回の問題はそっち方面ではない。
もちろん不正に手を染めていない神社や寺もあるだろうが、直談判してきた一向宗に限っては中まで真っ黒だったので、ギャフンと言ったのは残念だが当然であった。
賄賂や人身売買、年貢のちょろまかし等、叩けば埃が出るので、関係者は付近の村民によって処理されることになった。
神の名の下にというのは効果抜群であり、これまでは天罰を恐れてわかっていても口出しできなかった人たちが、皆一斉に立ち上がったのだ。
その結果、不正に手を染めた一向宗は綺麗サッパリ消えてなくなり、多くの寺院が稲荷神への改宗を余儀なくされた。
同じ宗派の本家との繋がりが薄い末端のこれまた末端だったこともあって、完全に分離して好き勝手やっていたようだ。
信徒に肉食を禁じたのも自分たちが裏で独占するためだと聞いて呆れ、組織の腐敗はこういう末端から始まり、知らない間に本部にバレないように仲間を増やしていくんだなと思った。
まあたとえ不正が明らかになっても、賄賂を渡して無理やり黙らせたのだろうが。とにかく三河は一向宗の勢力が強いが、決して一枚岩ではないのだと実感する。
それで自分の周囲が綺麗に片付いたことだけは、本当に幸いであった。
肝心の稲荷神についてだが、一見支離滅裂な指示に皆一度どころか何度も疑問を抱きはするが、取りあえず従って動いてみると、実に理に適っているものばかりなのだ。
だがまあ何もかもが上手くいくわけではなく、時には失敗はすることがあるので、それを避けるためにも、現場を知る者が臨機応変に立ち回る必要がある。
しかしたまに見せるうっかりで、稲荷様は賢く美しく神々しい存在だが、何処か抜けていて愛嬌があり、親しみやすくて可愛らしいツルペタ狐っ娘だ、となる。
とにかく色々な属性てんこ盛りで、民衆の心を鷲掴みにしてしまったのだ。
ついでに未来の萌え文化を先取りし、歴史の教科書にも名前がバンバン登場することになるのだが、今の彼女には知る由もないのだった。