対馬返還要求
時は流れて昭和二十三年になった。
私は毎日の早朝のジョギングに精を出していたが、六月に福井地震が発生したので慰問の予定が入り、しばらくお休みとなった。
あいも変わらず現地住民に拝まれるどころか、年々信仰心が高まっているのは正直辛い。胃に穴が開かないのは狐っ娘の体のおかげだが、そもそも普通の女子ならこんな面倒なことにはなっていないのだ。
そんな辛さを考えても元には戻れない以上不毛になるため、大勢からありがたや~されながら大鍋をかき混ぜて、時々ニッコリ笑顔で手を振るのだった。
それにしても最近の日本はとても平和だ。
未来では大体こういう時に限って、内ゲバやら汚職やら毒物やら、何だかんだ悲惨な事件が起きていた。そのはずなのだが、何故だかそんな素振りさえなく平穏無事である。
実はこれは、稲荷様は日本を照らすお天道様であり、意に背くことはやってはならないと、日本国民の無意識下のブレーキの役目を果たしているからだ。
まるで心理的なリミッターだが、自制の一助になっているのだから、私としては稲荷神への信仰が加算されても、ぐぬぬと唸るだけで何も文句は言えないのだった。
昭和二十四年となり、列車が謎の暴走事故を起こすこともなく、平和な時間が流れていった。
そもそも半分以上を機械で制御しているのだから、運転手の技能もそれほど必要はなく、日頃の心がけ次第で大抵の事故は防げてしまう。
だがまあそれでもミスは起きるのだが、幸い今の所は順調であった。
そんなこんなで今年も何も起きずにのんびり過ごせそうだと、私は楽観的に考えていた。
しかし、そうは問屋が卸さないとばかりに、隣国の半島が対馬の領有権を主張し、さらに返還要求までしてきた。
何がどうしてこうなったのかはまるで理解できなかったが、未来の日本も隣国に絡まれてばかりなので、こういうこともあるかと納得させられてしまうのだった。
もしかしたら私が何らかの方針を示す必要がでるかも知れないので、先に政府の関係者を稲荷大社の謁見の間に呼び集めて、頭をスッキリさせるために温かいココアをチビチビ飲みながら、対馬について尋ねる。
すると、西暦六百六十三年に起こった白村江の戦い以降は、唐や新羅の侵攻に備えるために、防人が置かれていたという情報を聞けた
つまりは大陸の玄関口よりも、役割としては本土上陸を阻止するための前線基地と例えるのが妥当かもと思った。
あとは、過去にモンゴル帝国やロシア帝国に占領されたりと、対馬の住人にとっては本当に踏んだり蹴ったりだなとも感じた。
そして今回の件で私なりの考えを口にするならば、半島にはさっさとゴーホームしてくださいだ。
日本が行っている国交断絶が電話の着信拒否だとすれば、それにも懲りずにわざわざ家の前まで押しかけて、罵詈雑言を喚き散らしているのが今の半島だ。
はっきり言って迷惑極まりないため、私は一段高い畳の上に座ったまま腕を組んでどうするかと考え、一分もしないうちに結論を出した。
そして、近くに控えていたお世話係に筆記用具と便箋を持ってくるように頼み、一通りの準備が整ったら、座布団の上に正座しながらお手紙を一通認める。
「ええと…半島が対馬の領有権を主張してきて困っています。何とかなりませんか?」
声に出しながら筆を走らせて、王室への手紙を慣れた手付きで書きあげていく。
今現在の半島の統治権はイギリスが所有していたはずなので、先進国が上から押さえ込めば、容易に黙らせられる。
(でも、どうしてそれをしないんだろう?)
私は手紙を書くのを中断して、しばし首を傾げる。
そもそもおかしいのはイギリスだけでなく、東アジアを統治する連合国がやけに手緩いのだ。しかし、その原因がまるでわからない。
自分は歴史に詳しくないが、植民地を支配するために圧政を敷いていたことは、朧気にだが覚えてはいる。
(基本的人権を尊重してる? んー…もしかして私のせい?)
私が原因かもと思いはするが、でも昭和の頃には各国は人権を尊重していたのかも知れないと、深く考えずに納得してしまう。
どうせ私があれこれ思案した所で、これだという正解には辿り着けずに時間ばかり取られるだけだ。
そもそも別に隣国がどうなろうが、日本にちょっかいを出してこなければ、私の平穏な暮らしに影響はない。
それに手紙一つ認めるぐらいなら、大して労力もかからないのである。
(連合国が統治している国に無闇やたらと干渉するのも、何か違う気がするんだよね)
今回は日本に飛び火したのでちょっと待ったをかけたが、やはり実際に統治している国の判断が重要になる。
素人は黙っとけと言うやつだ。
手紙の基本的な内容を書き終わったので一旦筆を置いて、何となく謁見の間の天井を見つめる。
思えば四百年以上も最高統治者をしているが、相変わらず未来の記憶も劣化せずに残り続け、性格も昔と全く変わっていない。
(私が変わらずにいられるのはありがたいよ。傲慢な最高統治者にならずに済むし)
普通に考えれば、ここまで日本国民にワッショイワッショイされれば、自分は凄い神皇だと勘違いする。
そして言葉や態度が傲慢になり、終いには民衆が何人死のうが気にも留めなくなる。
しかし私は四百年以上が経った今でも、庶民の価値観が抜けない。それどころか、中身は普通の人間だと思っている。
変化も成長もないのは明らかにおかしいが、私はとてもありがたく感じるのだ。
「…そうですね。王室への要求だけではなく、稲荷人形の新シリーズと特産品を送っておきましょう」
何だかんだでイギリス王室とは付き合いが長いし、持ちつ持たれつの関係だ。それに、第二次世界大戦終結後にロンドン観光もした。
その時に、お互いの国の物品を交換しようと約束したので、今回の手紙と一緒に送るのが良さそうだ。
自分の人形を欲しがっていましたが、あまり過激な物を貰っても迷惑でしょうし…と、顎に手を当てて考え込む。
すると近くのお世話係が、まだ発売されていない稲荷グッズの新作カタログを持ってきて、ページをペラペラとめくり、この辺りがよろしいかと。…そう親切に教えてくれたのだった。
私が王室の手紙を出した後のことだが、イギリスさんが即刻半島に詫びを入れさせることで、対馬の領有権主張問題は一応解決した。
だが忘れた頃に騒ぎ出すのは未来ではいつものことなので、あとは大英帝国が手綱を上手く握ってくれるのを期待するしかない。
ちなみに今回の事件の原因は、君主制から民主主義に転向したことにある。
これによって半島は名実共に国際社会の仲間入りを果たしたと大喜びし、バックにイギリスも付いていることから気が大きくなったのであった。
そして、隣国とのゴタゴタで忘れかけていたが、湯川さんがノーベル賞…もとい、稲荷賞を取った。
これは元々江戸から始まり、日本とオーストラリアでのみ通用する特別な賞であった。
しかし、昭和に入ってからは何故か世界にまで表彰者が広がってしまった。
物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の五分野+一分野で、顕著な功績を残した人物に贈られる。
なので私は、いつものように稲荷大社に大勢を招き、厳かな式典を開いて外国から来た人には稲荷賞を、うちの国民には日本勲章を追加で授与して、心からのお祝いの言葉をかける。
そんな受賞者が一人残らず頬を朱に染めたりと、何だかんだで昭和二十四年は終わってみれば割りと平和だったのだ。




