永禄四年の春
永禄四年の春がやって来た。
私は年が明けたことで気持ちを新たにし、積もったままで一向に溶ける気配のない家の周りの雪を、火事にならない程度の温度を保った狐火を生み出して、強制的に溶かしていく。
せめて境内と参道、あとは温泉に続く横道だけでも除去しておかないと、無謀な雪山登山を敢行する者が遭難しかねないのだ。
「寒くても凍えない体で良かったよ。でもやっぱり、暖かいほうが良いね」
春になったとは言えまだまだ寒さが厳しいにも関わらず、相変わらず防寒具なしで紅白巫女服で、狐火を浮遊させながら白銀の雪が煌めく早朝の参道を、のんびりと歩いて行く。
これから麓の村に下りて、食べ物を分けてもらうところだ。
何しろ年末に十四名もの来客が急にやって来て、その後どんちゃん騒ぎの宴会になってしまい、本来なら春まで余裕で保つはずの冬の蓄えを一気に消費したのだ。
彼らは始終申し訳なさそうな顔で、飲み食いした分は利子を付けてきっちり返すので、それまで待ってくださいと、そんなことを言って参道を降りていった。
だがその後は大雪や猛吹雪が連日続き、私の住んでいる山の中腹は完全に閉ざされることになった。
その際に、狼たちは囲炉裏の周りや近場の温泉に入り浸り、多くのワンコがスヤアを敢行した。
それを見て私は、喜んで庭を駆け回るのは少数派なのだと実感した次第だ。
「今が何月何日かはわからないけど、確実に年は明けてそうだから、そろそろ山開きしないとね」
戦国時代の登山は自己責任であり、参道を登る途中で崖下に転落するのも、事故が起こったら本人の不注意で終わってしまう。
既に犠牲者が出ているかもだが、そこまで私は面倒を見きれない。
なのでもし雪が降ったら、大して積もっていなくてもそれ以降は参道は使わないこと。春になって私が麓に来たら、再び利用しても問題はないものとする。
冬支度にせっせと励む村の人たちには、こう伝えてあるので、信心深ければ、きちんと守ってくれるはずだ。
なお本多さんたちのように他所から来た人は、このことを知らないので、普通に立ち入ったりする。
「そろそろ麓の村に着くはず……って、……えっ? なっ……何あれ?」
浮遊する狐火で足元の雪を強制的に溶かしながら進んでいくと、木々の隙間から麓の村が見えてきたのだが、秋の終わりとはまるで違って見える。
何と言うか、遠目に見ても寂れた片田舎の農村とは思えない。それほどまでに参道の入り口に建てられたお稲荷様の分社が大きく改築されており、今も多くの人が熱心に参拝しており、村中活気に満ち溢れていた。
「おい! 見ろよっ!」
「あっ! お稲荷様だ!」
「ありがたや! ありがたやー!」
「あの方が稲荷様? おお、何とお美しい!」
麓に下りる頃には雪は殆ど残っていなかったが、念のために完全に溶かしきってから狐火を消火する。
あちこちに稲荷大明神を象徴するのぼりが並び、各々の商人がゴザを敷いて多種多様な品物を並べ、景気の良い掛け声で参拝者を呼び込んでいる。
それを見て私は、世はまさに稲荷様時代である……と、より強く実感したのだった。
麓に降りて、たちまちのうちに民衆に取り囲まれて身動きが取れなくなった私は、とにかく手を触れないようにと淡々と告げる。
特にガキンチョ共は、平気で私の耳や尻尾をモフりに来る、油断も隙もない命知らずの集まりだ。
今もワンコを護衛のように使い、一定の距離を保ったまま近づかないようにと、牽制させている。
「ええと……どなたか、代表の方は居ませんか?」
見渡す限り人だらけで、とにかくこの騒ぎを収拾できる人を探して声をかけると、平安貴族のような格好をしたおじさんが、少し離れた場所で大声をあげて必死にアピールしている。
「稲荷様! 何か御用でしょうか!」
「少し話したいことがあるので、静かな場所に案内してくれませんか?」
「はいっ! しっ……しばらくお待ち下さい!」
一生懸命人混みをかき分けてこちらに近寄るおじさんは、去年の末から急きょ分社の神主さんを務めることになったらしく、そう言えば彼が村の人の意見を取りまとめて、皆の代表として私と何度か話したことを思い出したのだった。
彼の案内で麓の社務所に入ると、私の家よりも広々としていて、大部屋の他にもいくつもの小部屋があり、なかなか立派な作りだった。
我が家の改築について考えると、たとえ来客が大勢来ても普段は一人暮らしなので、やっぱり広くすると掃除が大変になってしまうかも……と、うーんと唸って代案を考える。
「それで稲荷様は、本日はどのような御用でしょうか?」
煎餅座布団ではなく十分な厚みがあり、白湯ではなく緑茶でもてなされた。それはともかく、綿花の収得や栽培と、可能なら取り寄せて指定の品を作るようにと頼んでおいた。
そして裕福そうな彼の身なりを見て、冬の間は山を閉めるので、自分が二番手に回されるのはわかっているのだが、何だか負けた気分になり、若干落ち込みながらも口を開いた。
「社務所の近くに倉庫ではなく、小さくても良いので食料庫の建設。そして食料の補充を急ぎでお願いしたのですが」
「それは構いませんが、……足りませんでしたか?」
正直冬籠りの準備をしたのに食料がカツカツになるとは思わなかった。
十四人の来客でどんちゃん騒ぎの宴会になだれ込み、各々が好きなだけ飲み食いしたのもあるが、お酒は二十歳になってからではない戦国時代が悪いのだ。
私は今の体になってから何度かアルコールを摂取したが、どれだけ飲んでも悪酔いや二日酔いにはならずに、心地良いほろ酔い気分になれるので、こういう意味でも稲荷様の体は凄いと思った。
「いえ、私一人なら十分過ぎる程だったのですが、急な来客が来たので」
「なっ何と! たとえ積もる前だとしても、雪山を登ろうとするとは命知らずですな!」
大して積もっていなくても、藁装備で足場の悪い参道を登ろうなど無謀もいいところだと、私もそう思う。
「それで、どのような方が来られたのでしょうか?」
「確か、本多忠勝さん、松平元信さん、酒井忠次さん、榊原亀丸さん……」
それから残り十名を思い出しながらつらつらとあげていくと、何故か神主さんは顔を青くして絶句し、小刻みに震え始めた。
「そっ……それは、何と言っていいやら」
「ええ、私も急な来客を追い返すわけにもいかず、家にあげてもてなしました。
しかしあのような防寒具で冬山に挑むのは、やはり無謀だと思わざるを得ません」
「そのような意味では……あっ、いえ……何でもありません」
神主さんは大きく溜息を吐き、私は出されたお茶で喉を潤す。あの時の客人は会話の節々から、彼ら全員が名のある武士の集まりであることが読み取れた。
戦国の世なら命を失っても自己責任で済むかも知れないが、なるべくなら私が原因で無駄死にはして欲しくないものだ。
「武士というのは、皆あそこまで命知らずなのでしょうか」
「三河武士は合戦で討ち死にしても前のめりに倒れると聞きますし、例外ではないかと」
そうですか……と、またお茶を一口飲み込み、こちらの要求は全て通したので、取りあえずは数日分の食料を籠に入れて持ち帰るべく、湯呑を空っぽにして静かに置く。
「では用事も済みましたし、私は数日分の食料を持って帰ります。また何かありましたら、本堂にお越しください」
「はい、稲荷様。本日は麓までお越し下さり、誠にありがとうございました」
そう言って座布団から立ち上がると、用意の良いことに社務所の外には既に背負籠に数日分の食料が詰め込まれており、大人しくお座りしている狼たちの前にドンと置かれていた。
怖くて近寄れなかったのか、恐れ多くて入れなかったのか。家のワンコは躾が行き届いており、滅多なことでは噛みつかないのに、やはり人間はなかなか近寄ってこない。
「では、帰りましょうか」
私が社務所の玄関から外に出て、置かれていた背負籠に手をかけると、黙ってお座りしていた狼たちがスクッと立ち上がり、正面の人混みが二つに割れる。
まるでモーゼのようだと思いながら、立派に生まれ変わった稲荷様を祀る分社の石畳を、下駄の音をカランコロンと響かせながら、背筋を伸ばして堂々と歩いて帰るのだった。
春になってすぐに近くで戦があったようで、麓の村人たちが大騒ぎしていた。何でも三河の殿様が今川の居城である牛久保城に攻め込んだとか。
私は相変わらず山の奥での隠居暮らしなのでそれ以上はわからないが、麓の村からも何人か徴兵されて大変らしい。
ちなみに戦を見据えてか、参拝に訪れる人は皆熱心に必勝祈願の祈りを捧げていたので、五穀豊穣の稲荷神とは一体……と、思わず首を傾げてしまった。
社務所の裏手に小さな食料庫を増築し終わり、今日も私は囲炉裏の前を定位置に決めて、足の短い小さな机を置く。
そして麓の村から取り寄せたフワモコの綿が詰められた座布団を畳に敷いて、その上に腰を下ろし、自らの知識を脈絡なく書物に書き記していく。
どれぐらいの時間そうしていたのか。肉体は何十時間でも平気で動かせるのだが精神的に疲れてきたので、途中で白湯を湯呑みに注ぎ、静かに口に運んで喉を潤す。
いつの間にか人間の三大欲求は、日々の生活を彩るちょっとした刺激に過ぎなくなっていた。
お腹が減ったり美味しい物を食べたい欲はあるけど、別に水や食料なしに数日過ごしても平気だし。
連日徹夜が続いても、気分が悪くなったり体調を崩すことはない。それでも若干、眠いなー……とは思うのだが。
性欲に関しては今の所は何とも言えない。女子高生をしていた頃からそうだったが、私は彼氏居ない歴=年齢で、恋愛経験がゼロだった。
何よりまだ月のものが来てないので、ロリペタ狐っ娘が欲求不満になるのは、もっと先の話だろう。
「んー……村の人や松平さんたちが、討ち死にしてなきゃいいけど」
彼らの名前を聞いてもピンとこなかったので、歴史に名を残す武士ではないか、自分の歴史知識が穴だらけなのか。それでも顔見知りなので、できれば死んで欲しくないが、自分の身を危険に晒す気はサラサラない。
命が惜しければ形振り構わずに、戦わずに逃げれば良いと、戦国の武士とは真逆に考えているからだ。
狐耳と尻尾を生やして青い炎を操る巫女服姿の幼女が戦場で大暴れすれば、最悪討伐隊を派遣され、安住の地を追われることになる。
なので極力外に出ることなく、江戸幕府が開かれて平和になるまでは山奥に大人しく引き篭もるのが、私なりの生存戦略なのだ。
「それにしても大名や武士、貴族やお坊さん、農民や商人、外国や天災、宣教師や宗教、その他諸々全部ひっくるめて、思いつく限り戦国時代は厄介なことだらけだよ!」
全てを解決するのは不可能だし、最初から事態を解決するつもりもないが。自分の安寧を妨げる厄介事が思いつく限りてんこ盛りである。
そういったモノは大抵こちらが望まずとも、向こうからやって来るのだ。思わず、戦国時代って! 糞だよねー! ……と叫びたくなるぐらいにガックリと気落ちしてしまう。
このがんじがらめでどうにも出来ない鬱憤を放出するように、はぁ……と大きな溜息を漏らすのだった。




