西暦二千二十年
西暦二千二十年のとある日。
私はどうしても外せない用事があると関係者に告げて、護衛を連れずに一人だけで、稲荷大社からお忍びで外出する。
向かった先は、数百年前に私が住んでいた神社、その麓にあった長山村だった。
今は名称が代わって稲荷様生誕の地として広く知られており、連日多くの観光客が訪れる、とにかく活気に溢れる賑やかな場所である。
(実家の住所は覚えてないし元の風景とかなり変わってるけど。…多分この辺りのはず)
念の為に男物の服を用意して変装した私は、稲荷神社の参道の階段脇の茂みに身を潜める。
そのまま正面の大通りを行き交う人々の様子を窺うだけでなく、深く被った野球帽を外して狐耳も澄ませる。
すると、それ程離れていない場所から小動物の足音が聞こえた。
「危ない!」
私が気がつくのと同時に若い女性の叫び声が耳に届き、急いでそちらに顔を向ける。
(…予想通り!)
そこには今にも駆け出そうとする地元の公立高校の服を着た女子生徒と、道路の真ん中で勢いよく走ってくる車を前に、驚き立ち竦んでいる小狐を発見する。
それを見た瞬間、私は隠れていた茂みから飛び出し、目にも留まらぬ速さで小狐を救出する。
その勢いのままに、今まさに助けようとしていた女子高生の目の前で急停止した。
一歩間違えれば小狐か女学生を跳ね飛ばしていた乗用車は、私が疾風のように駆け抜けたことに気づかずに、速度を落とすことなく安全運転で通り過ぎていく。
「あわわっ! もっ…もしかして稲荷様ですか!?」
「いえ、私は通りすがりの謎のヒロイン、フォックスです」
「……ええっ!?」
明らかに困惑している女学生を前に、狐耳を澄ませるために野球帽を外して正体がバレバレだったことに気づき、いつものうっかりに心の中で悔やむ。
咄嗟に思いついた偽名で誤魔化したものの、あまり長くこの場に留まるのは、私やこの子にとっては得策ではないだろう。
「それより、小狐を貴女に返しますね」
「あっ、あの…この子、…別に私が飼ってるわけじゃ」
それでも私は小狐を彼女に強引に押しつけ、先程隠れていた茂みに一足飛びで戻り、野球帽を被り直した後、あらかじめ用意していたペット用のキャリーを担ぐ。
「あの、…どうしてここまでしてくれるんですか?」
そのまま再び女子生徒の元まで舞い戻り、小狐を優しくキャリーに入れる。
若干及び腰で話しかけてきたので、少しだけ思案してゆっくりと口を開いた。
「深い意味はありません。何となくです」
「はぁ…何となくですか」
キャリーにきちんと鍵をかけたことを確認した後、彼女に一枚の紙を渡す。そこには稲荷神のサインの他に、飼育費全額無料の旨が書かれていた。
先程から通行人が大勢集まってきていて、話しかけるタイミングを見計らっているので、これ以上この場に留まるのは不味い。
私は早々に御暇させてもらうことに決める。
「では、小狐の面倒をよろしくお願いしますね!」
「へっ? あっ…待っ…!」
女学生が慌てて何か言いかけたが、私は聞く耳を持たずに跳躍する。
次の瞬間には付近の民家の屋根に降り立っており、忍者のように飛び移りながら高速で離脱を図るのだった。
私は背後に注意を払って、女子生徒と十分に距離が離れたことと誰にも付けられていないことを確認してから、人気のない裏路地へと音もなく舞い降りる。
(小狐からは不思議な感じはしなかったし、違ったのかな?)
もし私を過去に送るのならば、あの小狐だと予想していた。しかし仮に稲荷神様だとしても、大した力は感じなかった。
だがまあ、もし本物の神様を見つけても何もする気はない。
今日わざわざ目的地を決めて外出したのは、こっちの私と小狐が交通事故に遭う可能性が高く、できれば助けたいと思った…はずだった。
(でも、本当は何がしたかったんだろう?)
いつも場当たり的に行動しているからか、特にこれだと言った理由が見つからない。
私を過去に送った存在を見つけて、元の時代に帰すようにと頼み込むことも考えたが、今となっては東京の稲荷大社が我が家であり、十数年と数百年ではどちらが自分の故郷か一目瞭然だ。
(まあ何にせよ、こっちの私と小狐の命が助かって良かったよ)
人間関係に関する記憶だけは綺麗サッパリ忘れているが、それ以外に関しては幸い何百年経とうと劣化せずに、はっきりくっきりと思い出せる。
それに交通事故が起こるのは、今は地名が変わってしまったが長山村の、さらにかつてのマイホーム付近だとわかっている。
なので未来の事故現場を特定することは、比較的簡単だった。
そして先程会った何処にでもいるような平凡な女学生が、元の私なんだと本能的に理解できたのだ。
だがもう、二度と会うことはないだろう。
(私の性格からして、特別扱いはされたくないだろうしね)
私が頻繁に会いに行けば、彼女は間違いなく特別な存在になってしまう
そしてそれは、何百年経っても変わらない自分の元の性格からもわかるように、決して許容できるものではない。
人外の力を持たない一般人なのだから、下手をすれば精神病を患って胃がやられてしまう。なのでお互い今日会ったことは忘れて、それぞれの人生を歩いていくのが一番いいのだ。
「はぁ…私もいい加減退位して、普通の女の子になりたいなぁ」
元は平凡な女子高生だった魂の叫びが久しぶりに口に出てしまったが、これは昔から変わらない偽らざる本音だ。
二千二十年からは自分の知らない未知の領域であり、朧気な歴史知識はもはや何の役にも立たなくなった。
それでも未だに稲荷神話を信じ続ける日本と世界各国のことを考えると、何とも頭が痛くなる。
本当にいつ退位できるのやら。…といつもの発作を漏らす。そして野球帽を深く被り直した後、我が家である東京の稲荷大社を目指して、ゆっくりと歩き出すのだった。
本編は今回で完結となります。お疲れさまでした。
この後としましては、毎日投稿ではなく不定期になります。
他者視点及び思いつきのネタを、番外編として何本か書けたらいいなと考えております。
ですが、もし連載から完結に表示が変わりましたら、察していただけると助かります。
重ね重ね、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。




