皇太子の来日
明治二十一年、日墨修好通商条約が締結された。
そしてメキシコと貿易したり、香川県から愛媛県が独立したり、その一年後に日本国憲法が発布されたりと、イベント盛り沢山であった。
国の名前を大稲荷帝国に変えようという提案も、私は断固拒否して何とか日本のままを維持することに成功する。
大体そんな名称になったら、私の退位がますます遠のくではないか。自分としてはさっさと隠居して、独り立ちした日本国民を影から見守って平穏に暮らしたいのだ。
そして明治二十四年になった。
環境保護を重視するのは我が国では当然であり、鉱毒もまた然りだ。
そして大地震が起きたら現地に慰問に行くが、今は耐震性能が高くなったおかげか、昔と比べて被害は格段に減っている。
そんなある日のこと、ロシア帝国皇太子・ニコライさんが日本に観光にやって来た。
日本は観光地としての評価が高いので、外国人がやって来るのは珍しくない。だが、皇太子が艦隊を率いてうちに来るのは、ただでさえ両国の関係は冷えきっているのに、挑発行為も甚だしい。
それでも他国に舐められないように、軍事力を示すのが重要なのは、何となくわかる。なので自国の軍隊で威圧するのが、この時代では普通かも知れない。
なお現代でやったら、即開戦になってもおかしくない。
実際に二隻の蒸気船で朝鮮に向かったら、お返しに砲撃を撃ち込まれたことからもわかる。
日本は自制ができるので、挑発されたぐらいでキレてボコボコにしたりはしないが、外国とのお付き合いは何かと面倒臭いなと感じた。
とは言え、相手はすぐお隣の大国で皇太子様が直々にやって来たので、これ以上の関係悪化は戦争待ったなしで、あまり粗末に扱うことはできない。
なので取りあえずは、表向きだけでも国をあげての歓迎ムードを演出することに決まった。
なお私だけでなく、日本国民の殆どの心中で、早いところ国に帰ってくれないかなー…と、切に願うのだった。
ちなみにニコライさんの一行だが、まず長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸して、その後は京都に向かった。
彼らは観光旅行気分を満喫しているのだろうが、こっちは滞在中にトラブルが起きたらとても困る。
なので政府関係者は、皇太子御一行様を厄ネタ扱いしていた。
それでも何とかトラブルも起きずに進行し、京都から琵琶湖の日帰り観光を楽しみ、滋賀県庁で豪華な昼食に舌鼓を打ち、数日後には日本の首都である東京にやって来た。
今の内閣総理大臣である松方正義さんや、その他大勢の官僚たちがニコライさんを歓迎して、さらには皇居に出向いて、やんごとなきお方と言葉を交わした。
なお私だが、厄ネタと面会する気はないのでお断りしていた。
しかし、あまりにもしつこく面会要求をしてくるので、短時間だけなら…と、仕方なく了承して、いつもの謁見の間で対面することとなったのだった。
「貴方がリトルプリンセスですね。会えて光栄です」
「それはこちらもです。ニコライさん」
あくまでも社交辞令だ。
しかし物凄く浮かれた表情をしている二十代前半のニコライさんには、多分伝わらないだろう。
一段高い畳の上に敷かれた高級座布団に正座をした私は、心の中で大きな溜息を吐く。
「お噂は伺っております」
「噂ですか?」
ここでニコライ一行と会うのは、政治やら国やらの駆け引きの一つらしいが、別に交渉をして条約を結ぶ気はない。
だが見栄えが良いだけのマスコットキャラでも、日本のトップに立っているのだ。なので向こうの偉い人が出てきたら、こうして顔を見せる必要もあるのが面倒なところである。
…と何だかんだ愚痴を言ったが、今回はただの顔見せ雑談なので気楽であり、他に話題もなかったので、率直に噂について尋ねてみた。
「日本とオーストラリアを技術大国に押し上げ、他国と協和政策を推し進める慈愛の女神。…それが貴女です」
確かに今の時代を生きる人たちが私を評価したら、そう思われていても不思議ではない。
しかし慈愛の女神とは恐れ入った。買いかぶり過ぎだと言いたくなるが、わざわざ口に出したりはしない。
そもそも私が協和政策を進めたのは、戦争を回避するためであり、自国民を死地に送りたくないからだ。
全て私のワガママから来ているので、深い考えもなくて少々申し訳ない気持ちになる。
それにたとえ植民地化して利益を得たところで、独立運動の高まりと共に、段々と抑えが効かなくなる。
未来の日本でテレビのニュース等を見ても、他国の恨みを買って、なし崩し的に動乱に巻き込まれるパターンが多々あったし、ならば極力手を出さずに傍観者で居るほうが良いだろうと、そう判断したのだ。
「私は将来、日本のためになる道を選び取っているだけです」
どれだけ長く生きても、私の頭はあまり良くならず、政治や交渉などの難しいことは、わからないままだった。
それに今も、これまで歩んできた道が本当に正しかったのかと、思い悩むこともしばしばある。
だが幸いただちに影響はないようなので、ニコライ皇太子の前では動揺を微塵も出さずに、静かに微笑を浮かべる。
「本当に羨ましいことです。もしリトルプリンセスが、ロシア帝国に居てくれれば…」
「残念ですが、ニコライさんの国は大きすぎて、私の手に余ります」
「はははっ、我がロシア帝国は国土の広さが自慢ですからね」
小さな島国の最高統治者でさえ、事あるごとにヒーヒー言っているのに、海の守りがなく、陸続きの大国に手を伸ばすなど、とてもではないが手が回らない。
「正直に言いますと、私は日本を持て余しています。
今でもまだ最高統治者であり続けているのは、国民がそれを望んでいるからに過ぎません」
本当は今すぐにでも退位したいが、私が最高統治者でないと嫌だと国民が言うので、神皇の職に就いているのだ。
ニコライさんもそれがわかっているようで、こちらを見ながらニッコリと微笑みかけてきた。
「では、リトルプリンセスが退位されたら、ロシア帝国にぜひいらっしゃってください。
国をあげて歓迎しますよ」
「…一応考えておきましょう」
最後にそう締めくくって、ニコライ一行との対談は終了した。
彼らは謁見の間から速やかに立ち去り、次の日にはたくさんのお土産を持って、ロシア帝国へと帰っていったのだった。
何にせよ一大イベントが問題なく終わって良かった。
だがそれとは別に、大政奉還で日本は民主政治に移行したのだから、いつまでも名ばかりの君主制が続くはずがない。
徳川幕府の時とは違い、私が何か一つ大きなミスをすれば、今の地位から簡単に追い落とされてしまう。
本当は惜しまれつつ退位が望ましいのだが、世の中そう上手くはいかないだろうし、万が一の保険として、ロシア帝国への亡命もアリかも知れない。
なお、ニコライ一行が去った後、全国から寄せられるお供え物の量が何故か激増した。
私はその真意に気づくことなく、できれば日本に残りたいけど、将来はどうなるかわからないしなー…と、布団の上で寝転がりながら、お気楽な引っ越しプランを考えるのだった。
明治二十七年になり、何やらお隣の朝鮮がきな臭くなってきて、甲午農民戦争という大規模な内乱が起きた。
ちなみにこの件は日本は完全ノータッチであり、どうぞ清国と末永くお幸せに状態であった。
何だかんだで日本の世論も賛成してくれているので、国交は断絶したままである。やはり国民の皆が稲荷神を敬ってくれているのは、意思の統一という点では非常に大きいことを再確認したのであった。
なお下手に舵取りを見誤れば、座礁からの沈没待ったなしなので、早く退位してこの重圧から解放されたいという思いが、一層強くなる。
なお、私の意思を後押しする理由はもう一つあり、日本とオーストラリアが協力関係であったことだ。
わざわざ朝鮮に出兵して火中の栗を拾わなくても、一緒に幸せになれる優秀なパートナーが、何百年も昔から既に存在しているのだ。
ついでに、開拓済みの北海道や樺太、千島列島や沖縄も日本の一部だし、別にわざわざ大陸方面に進出しなくても、資源には全く困っていないのだった。
それに第三者視点になることで、今の朝鮮がどれだけ混沌としているのかが、私でも何となく見えてきた。
まず、アメリカ合衆国や西欧の列強、さらには東アジアや清国の思惑が複雑に絡み合っており、それぞれが将来的な利益を確保するために、武器弾薬やその他諸々を送り込むことで、朝鮮で激しい内乱を起こしているのだ。
パッと見た感じは、清国が弱いのか朝鮮が強いのかは知らないが、内乱が長く続くほどに泥沼化していくので、国内情勢は不穏の一言だ。
なお、日本も明治三陸地震が起きててんやわんやだったが、そちらは耐震工事で被害を抑えている。
それにすぐさま自衛隊を派遣したり、私が慰問に行くことで、混乱も少なく立ち直りも早いのだった。
明治三十三年になり、義和団の乱が起こった。
これは諸外国の後ろ盾があるとはいえ、朝鮮の内乱を鎮圧できない清国に、いい加減痺れを切らしたのかも知れない。
だからこそ、扶清滅洋を天高く掲げる義和団が立ち上がったのだ。
ちなみに詳しく説明すると、これは清朝を助けて西洋を討ち滅ぼすの意であり、中国清末の時代に、欧米勢力の進出に反対して、民族主義者が用いた標語らしい。
さらに義和団だけでも面倒なのに、清国の西太后がこの叛乱を支持して、六月二十一日に欧米列国に宣戦布告したため、国家間戦争にまで規模が広がってしまうのだった。
非常に混沌としている東アジア情勢を、リアルタイムで外から見ている私としては、あーもー滅茶苦茶だよー…と突っ込みを入れたくなってくる。
そんなこんなで宣戦布告後二ヶ月も経たないうちに、事態はさらに混迷を極めることになる。
何と、北京の公使館員や居留民保護のためという理由で、七ヶ国連合軍が北京に進出してきたのだ。
ちなみに連合国側は、ロシア帝国、イギリス連合王国、フランス共和国、アメリカ合衆国、ドイツ帝国、イタリア王国、オーストリア=ハンガリー帝国の七カ国。
対する清国側が、義和団、清。合計一国と一組織であった。
正直連合国側の苛めじゃないの? …と疑いたくなるが、清国は圧倒的な兵力という武器があり、現実に武装はしょぼいがなかなかに頑張ったようだ。
六月初旬から始まったこの戦争だが、終戦は次の年の九月であった。
なので清国は、列強諸国の連合を相手に、実に一年以上も戦い続けたのだった。




