平和な時代
寛永が終わって宝暦が始まった。
人形劇や歌舞伎、演劇の脚本が共有されたりコラボして盛り上がったりと、平和な月日が流れる。
大雨や洪水も治水工事のおかげで被害を最小限に抑えられてはいるが、まだまだ人力に頼らざるを得ず、ユンボやショベルカーといった重機が欲しくなる。
ちなみに、日本では当たり前のように西洋の暦を使っているが、これは稲荷大明神が発案したのでと強弁した結果、特に反発もなく受け入れられている。
一年は三百六十五日、一日は二十四時間、一時間は六十分、一分は六十秒と、カレンダーやゼンマイ式時計も各家庭に行き届いているのだ。
なので宝暦五年に今代の征夷大将軍が、そう言えばうちの暦って外国が使ってるのとそっくりですね…と、尋ねられても何も問題はない。
六千年以上昔の古代エジプト発祥なので、イエズス会もそれを改良して使ってるだけですよと、そう答えておいた。
日本は大分前から、仏教ではなく稲荷大明神の国になっていたようで、信教の自由は保証されているものの、民衆はキリスト教をあまり心良くは思っていない。
それでもあからさまに追い払ったりはせずに、生暖かい目で見守るだけの無関心状態だが、暦の元ネタに反応するとは思わなかった。
だがまあ、たまたま気になっただけらしいので、きっと大した意味はないのだろう。
同じく宝暦五年のある日、小さな事件が起こった。
まず最初に、私は神皇で江戸幕府と繋がっているものの、あくまでも便利な統治機関として利用し、代理として権限を貸し与えている。
さらにそれとは別に、朝廷は直接政治には関われないがアドバイザー的な立場になっていて、それなりに良い暮らしをしていた。
しかし酒に酔った勢いというのは恐ろしく、徳川家重から将軍職を取り上げて日光へ追放し! 我ら朝廷が稲荷大明神様を支えるのだ! …と、そんな訳のわからない倒幕計画をのたまう公家が出てきてしまった。
朝になって二日酔いに頭を悩まされながら、全く記憶にございません! …と下手な言い訳を続けているが、流石にお咎めなしとはいかない。
なので漏れなく全員が、十日間の禁酒を申し付けられた。
誰もがお酒を飲んで気が大きくなるときはあるが、皆若いのできっと夢を見たいお年頃なのだろう。
そもそも彼らは、今の政治体制に不満があるわけではなく、ただ私の役に立ちたいという忠誠心が暴走した形で、行き過ぎた発言であった。
なので、気持ちだけをありがたく受け取り、禁酒が終わったらお友達と一緒に飲んでくださいねと、竹内敬持さんにはお供え物として受け取ったが在庫過多で余らせていた、数量限定の清酒を送っておいたのだった。
宝暦が終わって明和に変わり、面倒な一揆などにも悩まされることなく、平和な日々が続く。
やはり人間、衣食住と快適な生活が保証されていれば、そうそうブチ切れたりはしないものだ。
そしていつの間にか、江戸の湾岸には火力発電所が建てられ、大量の石炭を燃料にして発電を開始していた。
それに伴い私の家にも無骨な裸電球が灯り、夜も明るく照らされるので何ともノスタルジックな気分になる。
環境汚染や大量生産大量消費の怖さは、口を酸っぱくして言い聞かせてあり、人力バイバイの最初の一歩を踏み出したあとは、地熱や風力、太陽光や水力や潮力でのエコロジーな発電を推し進めている。
未来には絶対に必要になる技術なので、どれだけ時間がかかろうと必ずやり遂げてもらいたい。
「原子力発電も研究はさせてるけど、正直持て余すんだよね」
自然災害が頻繁に起こる日本で使うには、万が一のメルトダウンが危険すぎる。
と言っても他の発電施設が安全というわけではないのだが、事故が起きた時の環境汚染は、原子力と比べれば大したことはない。
なので技術開発をしても、今後一切稼働はしない予定だ。
「でもまあ今は、錦絵が流行ってるほうが気になるかな」
明和二年を過ぎて錦絵が大流行し、様々な絵師が多種多様な技法を用いて、美しい絵画を描いていった。
印刷技術の発展により、東錦絵や吾妻錦絵といった売れっ子絵師のペンネームが、日本中に広まったのだ。
東洋と西洋の合作は見事なもので、美神画と言うらしいが、そこにはリアルを重視した技法で、私が可愛らしく描かれていた。
お供え物として受け取ったが、自分のイラストを家に飾るつもりはないので、これも稲荷大社に建てられた、もはや何番目かわからない正倉院行きとなったのだった。
明和七年の七月、私をペロペロする目的で幕府を転覆させようとのたまう輩が、最近急増したように思えて困っていた。
別に政治体制に不満はないのだが、人は生まれを選べない。
江戸出身なら仕官が叶う可能性が高いのだが、地方出身ではどうしてもハンデを背負うのだ。
山県大弐さんもその一人で、今は甲斐国で働いているのだが、本当は私のお膝元で政治手腕を振るいたかったらしい。
しかしそこはやはり狭き門であり、結果的に夢破れて私への信仰をこじらせるあまり、倒幕などと口にするようになった。
なので私は、気持ちだけ受け取っておきます…といったお手紙と、禁酒が解けたら飲んでくださいと、またもやお供え物で在庫過多の高級清酒を送っておいた。
何にせよ、今日も日本は平和なようで、私は縁側に腰を下ろしてワンコと一緒に、空に広がる非常に珍しく綺麗なオーロラを眺め、早熟のスイカに齧りついては、小さな口から種をポンポン飛ばすのだった。
明和八年の夏、数ヶ月前に沖縄の石垣島を大津波が襲った。
だがやはり避難訓練を続けていたし、防波堤でも多少は軽減されたので、今後もこの調子で行きたい。
そして同年、山城で宇治を中心にお蔭参りが大流行した…と見せかけて、やはり本命は江戸の稲荷大社であった。
またもや神社関係者からの悲鳴が響き渡ったのは、もはや言うまでもないのだった。
明和が終わり、安永が始まった。その三年に、杉田玄白さんが解体新書を刊行した。
江戸幕府が開かれた当初から、日本の医学は圧倒的な速さで発展し続けてきたが、今回はその集大成となる。
私の未来知識や現代の西洋と東洋、それらの中から使えるものを取捨選択し、独自に洗練したのが日本発祥の医学書であった。
これもお供え物として受け取り、パラパラとめくって目を通してみたが、自分には家庭の医学の知識はあっても医者ではない。元は平凡な女子高生だ。
読み解ける項目は限られているが、詳細なイラストも描かれていたので、わかるところだけ読んでいくと、脳や心臓の手術、電気ショックを使った蘇生法などの他、薬剤に関しても幅広くカバーしており、既に現在より百年以上も未来の医学と遜色ないレベルに到達していたことに驚きを隠せなかった。
ちなみにそれとは別の話だが、安永八年に桜島が大噴火して、百名を越える死者が出た。
その際に、北東に小さな島ができていることを、慰問に行った時に知ったのだった。
時は流れて安永の次は天明となり、二年から八年の間、またもや全国ツアーが始まる。
もう食品の価格が値上がりするだけで餓死者はでなくなったのだが、お百姓の皆さんが不作で苦労しているので、稲荷大明神様の慰問は必要である。
そう全国から声が聞こえるので、日本の車窓からの特集まで取るハメになった。
私は蒸気機関車の中で、記者にインタビューを受けながら、稲荷神様は慰問中にどのように過ごすのかを尋ねられる。
適当に答えを返しながら、頭の中では確かに江戸の稲荷大社の聖域には、一般人は立ち入れないので、外に出るタイミングでなければ密着取材は無理だなと考える。
今の時代にプライバシーの概念などありはしない。入浴中はもう諦めたが、お手洗いに行く必要がなくて本当に良かったと、ホッと胸を撫で下ろすのだった。
天明三年の七月に浅間山が大噴火して、二万人以上も死者が出てしまった。
それでも今の日本はこの程度ではへこたれない。国民一丸となって危機を乗り越えるのだと、私はまた適当な言葉を勢い任せで口に出して皆を励ます。まさに言うだけならタダであった。
天明四年の二月に、筑前の志賀島で金印が発見された。
何のことかと思ったら、漢委奴国王印…らしい。
これを聞いてもちんぷんかんぷんなのだが、中国の王様が押す印鑑とのことで、見た感じは金率が高くてピカピカしていて珍しい物だとは思ったが、私にも幕府にもあんまり関係ないなと思った。
天明六年になり、北海道の開拓がほぼ完了した。
本土とはまだ繋がっていないが、鉄道網は端から端まで行き届いており、これから火力発電所で生み出された電気を、町村の隅々まで行き渡らせる。
さらに最上徳内さんという人が千島を探検して、詳細な地図を書き上げてくれた。
とにかくめでたいことなので、慰問中の私は蒸気機関車の座席に腰かけ、片手でお礼状を一筆したためながら、粒あんのおはぎを小さな口でモグモグと頬張るのだった。
江戸と同じように京都の治安も安定しており、飢饉が起きて生活が苦しいからと、御所を千度参りすることもなく、大変平和であった。
大火事が発生して京の町があわや大惨事というときも、蒸気式水圧装置が大活躍して、無事に火は消し止められたのだ。
そんなこんなで天明八年になり、尊号事件という訳のわからないいざこざが始まる。
皇位についていない人間に皇号を贈る問題で、反対派と賛成派が争っているのだ。
そして当然のように、稲荷大明神様は賛成ですか! 反対ですか! …と聞きに来たので、私に地上の政はよくわかりません…と、日本人によくある玉虫色の返事をしてお茶を濁したのだった。
天明が終わって寛政に。小耳に挟んだところによると、北海道のアイヌ民族の大多数が私を崇めていて、人間と精霊の中間的存在として認識しているらしい。
キリスト教に例えれば、神様の教えを地上に伝える天使のようなものだろうか。そう考えると、案外的外れではない気がする。
何にせよ互いの仲が良いので、向こうの人と日本人が結婚して子供を生むことも良くある。
これでもしファーストコンタクトに失敗していたら、今頃戦いになっているのだろうなと、ちゃぶ台に頬杖をついてぼんやりと考える。
寛政十二年、また噴火したり地震が起きたりと大変だが、これは日本に住んでいれば仕方がないことだ。
なので最近は全国的な危機でなくても、事が起これば被災地に慰問に訪れるようになっており、これも仕事であり仕方ないと割り切るようにしている。
それよりもだ、寛政六年に絵画界に彗星のごとくデビューして、十ヶ月で姿を消した東洲斎写楽さんだが、この人も私の絵画をたくさん描いてくれた。
多分海外でも良い値で売れるのではなかろうか。
しかし恥ずかしいので家には飾らず、受け取ったお供え物は全て稲荷大社の正倉院行きである。
十二年の終わりの頃には、開拓の終わった北海道を伊能忠敬さんが測量してくれたので、詳細な地図が書かれて、日本の皆もとても助かっている。
この人にも日本勲章を授与するのは、ほぼ確定であった。




