心機一転
慶長は二十年で終わり、年号は元和になったが、相変わらず地震が頻繁に発生する。
それでも藩ごとの連携が取れた災害支援が上手く噛合、回数を重ねるごとに問題点も見えてきて、段々と対処法も効率化されていく。
この調子で頑張って被害を抑えて、並大抵の揺れでは被害が出なくなるようにしたい。
オランダとの貿易を締結してからのことだが、イギリスも聞いたのか、国交を開くための使者を送ってきた。
その際に貿易の話はそっちのけで、外交官は私のほうに夢中になってしまい、何度誘いを断ってもやたらと熱烈に口説くので、段々対応が面倒になり、用事があるので失礼…と謁見の間からそそくさと退室した。
交易に関しては長崎の出島のみ許可を出し、他国と同じ対応をしておいたが、何が悲しくてロリペタ狐っ娘が、イギリス王室の文通相手にならなければいけないのか。
頼りにされたら余程のことがない限りは嫌とは言えないので、仕方なく受け入れたが、何とも気が重い案件であった。
そして年月が流れて元和二年に、私の古くからの友人であった徳川家康さんが亡くなった。
数年前から体調が悪そうだったし、いつかはこんな日が来るんじゃないかと、覚悟はしていたつもりだ。
しかし、昨年は織田信長さんの遺骨がオーストラリアから帰ってきたので、立て続けに旧友が亡くなったことで、精神的にショックを受けた。
そのため最近は何もする気がなくなり、起きても無言で食事を摂るだけで、縁側にも出ずに、家の中に引き篭もっていた。
家族であるワンコは何度も代替わりしているので今さらだが、これが心にポッカリ穴が開く感覚なのだと、布団の中で寝転がりながら、はっきりと理解させられたのだった。
元和六年にもなれば多少は回復し、幕府の役人がお見舞いの品や、日本国民からの励ましの手紙を大量に届けてくれたとき、生返事だがお礼を言うことはできるようになった。
そんなある日のことだ。二代目将軍の徳川秀忠さんが、私を元気づけるために、江戸で大人気の喜多流という能に誘ってくれた。
自分としてはもうすっかり立ち直ったように振る舞っていたが、空元気で無理をしているのはバレバレだったようだ。
なので私は、心配をかけた謝罪も兼ねて、彼の誘いを受けることに決めた。
パンフレットを読む限り、シテ方の名手の喜多七太夫長能が、金剛座から独立して、新しく作ったらしい。
ちなみに未来の芸術関連は日本中に広まっており、歌舞伎とは別の西洋歌劇団も頻繁に開かれていて、そちらも連日満員御礼で大変めでたいとのこと。
「今日は誘ってくれて、ありがとうざいます」
「いえいえ、自分も今江戸で話題の能を、直接見たいと思っていましたから」
最前列の座布団に二人で並んで腰を降ろすが、片方は中年の男性、もう片方は狐っ娘美幼女であり、違和感が半端ではない。
おまけに周囲の客の全てが護衛と幕府の関係者で占められた貸切状態であった。
だがまあ、こうでもしないと稲荷神の私と征夷大将軍の彼は、演劇を楽しむことは不可能なのだ。
お互い、有名人は辛いと言ったところだろう。
「能の主役は稲荷様らしいですよ」
「ふむ、…私ですか」
パンフレットに記載された通り、確かに主演は男性だが、狐の面をつけて巫女のような女装をしていた。
そのままぼんやりと能を見物していると、三河の稲荷山らしき舞台に、若かりし頃の徳川さんと織田さんが現れた。
彼らと手を取り合い、日の本の国に天下泰平をもたらそうと、そう強く観客に訴えかける。
その後は拡大解釈や脚色だらけだったが、稲荷祭と上洛、征夷大将軍と江戸幕府、そして退位した後に神皇となり、これにて天下泰平は成し遂げられた…と、幕が静かに下りていった。
「稲荷様、少しは元気が出ましたか?」
「はい、…かなり」
「それは良かったです」
能が終わると自分でも気づかないうちに涙が溢れてしまっていた。
徳川さんや織田さんだけでなく、私の生きた証もちゃんとこの世に残されているとわかって、嬉しかったのだろう。
そして今も日本の大地にしっかりと根を張り続け、逞しく成長しているのだ。
「…お腹が空きましたし、徳川さん。帰りに何処かに寄っても?」
「でしたら、江戸で評判の鰻屋はどうでしょうか?」
「ふふっ、それはいいですね」
何だか久しぶりに晴れやかな気分になれた。
私は座布団から立ち上がり、二代目の徳川さんと一緒に鰻屋を目指し、意気揚々と歩き出した。
自分があと何年生きるかわからないし、そもそも人間ではない。古くからの友人も皆先に逝ってしまった。
だが私のこれまでの頑張りは決して無駄ではなく、稲荷神の教えはこの国の皆の心に根を張り、今もしっかりと生きている。
もうこの世に居ない徳川家康さんと織田信長さんに、褒めてもらえたように感じて、私は無性に嬉しくなったのだった。
ここ何年もずっと気持ちが沈んでいたが、すっかり元気を取り戻して明るくなり、私は健全な精神は健全な肉体に宿るという説を信じることにした。
なので広大な稲荷大社を囲む深い堀の外周を、毎朝ワンコを連れてせっせとジョギングをするようになった。
しかし肉体が一切成長していないため、筋肉量も現在の幼女体型を維持したまま増えようがなく、体を鍛える意味は全くない。
だが家に引き篭もっているより、暖かな陽の光を浴びて外で運動をしたほうが気が紛れるのは本当のことである。
ジョギングの後はラジオはないけど体操をしたりと、インドア派からアウトドア派に変わり、今日も後ろに大勢の民衆を引き連れてせっせとジョギングを続けるのだった。
気持ちの踏ん切りがついた元和八年の八月、長崎で事件が起きた。
宣教師として活動していたカトリックのキリスト教徒五十五名が、稲荷神教に改宗したいと、江戸幕府に嘆願書を送ってきたのだ。
外堀通りのお散歩がお預けになって、ふてくされているワンコたちを落ち着かせてから、私は稲荷大社の本宮の謁見の間に出向き、江戸幕府の役人から相談を受けていた。
「勝手に改宗すれば良いじゃないですか。日本は信教の自由を保証しているのですよ」
「しかしイエズス会は少々特殊なようで、キリスト教から改宗するためには、いくつかの条件が必要になるらしいのです」
何が何でもキリスト教を足抜けさせないという、強い意志を感じる。まあ一神教が八百万の神を認めるというのがそもそもおかしいのだが、私としては稲荷神の信奉者が多すぎるので、この際少しでも減ってくれたほうがバランスが取れて嬉しいのである。
なので、この際無理に改宗しなくても…と思えてしまうのだ。
しかし日本の住民は異教徒にも優しく接し、ここでの暮らしが快適だったのか、改宗してうちに骨を埋めたいと考える信徒が、大勢出てきてしまったのが原因らしい。
「本国に残してきた親族との折り合いもありますし…」
「はぁ…面倒臭いですね」
世間体というのはわからなくもないが、未来で女子高生をやっていた私の感覚からしたら、自分はどの神を信仰してると表立って主張しないし、少なくとも仏教、神道、キリスト教の三つなら弾圧はされない。
なのでそれぞれが好き勝手に信仰すればいいと、投げやりにもなる。
だがまあ布教目的で送り込んだ宣教師が、いつの間にか他国で改宗していた…となれば、上司にバレたらお叱りを受けるのは想像に難しくない。
信じて送り出した宣教師が、稲荷神に堕とされるなんて…と、いうやつだろう。
「それで、私に何をして欲しいのですか?」
「稲荷神様からローマ教皇に手紙を送り、五十五名の改宗を頼んでいただけませんか?」
頼まれたのは一筆認めるだけらしく、大した手間ではない。
問題は今のローマ法王が許可するかどうかだが、その辺は私の預かり知らぬことで、後は野となれ山となれである。
「まあ、要求するだけならタダですし…」
それにイギリス王室に何度も熱烈に口説かれて根負けして、渋々文通を続けているので、外国の言葉で手紙を書くのは慣れている。
早速お付きの巫女を呼び出して、謁見の間まで紙とペンを持ってこさせる。こういうのは思い立ったが吉日であり、勢いが大事だ。
筆を走らせながら内容を考えることで、三十分もかからないうちに、ローマ教皇に向けた改宗のお願いを書き上げたのだった。
元和は十年で終わり、その途中で三代将軍は徳川家光となった。
秀忠さんが年齢的に政務を行うのが難しくなり、先んじて退位したのだ。
征夷大将軍だけでなく朝廷や大名もそうだが、食生活の改善によって平均寿命が伸びても、身体的な衰えはどうしようもない。
無理だと感じたら息子や娘に任せて、なるべく早く隠居するようにと、しっかり言い聞かせてある。
それはともかく、寛永に変わっても日本は宣教師を弾圧していないので、キリスト教の信者はそこまで増えていなくても、割と元気である。
それどころか日本への永住と改宗の嘆願書が多く出されるため、私は何度もローマ法王に許可を求めるお手紙を書いている。
代わり映えしない内容なので、最近は五分もあれば一筆認められるようになり、英語の筆記技術もかなり上がって達筆になった。
ちなみにキリスト教から稲荷神教への改宗の許可は、無事に下りた。
日本は信教が自由な国なことと、もし断れば国内の宣教師の印象が悪くなるのだ。
ただでさえ稲荷大明神の一人勝ちなのに、機嫌を損ねてこの国の民衆が一斉に敵に変われば、弾圧されるだけでなく、貿易も即打ち切られて、外国人は皆国外に締め出される可能性が高い。
ならば少数の信者の改宗を受理するぐらい、そこまで大きな痛手ではない。
しかし一番の原因は、ヨーロッパに広まった稲荷様フィギュアを見た教会の上層部が、何をとち狂ったのか大ファンとなり、改宗しないことを条件に存在を認めたのだ。
なので現地の末端は邪神だ何だと騒いでも、権力を持つ人は暗黙の了解に従って稲荷神だからセーフ、さらに堂々と口にはできないので隠れて私の人形を所持する者が大量発生するという、非常にややこしい事態が起こってしまった。
今思えばオランダの使者が、私に対して国をあげて好意的に接するのは、上に立つ人が沼にズブズブにハマったせいだったのかと、ようやく理解したのだった。
ただ一つ問題があるとすれば、教会の一部でアイドル的存在になった稲荷神のお願いが、二つ返事で通ったことで、続く改宗希望者が大勢出てきてしまったことだ。
しかしこれは、今代のローマ法王が招いた事態なので、何とかしてくださいと泣き言をいってきたところで、私は気を強く持って頑張って処理してください…としか書けず、粛々と許可を求めるお手紙を認めるだけであった。
キリスト教の厄介事を処理した過程で、ローマ法王とイギリス王室と同じく文通仲間になってしばらく経ち、仏教関係でも事件が起きた。
元々江戸幕府は、寺院と朝廷の力を弱めるため、紫衣を高徳の僧に賜るのは禁止といった決まり事を作っていた。
しかし寛永四年になって、後水尾天皇が言いつけを破って、幕府に相談もなくお小遣い欲しさに十数着も紫衣を発注したのだ。
だが幸い。報連相がしっかりしていたので、発注先の業者からこれは不味い案件なのでは? …と私にタレコミが入り、辛うじて水際でちょっと待ったと止めることができた。
それでも徳川家光さんはカンカンだったが、相手はやんごとなきお方なので、私が幕府を宥めることで、何とか全面衝突だけは避けられたのだった。
しかし今回の一件が余程腹に据えかねたのか、これまで与えた高徳の僧からも、紫衣を取り上げるべきだと言い出したのだ。
私はこれは不味いと判断し、紫衣事件の当事者たちを江戸の稲荷大社に大急ぎで呼び出し、開口一番に上から目線でいけしゃあしゃあと説教を行った。
「幕府の法度は朝廷の勅許より優先するかも知れませんが、日本を治めているのは神皇である私です。
皆いい大人なんですから、もう少し慎みを持って行動してください」
そう言って、既に発注してしまった紫衣は全て私が買い取って、泥をかぶった。
下手をすれば不当な圧力を受けたと言い張り、朝廷と寺院が結託し、幕府に抗弁書を出す可能性もあったが、何とか未然に防げて良かった。
戦国時代と比べれば生活は劇的に改善されたが、人の欲望には限りがないと思い知った形だ。
「紫衣はこちらで買い取りますので、徳川さんも島流しは止めてあげてくださいね」
「むう…稲荷神様がそう言うのなら、この場は許すしかあるまい」
「こちらも紫衣を買い取っていただけるのであれば、稲荷様の決定に異論はありません」
朝廷も幕府も、私が間に入ることで折り合いがついたようで何よりだ。
紫衣がどれだけ高価な物かは知らないが、正直お賽銭は貯まる一方で使い道に困っていたので、経済を回す良い機会だと前向きに捉えることにする。
宗教関係と言えば、三河の一向宗に腹を立てていた頃と比べて、私も随分と丸くなったものだ。
次からは必ず幕府に相談してから業者に発注するように…と申し付け、この場は一件落着となったのだった。




