サン=フェリペ号事件
<サン=フェリペ号の船長>
フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船、サン・フェリペ号は、メキシコを目指して長い航海を続けていた。
しかし不幸なことにその道中で、大嵐に巻き込まれてしまう。
咄嗟に機転を利かせてメインマストを切り倒し、積み荷の殆どを海に放棄することで辛うじて沈没は免れたが、船体の損傷は酷く、航行不能となってしまった。
船長であるマティアス・デ・ランデーチョは、潮の流れに任せて運が良ければ、いずれは日本に流れ着くはずだと、船員や司祭を必死に励ました。
それを聞いた皆は、水と食料が乏しい中でも希望を捨てずに、ひたすら耐え続けた。
そして大嵐から数日後、サン・フェリペ号は予想通りに日本に辿り着き、沖合から現地の人に救援を求めたのだった。
結果、土佐藩と呼ばれる領土の役人に保護観察となる。だがガレオン船と積み荷は没収されて、長浜の町に留め置かれることになってしまった。
その際に、向こうの外交官にイギリスの言葉を理解する者が居てくれたのは、幸いだった。おかげで交渉がスムーズに進んだ。
最終的に土佐藩は近隣住民への無用な混乱を避けるため、長浜の町の大きな宿を貸し切りにして、船員全員を押し込めた。
俺たちのことをこの国を治める大将軍に報告して、どのように扱うべきかとお伺いを立てるらしい。
これを聞いた俺は至極妥当な判断だと納得し、一時は環境の酷い収容施設送りを覚悟したが、全くそんなことはなかった。
予想外だったが、押し込められた宿の庭木はきちんと剪定され、廊下や室内は全て清掃が行き届いており、立派なものだったのだ。
保護観察中なので、町に出るためには許可証と役人の同行が必要になるが、基本的には各々が自由に過ごして良いとのことだ。
そんな破格の待遇に困惑する中、船員の中でも地位の高い者を大部屋の一つに集めて、今後はどのように動くべきかと、各々が酒とツマミを持ち寄って、雑談混じりに話し合っていた。
「そう言えば船長。日本のあの船なんですが…」
「それは俺にもわからん。風を受けるマストも張らずに、水をかいて進むとはな」
船員の一人が質問した、サン・フェリペ号を牽引した日本の大型船舶は、これまで見たことがないものだった。
表面には防腐加工された木材が使われており、船の左右に取りつけられた水車のような物を回転させて、水面をかいて進むのだ。
ちなみにマストもあったが普段は使っていないらしく、帆は畳まれたままだった。
「もしかしたら造船技術は、我々スペインよりも…」
「馬鹿なことを言うな! 日本は未開の地のはずだぞ!」
他の船員が不安そうな顔をしていたので、俺は首を振ってすぐに否定の言葉を口にする。
ポルトガル人から聞いた情報では、日本は未開の地で、馬に乗って剣を振り回して戦い、遠距離からの攻撃といえば銃ではなく弓だ。
それぐらいスペインよりも技術が大きく遅れており、航海技術も未熟で近海からは出られない。そんな小さな島国のはずだ。
「…だがまあ、ワインの味は日本のほうが上かもな」
「出された料理も美味しかったですしね」
軍事力で負けるのは悔しくて、断じて認めるわけにはいかないが。料理ぐらいなら敗北を受け入れても構わないだろう。
それに自分が実際に飲んで舌の上で転がすと、スペイン産のワインよりもまろやかな味であり、ほのかに甘みを感じるほどに洗練されている。
俺以外の船員の皆も、日本人の美食への追求に感心する出来栄えだ。
「自分は唐揚げが気に入りました。あれはワインに合います」
「私は茶碗蒸しですね。あのような卵料理は、見たことも聞いたこともない」
宿には土佐藩の外交官も宿泊しており、何か困ったことがあれば、いつでも部屋を訪ねても構わないらしい。
そして晩の食事に同席し、その時に話を色々聞かせてもらった。料理の名前もそこで教わったのだ。
しかし残念ながら、日本の造船技術は機密であった。
「今の日本を統治しているのは、狐の神様って、本当でしょうか?」
「わからん。そうなる前は、足利と言う大将軍だったらしいが…」
大将軍が上に立つのは当然だし、朝廷が権力を持っているのも理解できる。
しかしいくら何でも狐の神様に関しては、冗談にしか思えなかった。
だが土佐の外交官から詳しい話を聞くと、獣の耳と尻尾がついている幼い女の子で、もう何十年も姿形が変わっていないらしい。
それを聞いた俺たちは開いた口が塞がらず、間抜け顔のまま食事の手を止めてしまった。外交官が先に食べ終わり、冷めてしまいますよ…と声をかけられるまで、ずっとそんな茫然自失の状態だったのだ。
「俺が考えるに十中八九、江戸幕府が操る駒だろうな」
「神の御業にしたほうが都合がいいですからね。…うちみたいに」
「ああ、確かにうちもそうだったな」
祖国スペインの宣教師の説法のように、神は存在して様々な奇跡を起こし、迷える人々を導くと広めれば、きっとこの国の民は簡単に騙されて信者になるだろう。
ちなみに俺も一応はキリストの教えを信じてはいるが、そこまで熱心というわけではない。
「しかし、あの外交官はもう駄目だな」
「完全に信じ切っていましたからね」
「長浜の住人もだが、上手くやったものだ」
民衆の信仰心を利用する、徳川幕府の政治手腕は侮れない。俺たちはそう感じた。
何しろ長浜の町のいたる所に狐をかたどった品々が飾られているのだ。これは皆が心の底から信じ込んでいる証拠だろう。
それに食事を始める前のいただきます。食べ終わった後のごちそうさま。あれは稲荷神への感謝の祈りだそうだ。
さらに作ってくれた料理人や農民への感謝と、食材の命を自らの糧にすることへの感謝も含まれている。…と、外交官が教えてくれた。
「神に祈るのは俺たちもしているが、何故農家や食材にまで感謝を?」
「さあ…あの時はそこまで詳しく聞きませんでしたから、自分には何とも…」
稲荷神を国の頂点に置きながら、下々の民に感謝するようにと教え込む。
しかし通常ならば、民衆を思い通りに動かすには、権力と信仰は一個人に集めたほうが都合が良い。
そう考えると、どうにもおかしな国に思えてくる。
それに外交官は稲荷神の信奉者ではあるが、日本では信教の自由を認めており、俺たちに改宗を迫ったり、キリスト教を弾圧することはなかった。
だがそれでも、郷に入れば郷に従えと説いて、日本の習慣を強要したりもする。
食後や寝る前の歯磨きもその一つで、歯刷子と呼ばれる木の棒の先に、細かく固い動物の毛が縫い付けられており、先端を口内に入れて磨くのだ。
初回は彼に指導されたがスペインでは馴染みがないので、慣れるまでが大変だった。
しかし今では歯磨きをして、口の中が清潔な状態で温かな布団に入らないと、どうにも落ち着かなくなってしまった。
「だがまあ、何年も姿が変わらない人間などいない。狐の耳や尻尾もくっつけられる。
大げさな仕掛けな分、粗も多いし、もし嘘だとバレたら国が傾くな」
「そりゃまあ、神様を騙って国民を騙してますからね」
たとえ実際に国を治めているのは大将軍で、稲荷神はただのお飾りでも、嘘がバレた時点で酷い目に遭うに決まっている。
今の地位を降ろされるのはもちろん、下手をすれば物理的に首を切られかねない。
その点、祖国の宣教師は罰を受けることは殆どない。
何しろ神様は別の世界に居るので、この世で何を嘘偽りを語ったとしても、最終的には自分たちは代弁しただけで、貴方たちの解釈の違いです。…と押し通せるのだ。
「それにしても、何だか可哀想ですね」
徳川幕府に脅されて、稲荷神の役をやらされている女の子のことを、俺たちは哀れに思った。
「子供でいられる時間は短く、保って数年だ。嘘がバレる前に、役を降ろされることを願うしかない」
権力を維持するために、定期的に似た背格好の子供に交代させるのだろうが、少なくとも役を降ろされた女の子は、これ以上扇動者をしなくて済む。
その後に命が無事かどうかまではわからないが、これ以上大罪を犯すことはなくなる。
何とも気が重くなるようなことを考えてしまい、俺は溜息を吐いて天井に視線を向け、しばらく意味もなくぼんやりと眺めていると、誰かの足音が近づいてくることに気づいた。
やがてそれは引き戸のすぐ前で止まると、聞き慣れた声が響いて、外交官が来たのだとわかった。
「お風呂の準備が整いました。入浴時間が決められていますので、早めにどうぞ」
スペインでは森は国が管理しており、ガレオン船を一隻作るためにも国家規模の木材が必要になる。なので火を起こすのさえ許可が必要で、本当に苦労しているのだ。
もっとも、伝染病の元になるのでお湯を沸かしての入浴は避けるようにと言われていないのだが、日本では違うらしい。
「おおっ! それは感謝する!」
何しろ日本では、湯を沸かすための木材の確保は容易で、こうして毎日温かな風呂に浸かることができるのだ。
ちなみに庶民はと言うと、稲荷の湯という無料の公共施設に出向いて清潔感を保つらしい。
それにしても、日本の風呂はとても気に入っている。スペインでは一人用のタライをお湯で満たして、布で体を拭くのがせいぜいだった。
だがこの国ではヒノキで作られた大勢が入れるほどの巨大な風呂桶、その下に鉄板を敷くのだ。
さらに下方で薪を燃やして水を沸かすらしいが、何とも言えぬ自然の木の香りと、浸かった全身が、ゆっくりと温まっていく心地良さ。
生まれてこのかた入浴したことはなかったが、一度でも体験すれば誰もが病みつきになること間違いなしだ。
なので俺や船乗りも入浴時間になったら、いの一番に脱衣所に向かうのだが、今日は残念ながら、司祭たちに一番風呂を取られてしまった。
若干悔しく思いながらも気持ちを切り替えて、木桶と木綿の布拭きを持って、浴槽に続く扉を意気揚々と潜るのだった。