天正十二年
征夷大将軍を退位して一年近く過ぎた天正十二年の春になっても、北海道に高跳びして隠遁生活を送ることなく、私は相変わらず江戸の稲荷大社で暮らしていた。
こうなった原因は、徳川さんが就かせた神皇という意味不明な役職にある。
これは朝廷よりも位が上であり、日本で一番偉い人…ではなく、地上に現界している神様の特別な肩書らしい。
「はぁ…政治から遠ざかって仕事は減ったから、そこは良い点だと思うけどさぁ」
小屋の周辺を家族の狼に守らせて、のんびりモフモフと戯れる。そんなポカポカ陽気な今日この頃、私は縁側で座布団を敷いて日向ぼっこを堪能していた。
征夷大将軍だった頃にしていた、良きに計らえと口に出すお仕事がなくなったのは良いことだ。
だがそのせいで、年中行事に出席したり、たまに顔を見せて本音トークをするという、マスコットキャラやアイドル路線が強化されてしまった。
だがそれでも日本の最高統治者には変わりなく、基本的な方針は私が出しており、予想外のトラブルが発生したら幕府の関係者が相談しに来ることがあり、政治と全く関わらないわけではない。
「織田さんはきっと、こうなることがわかってたんだろうなぁ」
徳川さんが裏で色々動いていることに気づいており、私が楽隠居をしたいと言っても、それは叶わぬ願いだと慰めた。
何しろ神皇というのは自らの意思で退位はできず、神様が地上に降りた瞬間に、勝手に付いて来るものらしいのだ。
そして神皇を辞めるためには、地上の肉体を捨てて天界に帰る必要があり、つまり私が死なない限り、ずっとこの役職がついて回ることになる。
徳川さんにしてやられたという悔しさはあるが、彼なりに気を遣ってくれたのか、今は仕事が殆どなくなった。
なので悠々自適な隠居生活と言えなくもないのだ。
「私が強行すれば退位はできるだろうけど。何かもう、このままでいいや。
もし危ない目に遭ったら、全力で逃げればいいしね」
取りあえずは江戸時代の間は、余程不味い事態にならない限りは三百年の天下泰平は守られるはずだ。
それでも列強諸国がどう動くかはまるで読めず、外から平穏が崩される可能性も十分にありえる。
こんなことなら、もっと真面目に歴史を学んでおくんだったと嘆きながらも、狐っ娘の身体能力なら、周りを大勢に囲まれても余裕で逃げられる。
なので、まだ慌てるような時間じゃないよね…と、徳川さんが申し訳ありませんと謝りながら届けてくれた、ぼた餅に手を伸ばす。
彼なりに苦渋の決断だったろうし、日本にとっても今はそれが一番良かったのだから、私は構わないので、あまり自分を責めないでください…と、あっさり許してあげた。
おかげで今は毎日美味しい物が食べられるようになったし、稲荷大明神様へのお供え物が、全国から送られてくるのだから、今の生活も悪くはない。
「あとは、寿命が人間と同じだったらよかったのに…」
もし人間と同じなら、強引にでも征夷大将軍を退位すれば目的達成であり、万一列強諸国が攻めてきたとしても、きっとその時には寿命でとっくに亡くなっているため、後は野となれ山となれだ。
「でも、時間が経つごとに探査技術は上がるし、人の数も増えるからなぁ」
真面目に考えれば、私がどれだけ山奥に隠れたところで、高度に発達した探査技術でいつかは見つけられてしまう。
もし発見された時は、ネッシーや雪男、またはツチノコのように、新聞の一面を飾ることになるのかも知れない。
「征夷大将軍を退位してからの隠遁生活が無理なら、神皇として生きていくほうがいいのかな?」
まさか何百年も生きる不老不死とは流石にちょっと思えないが、姿形が変わらず、怪我も病気もしないことから、普通の人間よりかは頑丈で長生きする可能性は非常に高い。
「これまで私の味方だった時間が、まさか敵に回るとはねぇ」
人間はいつか、自分たちが信仰していた神や精霊は自らの作り出した幻想であり、心の拠り所なのだと知ることになる。
それに唯一残された最大の謎を解き明かそうをする科学者は、これから大勢出てくることだろう。
もし江戸時代が終わるまで生きるのなら、私はどのように対処するべきだろうか。
だが現状では打開策が思い浮かばないので、いつものように一旦保留とし、ぼた餅を小さな口でモキュモキュして糖分を補充する。
取りあえずは元女子高生だった、ロリペタ狐っ娘が平穏に生きられる時代が訪れることを、神頼みで切に願うのだった。
天正十四年に木曽川が氾濫し、多くの死傷者が出そうになった。しかし日本全国にライフラインを構築及び強化するのは、何を置いても早急に成し遂げなければいけない。
江戸幕府が開かれてから、私はそれを有言実行し続けてきた。
そのため、川沿いの堤防の高さを越える事態は辛うじて防がれて、他の藩の者たちも公共事業の大切さを、身にしみて理解した。
ついでに全く嬉しくないが、これも全て稲荷大明神様のおかげということで、またもや信者が大幅増員されてしまったのだった。
そして天正十七年に、駿河国と遠江国で大地震が起きたときも、日頃から避難訓練を行っており、湾岸沿いは揺れが収まったら高台に逃げるように伝えていたので、大津波で建物や畑や田んぼの殆どが押し流されても、人々の命だけは助かったのだった。
さらに全国の街道網の整備を推し進めていたため、救援物資が速やかに届き、手厚い復旧支援を行い、江戸幕府も協力して立て直しを行った。
なお天災に見舞われるたびに稲荷神の信者が増える事態になっているが、正直お腹いっぱいなので、これ以上はいらなかった。
文禄五年にも大きな地震が起こり、しかも日本全国で相次いでなので、徳川さんは政務の合間の息抜きと称して家に遊びに来る暇もなく、各地の復興支援にてんてこ舞いだった。
ようやく余震も静まり、被災地の衣食住が整い一息ついたと思った頃に、今度は土佐藩に外国船が漂着した。
そんな情報が、ワンコと戯れながら、縁側でのんびりお茶を楽しむ私の狐耳に入ってきたのだった。




