稲荷様は平穏に暮らしたい

江戸時代

北海道

　永禄十一年の新年祝賀会の日のこと。

　私は本宮の謁見の間の上座に着席して、お膳の上に乗せられた正月料理を味わいながら、盃に注がれたお神酒を手に持って、軽く傾けて水面に映る自分の表情を眺める。

（うーん、全く成長していない。過去に来てから、結構経ったのになぁ）

　各地の大名への人質要求は一切していないのに、それぞれ好き勝手に江戸屋敷を建てて、地位の高い身内を住まわせて、都会の別荘代わりに便利に使っている状況だ。

　そして今もお酒を嗜む私の前に、皆が楽しそうな笑顔を浮かべて順番に並んで、新年の挨拶なのかお神酒を注ぎに来ている。

「明けましておめでとうございます！　稲荷大明神様のおかげで、我が領地は救われました！」

「いえいえ、こちらこそ伊達さんには助けられていますし、今年もよろしくお願いしますね」

　当たり障りのない挨拶を交わし、機会があればぜひ領地を直接見に来て欲しいと言うのを、行けたら行くわと言った感じに、のらりくらりと躱す。

　しかし、新年の挨拶をしに来る人が多いので、地味に面倒臭い。割りと適当に返答しながら、去年は色々あったなぁ…と、私はのんびりと過去を振り返るのだった。

　まず武田信玄さんの領地で行われていた奇病の調査だが、水辺にキャリアが潜んでいる可能性が高いことが判明した。

　それでも顕微鏡もない今の時代にウイルスや寄生虫を証明するのは困難であり、さらに詳しい調査が行える状況になるまでは、とにかく住民に危険区域に近寄らないようにと、呼びかけることしかできない。

　そして上洛中の約束もあったので、それを果たすべく、幕府が多額の補助金を出して、埋立及び治水工事が行われた。

　さらに事業計画の一つとして実験的に進めていたブドウ栽培を、本格的に始動することに決定した。

　ワインの生産は手探りながら既に始まっているが、まとまった分量を確保するにはまだまだ時間がかかる。

　もちろんそれ以外の果樹や野菜も育てて、沼や湿地、川から離れた場所に井戸を掘り、そこの水を利用するように徹底する。

　これに関してだが、幕府が各大名の方針に横槍を入れるのはともかく、相談に乗ったり手厚い支援を行うことは過去になかったらしく、今回の対応はとても驚かれた。

　しかし無償というわけではなく、藩に名を変えた各大名の領土から、収入の一部を税金として徴収し、国家予算として預かることとなった。

　これまでは三河と尾張の国庫、または稲荷大明神へのお賽銭で自転車操業をしていたが、来年からは武田さんや各領地への公共事業費はここから出すつもりだ。

　そして外国から取り寄せた作物や家畜の品種改良も、日本の生態系を崩さないように、慎重に進めている。

　もはやこの時代の一般常識や宗教の倫理観など、どこ吹く風であり、小さな氷河期と言えるほど平均気温が低い国内だが、異常気象でも来ない限り、不思議と作物の実り、牛の乳の出や家畜の発育等はとても良かった。

　その件について、何度か徳川さんに尋ねられたことがあるが、自分で制御が可能なのは馬鹿力と狐火だけで、他はさっぱりのポンコツ具合だ。

　なのでもしも稲荷様に関係あるとすれば、私も気づかない能力を、始終垂れ流していることになる。

　と考えたところで、この体に関しては説明書も何もないので、隠された謎パワーが他にない可能性のほうが低いぐらいだ。

　それに、調べる方法が全く思い浮かばないため、取りあえず気にしてもしょうがないと考えて、日々をお気楽に過ごすことに決めたのだった。

　何はともあれ、この時代の人間の常識であった、草食動物さながらの食生活は劇的に改善することとなったのは、素直に嬉しい。

　それに川や海の魚や貝、森や平地の野生動物以外にも、少しずつだが牧場の肉や、養鶏場の卵といった、タンパク質を食べられる人が増えてきた。

　とは言え、まだ庶民に行き渡るには時間がかかるので、品目と食料自給率はじっくり上げていきたい。

　話は変わって日本の子分になった琉球王国のこと。

　私は明から脱却したことを現すために、まるでたった今偶然に思いついたかのように、沖縄と名付けた。

　少々時代を先取りしたような気がするが今さらだし、別にいいだろう。

　南ではなく北の蝦夷には、親善大使が新造船に乗って既に旅立っている。

　今の日本全体を見回すと、小競り合いこそあるが年々減少しており、江戸に幕府を開いてからは、大きな戦は一つも起きていない。

　まさに順風満帆であり、今年の国家予算の分配が終わったら各地に調査員を派遣し、快適生活のためのライフライン構築を急がせるつもりだ。

　今の時代には電気とガスと鉄道はないが、ならば有りものである水と交通と情報を、徹底的に強化するまでだ。

　もちろん電気とガスと鉄道も大切なことに違いないので、実用化の道がどれだけ遠くても、水面下で研究開発を進めてもらう。

　私の現代知識は全国に広まっているのだから、いつの日か成し遂げてくれることだろう。

　そんな去年の出来事を振り返り終わったところで、新年の挨拶も無事に済ませて、宴もたけなわとなった。

　徳川さんから、締めの言葉を頼みますと目線で合図が送られる。

　相変わらず台本をくれないので、私は深呼吸をして気持ちを切り替え、即興で思いついたことを口に出していく。

「皆が協力してくれたおかげで、新年を無事に迎えることができました。

　しかし日本全国の大改革は、まだ始まったばかりです」

　去年は各地の大名が稲荷神の教えを広めて、きちんと成果をあげた。これで私はようやく日本国民に認められたと言える。

　しかし現実には、まだ始まってはいない。むしろようやくスタートラインに立ったところだ。

「海の向こうには朝鮮や明がありますが、それ以外にも百を越える列強国がひしめき合い。

　中にはこの日本を支配しようと、隙を窺っている国もあります」

　私の言葉にどよめきが生まれ、まさか朝鮮が？　いや、明ならありえる。そんなにも多くの国々が？　ならば攻められる前にこちらから…等など本宮の謁見の間は、新年早々に一時騒然とした雰囲気に包まれる。

「私は征夷大将軍に就いていますが、他国に攻め込む気はありません。

　その理由は、日本は海に守られているだけの小国であり、全世界を相手にするのは、龍にネズミが噛みつくような無謀な試みだと、知っているからです」

　逃げ腰の日本のトップに困惑しているのか、ならばこれから自分たちはどう動くのが正解なのかを見極めるため、皆は黙って私の言葉に耳を傾ける。

　今の発言だが、もし征夷大将軍になった徳川さんだったら、その場で馬鹿にされて倒幕待ったなしだろうが、神様である自分は違う。

　去年一年かけて稲荷神の教えを広めて、目に見える効果が出ているのだ。

　今の時代を生きる人々から見れば、それはまさに神の御業であり、私のことを本物の稲荷大明神だと信じてくれているからだ。

「下手に戦を仕掛けて、龍の怒りを買うのは得策ではなく、国民に死地に行けと命令を出すつもりもありません。

　なので内政に力を入れて鎖国政策を行い、友好的に付き合える国を選びます」

　日本だけで勝てないのなら、小国が力を合わせて列強諸国の支配に抗えば、まだワンチャンある。

　だが明の息がかかった東アジア諸国は簡単には協力してくれないだろうし、逆に足元を見られるか、こちらを従属させようとする。

「北海ど…いえ、蝦夷への親善大使の派遣もその一つで、未開拓の国に積極的に使節団を送り、国交を築いて味方を増やすのです」

　そこで私は考えたのだが、かつて近海の島々に日本人入植者を送り込んで、開拓村を築いていたことだ。

　私の拙い現代知識で航海技術も発展しているはずなので、それを使って外に勢力を広げていく。

　と言っても植民地支配ではなく、船舶で未開の地を探して原住民との間に友好関係を築く形だ。

　そのような柔和政策を立案し、うろ覚えではあるが諸外国のガイドブック的な物を配布して、永禄十一年の祝賀会はお開きとなったのだった。

　光陰矢の如しと言うが、永禄十三年が終わって元亀となった。しかしそれも、たった四年という短期間で幕を閉じた。

　何でも足利義輝さんの弟である足利義昭さんが、何を思ったのか朝廷に多額のお金を払って、年号を買ったらしい。

　征夷大将軍に就いて江戸幕府を開いているのは私なのに、何故室町幕府が再建できると思ったのかは、永遠の謎である。

　織田さんが出向いて彼を誠心誠意説得した結果、時間はかかったが元亀は取り下げられた。

　そして足利義昭さんも、征夷大将軍を名乗ったことを今は反省していると謝罪してくれた。

　私としては過去の栄光を追い求める気持ちもわからなくはない。それに相手は元将軍様の親族なので、一度だけ見逃すことにしたのだった。

　天正元年の春、ついに蝦夷と千島列島…だけでなく、何故か樺太までもが日本の一部となった。

　ちなみに植民地化はしておらず、あくまでも友好的なお付き合いを続けた結果である。

　彼らの考えとしては、自分たちの文化は一切捨てずに、稲荷神様の統治の元なら、もっと良い暮らしができる。なので、新しい藩として日本に帰化させて欲しいらしい。

　もうこの際、神様扱いされるのは慣れたし、たまたま精霊信仰との相性が良かったのだと、何となく釈然としないが仕方ないにゃぁ…と、受け入れることに決めた。

　そして私がうっかり言い間違えたことで、蝦夷は北海道に地名変更された。

　アイヌや日本の人たちは旧名でも構わないが、琉球王国より沖縄のほうが知名度が高くなったことから、こっちもすぐに変わりそうだと感じたのだった。

　さらに同年、方位磁石の普及により、海の上でも正確な方角がわかり、これまでよりも大型の新造船で、遠くの島や大陸まで行けるようになった。

　船乗りがかかる特有の病気も、栄養素を崩さずに長期保存が可能な食事を常備することで防ぐことができた。

　結果、これも稲荷大明神様のおかげだと、ますます信仰を広めることとなってしまう。

　そして日本の発展が止まらず、段々と速度を上げている気がした。

　何しろ千歯扱きが普及し始めて一年足らずで、足で踏むと歯の部分が回転する凄い脱穀機が発明されたのだ。

　それら全てに私のおかげだと敬われては堪らないし、あくまでも間接的に関わっただけで、既に日本国民は自分の手を離れている。

　彼らは与えられた知識を生かして、創意工夫で発展させたのだ。なので間違いなく、この時代を生きる人たちの努力あってのことである。

　そこで今日は自分は完全にノータッチであると声高に主張するために、江戸の稲荷大社に偉大な功績をあげた人たちを全国から招いた。

　各藩や民衆が見守る前で、敷地内で特別な式典を開いて大々的に表彰するのだ。

　その際には私が手ずから勲章を授与することとなる。デザインは稲荷大明神の紋様と、小狐がチョコンと座った造形で、鎖は銀、像は金の可愛らしい首飾りだ。

　一流の細工職人が手掛けた匠の技である。

「えー…花子さんは樽型洗濯機を発明し、日本の発展に多大な貢献をしたことを、稲荷大明神がここに讃え、日本勲章と十貫を与えます」

「あっ！　ありがとうございますだ！　代々の家宝にしますだ！」

　身長が足りないので装飾過多の木製踏み台の上に乗り、頭を下げる花子さんに勲章をそっとかける。

　今のペンダントと同じように、日本人はとっくに私の手を離れて独り歩きしている。

　私が教えた現代知識は日本中に広まっているし、あとは私が関わらなくても勝手に芽吹いて花を咲かせてくれるだろう。

　それに洗濯板もとっくの昔に全国に普及しており、今回は樽の形をした手回し型が発明されたのだ。

　そんな彼女に割れんばかりの歓声と拍手が送られて、私はそれを満足そうに見つめてから、ゆっくり踏み台から降りる。

　流れ作業のように、木の台を徳川さんが担いで次の人の足元に静かに降ろした。

「えー…勝さんが指揮する使節団は、蝦夷と濠太剌利亜（オーストラリアと稲荷様が命名）との友好に、多大な貢献をしました。

　稲荷大明神がここに讃え、日本勲章と十貫を与えます」

「ありがたき幸せ！　今後とも稲荷大明神様のために、身を粉にして働く所存でござる！」

　何となく勝という名字に聞き覚えがあるかと思ったが、きっと気のせいだ。

　彼は私がその場のノリで親善大使に指名したときは、まだ元服したての少年だったが、今は海風や異国の風土に揉まれたのか、凛々しい若武者のようだ。

　すっかり背が伸びた勝さんの首に勲章をかけて、月日の流れを感じると共に、自分は一向に成長していないことを改めて自覚する。

（これは早いところ退位して、山奥に引き篭もったほうがいいかも）

　踏み台からよっこらしょっと降りると、徳川さんに次の勲章を渡される。式典が粛々と進む中、自分はこの先どうすべきかとぼんやりと考える。

　日本人は現代になってもやんごとなき方を敬っているが、もし史実通りに列強諸国の侵攻を受けた場合、私はどうなるだろうか。

　自身が平穏無事に暮らせるようにと、外国との戦を回避するために動き、味方を増やしてはいるが、それでも絶対に防げる保証はない。

　特に今は先進国が大航海の末、未開の地に降り立ち、友好的に近づいて情報を引き出した後、原住民や動物たちを殺して植民地にしているのだ。

　そんな極一部が過剰に拡大解釈された、Ｂ級映画のような歴史知識に不安を覚える。

　だがもしそんな輩が、日本を治めている私に目をつけたら…。

（殆ど不老不死で人の言葉を喋る狐っ娘。おまけに未知の知識を持っているんだから、狙われないほうがおかしいよね）

　まだ航海技術も情報伝達も未発達で、遠い日本の様子は他国には噂程度しか伝わっていない。

　しかし世界中で蒸気船が作られるようになれば、黒船が遠方からやって来て、強制的に開国を迫られるかも知れない。

　そして一度でも屈したら、もはや巻き返すのは殆ど不可能であり、あとはズルズルと不平等条約を結ばされる。

　いずれは私は敵国に連れ去られて、実験動物のような酷い扱いを受けるだろう。

（はぁ…江戸時代を平穏に生きて、天寿を全うする夢が潰えちゃったよ）

　徳川さんにバトンタッチするのは一緒だが、隠居した後は三河の稲荷山ではなく、何処か人里離れた場所で誰にも知られることなく、ひっそりと暮らそう。

　数年は山狩りなどでバタバタするだろうが、諦めるまで逃げ隠れれば私の勝ちだ。

　隠れる場所は、まだ開拓があまり進んでいない北海道が良さそうだと、私は退位後の隠遁計画を、こっそりと練るのだった。