宣教師の扱い
年が明けて永禄十年になった。この日のために用意した、五穀豊穣をもたらす現代知識をわかりやすくまとめた書物を、集まった大名や関係者に配布すると、皆は良い笑顔でそれぞれの領地へと帰っていった。
ちなみに現物はどのようなものかと言うと、国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭のセットだった。
余談になるが、これらの書物は後の世に稲荷の書と呼ばれる国宝となり、さらに初等、中等、高等教育の教科原本にもなるのだが、そんなことは筆者である稲荷神には預かり知らぬことであった。
なお、現在の統治システムを崩壊させないために、徳川家康や織田信長、さらに江戸幕府の役人たちが総出で監修を行ったのは、言うまでもない。
それはともかくとして、効果が出るのに時間がかかるものもあるが、既に三河と尾張が全面的に取り入れて、きちんと実績を上げているので信頼度は非常に高い。
なので全国から感謝や相談の文が、江戸の稲荷大社にひっきりなしに届くようになった。
全国のお悩み相談の対応は、稲荷山の学校から連れてきた教師や生徒に任せた。彼らは今後も私の講義を受ける代わりに、現代で言うところの電話対応係に任命したのだ。
送られてくるのは文だが、やっていることはそう変わらないので、似たようなものだろう。
そして江戸の町には現代の木造校舎に近い形で大きな学校が建てられ、今はそっちで新たな生徒に授業を行っている。
三河の稲荷山のほうは学校ではなく研究施設として活動しており、いつか技術大国日本を名乗れるように、ぜひとも頑張ってもらいたいものだ。
江戸幕府を開いた後の正史がどのようになっているのかは殆ど知らない。
そして私の方針を大まかに言えば、知識や物を与えて、正しい使い方を周知徹底させることだ。決して厳しく叱りつけたり、無闇やたらと締めあげたりはしない。
もし名付けるのなら、皆で一緒に幸せになろうよ作戦とでも言うべきだろうか。
この流れを進めることで、最終的にどのような結末に辿り着くかはわからないが、取りあえずは稲荷神様扱いされている自分が統治者である間は、まあ大丈夫だろう。
しかしこれは、徳川さんにバトンタッチした後に不安要素になってしまう。
それでも自分が生きている間なら、稲荷大明神への信仰とワッショイワッショイで、大規模な反乱は抑制されるはずだ。
あとは退位してから亡くなるまでの間に、彼に何とか新しく頑丈な地盤を築いてもらいたいが、もし無理でも次代の征夷大将軍がきっと何とかしてくれる。…はずだ。
しかしまあ、盛大にぶっちゃけると、自分が死んだ後まで面倒を見きれないので、成るように成れである。
ちなみに徳川さんは親戚に三河を任せて、江戸に建てた大名屋敷に引っ越して、私の名代として色んな年中行事に出席したり、政治を取りまとめる代表をやってくれている。
そのうち国内の情勢が落ち着いたら、政治的なパフォーマンスとして、江戸の町の外からでもわかるような、綺羅びやかで大きな城を建てて、そちらに仕事場を移すとか言っていた。
永禄十年の春になった。
自分は京都の朝廷のように、君臨すれども統治せずを貫いている。まあ政治のことがさっぱりわからないのもあるが。
しかしそれでも、徳川さんや幕府の関係者から相談を受けたり、尾張から遊びに来た織田さんと各領地の経営について話し合ったり、基本的な方針は指示するので、完全にノータッチというわけではない。
そんなある日のことだ。
外周に深い堀を巡らせ、広大な森の奥に荘厳な稲荷大社が参拝者を圧倒する。さらに本宮の片隅に小ぢんまりとした家が建てられている。
ついでに自然に囲まれた環境なので、見張りのワンコたちを放し飼いにできるのは本当に助かっている。
それはともかくとして、私はそこに個人的な客を招いて、各地から届くお供え物をおすそ分けしてもてなしていた。
今も昔も、たとえ征夷大将軍となっても、自分はこの姿勢を崩していない。
「稲荷神は異国の宣教師には、どのような対応をするのじゃ?」
織田さんが緑茶に口をつけながら話しかけてくるが、相手の立場と静かな森の奥ということで、ここに来る人とは殆どが密会のような意味合いになる。
ちなみに一般の人は、石畳が敷かれている場所以外は進入禁止にしており、広大な森は全て聖域となっている。
本宮の裏手の小道には見張りが立っていて、通る人を厳しくチェックしているのだ。
そして幕府の関係者以外に通行を許されている私の数少ない友人は、今は座敷の畳の上に腰を下ろし、高級玉露で喉を潤していた。
先程の宣教師をどうするかという質問に、私はうーんと首を傾げて考える。
「誰が何を信じるかは自由です。仏教然り、稲荷神然りです。しかし、一神教ですからね」
「海の向こうからすれば、稲荷神は邪神に見えるであろうな」
「否定はしません」
肌や髪、目の色が違うだけでも差別意識が生まれて、さらにそこに宗教が絡んでくると、ますますややこしくなる。
もし唯一神以外の全てが邪神であるいう教えが日本に広まれば、私など即火あぶりの刑を受けることになるだろう。
特に今の時代は厄介で、宗教が過激なだけではなく、先進国が発展途上国を植民地化している真っ最中だ。
何処がどの国を支配しているかはさっぱり覚えていないが、多分そんな感じだった。
まあとにかく日本も舵取りを誤って失速すれば、隙を突くようにして他国から攻め込まれるかも知れない。
「しかし心配はいらぬ。稲荷神は国教じゃ。異国の神など入る余地はないわ」
「私は稲荷神を国教にしたつもりはないのですが…」
「わざわざ政策として打ち出さずとも、既にそうなっておるぞ」
薄々気づいていたが、稲荷大明神、征夷大将軍、天下統一、五穀豊穣、泰平の世の到来…という、誰もが認める超絶コンボを決めていた。
なのでいくら私が宗教の自由を公言しようと、仏から稲荷神に改宗する者が大勢出てしまう。
さらに民衆は稲荷神こそが国教であると、盛大な勘違いをしてしまうのだ。
だがまあ逆に考えれば、そのおかげで異国の宗教が広まらないので、国内の情勢を混乱させる要因が一つ減って、統治しやすくなる。
それに各地に点在する寺院の抗議活動だが、天下統一後は目に見えて激減した。今の流れに逆らっても身の破滅が待っていると、ようやく理解したのだろう。
そのおかげで、古くて間違った常識を廃して、正しい教えを広めることができた。
そして今の時代を生きる人たちにとっては、何とも意味不明な改革だろうが、推し進めることで明らかに便利で快適、豊かな生活を送ることができるのだ。
結果的にますます稲荷大明神に心酔することになるが、私が退位した後のことを考えると、あまり喜ぶべき流れじゃないなぁ…と、と大きく溜息を吐く。
思考の海から戻ってくると、先程入れた玉露が自分の表情と同じで渋く感じてしまったので、気持ちを切り替えるために、さっきの織田さんの質問に答えていく。
「外国との兼ね合いもありますし、宣教師を弾圧する気は一切ないです」
「…であるか」
「ですが国内情勢が安定するまでは、外からの干渉は邪魔です。
しばらくは内政に専念したいので、鎖国するのも良いかも知れませんね」
まずは国民全ての衣食住を保証して、毎日を安心して暮らせる世の中の仕組みを作るのが先決だ。
地盤が固まる前に外からちょっかいを出されたり、稲荷神の教えに反対する勢力でも現れたら、私の退位が遠ざかるではないか。
「早めに天下泰平の世を築いて、征夷大将軍を退位したいですね」
「稲荷神よ。それは冗談ではなく本気じゃったのか?」
「私はいついかなる時も本気であり、嘘はつきません。織田さんもよくご存知でしょう?」
玉露を一気に飲み干しながら、織田さんに堂々と宣言すると、彼を目を白黒させて、すぐに私を憐れむような視線を向ける。
「儂は応援しよう。じゃがまあ、もし退位できずとも、…気を落とすでないぞ」
「何を言ってるんですか! 織田さん! 私は絶対に退位しますからね!」
「…であるか」
影のように目立たないように付き従っていた織田さんの部下までが、何故か可哀想な子を見るような視線を私に向けてきた。
大体今の日本は、戦国時代とは比べ物にならないほど情勢が安定している。
ならばこのまま地盤を固めていけば、そう遠くないうちに退位できる。…そのはずなのだ。
若干ヤケになっている私は、民衆が稲荷煎餅と名付ける直前に草加煎餅にしましょうと強弁し、名義変更したお茶菓子を手に取る。
なお煎餅屋には稲荷神様も大絶賛のノボリが、可愛らしいイラスト付きで立ち並んだが、自分の名前が商品名になるよりはマシだ。
それはともかく、私は不機嫌を隠さずに草加煎餅を二枚同時に小さな口に突っ込むと、勢い良くボリボリ噛み砕いてストレス発散をするのだった。
永禄十年の秋のこと。
私が推し進めた鎖国政策により、貿易を行うのは朝鮮と明とオランダ。そして勝手に子分になった琉球王国のみとなった。
将来沖縄になる島が何故今日本の領土になったのかは本当に謎であり、貴方は明の属国じゃなかったの? …と、頭の中は疑問符だらけだった。
そもそも本来の正史でさえうろ覚えなので、沖縄はいつ日本の領土になるんだろう? …と、そんな緩い感じである。
しかしまあ、今現在拒否する理由はないので、取りあえずは受け入れて、問題が起きたら即切り離すことに決める。
現代のあの島もダブルスタンダードなので、多方面に媚びを売らないと、小さな島は生き残れない。
ならば今一番勢いのある日本に、仲間に入れてよとすり寄ってくるのも、ある種の処世術と言える。
多分九州の何処かで稲荷神の噂でも聞いたのだろうが、日本に組み込まれてからも、相変わらず明との貿易は気にすることなく続けているので、商魂たくましいことこの上ない。
ちなみにサトウキビはまだ伝わっていないらしく、私は床板を踏み抜かないように加減して、器用に地団駄を踏む。
それでもきっと近くにあるだろうから、早急に探して取り寄せて栽培を行うようにと、鼻息荒く命令を出すこととなった。
前々から研究開発していたサトウダイコンの栽培は始まっているが、やはり現代日本のお砂糖は、サトウキビのイメージが強いのだ。
江戸が発祥の地になってしまったが薩摩芋(稲荷神命名)を、石焼にして美味しくいただきながら、早く砂糖たっぷりなお菓子が食べたいな…と、期待に胸を膨らませるのだった。
琉球王国が勝手に子分になってから一ヶ月が過ぎたある日のこと。生徒たちを集めて、日本の地理についての講義をしていたとき、南は沖縄ならば、北は北海道があったことを、唐突に思い出した。
「北海道…いいえ、蝦夷と千島列島を手に入れないといけませんね」
「稲荷様、蝦夷とは北の果てのことでございますか?」
生徒の一人が私に質問したので、頭の中で整理したものを順番に口に出していく。
「その通りです。これから冬なので移動は難しいですが、ぜひアイヌとの間に国交を開いて、日本の一部になってもらいたいですね」
勝手にすり寄ってきた琉球王国はまだしも、アイヌ民族はそこまで大きく門戸を開いてないし、そこまで事が上手くいくとは思っていない。
しかし未来の日本を知っている身としては、ここで多少の無理をしても北海道、あわよくば千島列島まで、ガッチリ押さえておくべきだと強弁する。
でないと最悪、列強諸国に負けて日本が植民地支配されてしまう。…かも知れないのだ。
既に歴史の歯車は大きく狂っており、この先どのように道を辿るのかが、まるで予想がつかない。
しかしもし、天寿を全うする前に外国との間に一悶着が起きれば、私の楽隠居生活が崩れてしまうのは確実だ。
それに日本の安定と国力を高めてこそ、天下泰平は築かれるのだから、これは何としても蝦夷を開拓して、大規模農業で食料自給率の底上げを図るべきだろう。
「原住民との争いは回避して、従属…いいえ、同族となって欲しいですね」
「でしたら稲荷様、狼を使いに出しましょう。
彼らは動物を神として崇めていると聞きます」
生徒の一人に蝦夷に詳しい人が居たので尋ねると、アイヌでは精霊信仰が盛んであり、動物には神様が宿っているので、大切に敬っているらしい。
なのでうちのワンコたちを稲荷大明神の使いとして、交渉の一助として連れて行けば、初顔合わせはバッチリということだ。
「良い案ですね。では貴方を、アイヌ民族との交渉役として抜擢します」
「ええっ! 自分でござるか!?」
生徒が大いに驚くが、こういうのは適材適所だ。地位だけあって現場を知らない人物を任命すると、大抵の場合はろくなことにならない。
「貴方は他の者よりも蝦夷に詳しいのでしょう?」
「たっ…確かにそうです! わかり申した!
稲荷様から承ったお役目! 謹んでお受け致す!」
よろしく頼みましたよ…と、生徒の一人にお願いする。その間にも私は頭の中で、アイヌの人が喜びそうなお土産を考える。
しかし本土とはタイプの異なる民族ということで、良い案が浮かばず、いつものように全面的にお任せすることになった。
だが交渉役がお近づきの印として用意した、可愛らしい木彫りの稲荷像がアイヌ民族にバカウケした。
さらに躾が行き届いて賢い狼たちの活躍もあり、交渉はすんなりまとまった。
結果的に出会ったその日に意気投合して、あれよあれよと通商同盟が締結された。
さらには数年後には蝦夷だけでなく千島列島までも、日本に帰化することになるのだった。




