三十八話 ゴローニン事件(1) 自衛隊
三十八話 ゴローニン事件の最中となります。ご了承ください。
<自衛官>
文化五年の八月になり、イギリス船フェートン号が長崎に来航した。
それだけならば、何も問題はなかった。
だが実際にはオランダ国籍と偽って入港した。
それだけではなく、オランダ商館の職員二名を人質として拉致したのだ。
さらには駄目押しとばかりに他のオランダ船を求めて、長崎港内を探し回る有様であった。
このような事態は、現場の職員にとっても想定の範囲外なのは明らかなため、最近開発した通信手段を使用して、遥か遠くの江戸幕府の指示を仰いだ。
黒電話という文明の利器が実用化されたことで、時間を置かずに高速でのやり取りが可能になったのは、大変ありがたかったのだった。
長崎港にもっとも近い位置にある自衛隊駐屯地。
その総司令部内の黒電話を囲むように、厳しい抽選を勝ち抜いた隊員たちが大集合していた。
彼らは自分と同じく屈強な男共が、息を潜めて様子を窺っている。
音量を最大にしているので、駐屯地の総司令と電話の向こうのやんごとなきお方のそのやり取りが、はっきりと聞こえてきた。
短めのやり取りを何度か繰り返して、結論が出たらしい。
日本の最高統治者である稲荷神様から、何と我々に直々の命令が下った。
「犯人の要求を飲む必要はありません。人質救出を最優先にして、船を制圧してください」
「了解致しました! 人質救出を最優先として! 船を制圧致します!」
総司令官が電話越しに敬礼したので、室内に居る者たちも皆ビシッと姿勢を正す。
箸の上げ下ろしから礼儀作法まで、厳しい訓練で徹底的に矯正されたので、このぐらいチョロいものだ。
そして最近は彼女のお姿を写した絵や彫像が至る所にあるので、大人から子供まで誰でも知っているほど有名な御方だった。
しかし地方民にとっては、お声を聞くのは初めてな者も多い。
当人は威厳たっぷりに堂々と話しているつもりでも、そのお声は幼子にしか聞こえず、大変可愛らしかった。
もっとはっきり言えば、聞いている者は男女関係なく脳が蕩けて鼻の下が伸び、色んな意味で駄目になってしまいそうだった。
それはともかく総司令官が電話を切ったのを確認して、俺たちはようやく肩の力を抜いて、一息つけた。
ちなみに我々は直接命令をいただく権利を得るために、厳しい抽選を勝ち抜いた精鋭である。
なので嬉しすぎて感極まり号泣したり、恍惚のあまり果てても問題ないように、何枚もお手拭きを持参したり、中には紙オムツを着用してきた者も居るという、気合の入れようであった。
一見すると頭がおかしいと思うかも知れないが、そもそも自衛隊は稲荷神様直轄の軍隊だ。
建前こそ日本や国民の守護を謳っているが、実際には彼女のために力を振るうのを最大の誉れに感じている。
戦乱の世をたったの数年で終わらせ、数多の国民を救い出して五穀豊穣をもたらし、神の御業を再現可能な技術に落とし込み、諸外国や災害などの脅威に一歩も怯まず先頭に立って立ち向かう。
そんな今なお日本を大躍進させ続けている、最高統治者の稲荷神様である。
この国に生きる者が一生をかけても、到底返しきれない恩が積み重なっているのは明らかだった。
自衛隊員たちは生殺与奪を握られており、平和のために犠牲になってくださいと言われれば、待ってましたとばかりに喜んで従うつもりだ。
お国のためではなく、稲荷神様のために果てる名誉は誰にも渡すつもりはなかった。
狐色に染まっていない者から見れば、狂信者と呼ばれてもおかしくない者がひしめき合っている。
それが、自衛隊と呼ばれる軍事組織であった。
なので今回のように少しぐらい無茶振りされても、稲荷神様の命令ならば喜んで遂行する。
しかし電話を切る直前に言い忘れていたのか、絶対に死なないでくださいとも告げられた。
本当に無理難題にも程があるが、総司令官どころか室内に居る者に悲壮感はなかった。
「稲荷神様も、無茶を仰られる」
「では、任務遂行を諦めるのですか?」
副官がわかりきった質問をする。
それを聞いた最高司令官は、執務机を右手でドンと叩き、ニヤリと挑発的な笑みを浮かべて答えを返した。
「諦めるはずなかろう! 任務達成により、稲荷神様にとっての英雄になれるのだぞ!
これほどの名誉を得られる機会! 他の部隊に渡すなど、断じてありえんわ!」
命がけの任務に成功すれば、稲荷神様の覚えもめでたく、我々に直接労いの言葉をかけてくれるだろう。
他の日本国民に比べて、頭一つ以上抜きん出た地位となる。
当然歴史にも刻まれるので、自衛隊としても日本国民としても大変名誉なことであった。
だがここで、副司令として言わなければならないことがあったらしく、次の発言を行う。
「人質の救出ですが、これは達成は容易でしょう。
しかし問題は、こちらの犠牲を如何に抑えるかです」
相手側の戦力が予想通りならば、自衛隊が負ける要素はない。
だが戦場では、何が起きるかわからないものだ。
敵の思わぬ抵抗で流れ弾が運悪く急所に当たり、死傷者が出ないとも限らない。
「僅かでも負傷した者は、即戦線離脱だ! 儂の指揮で死者など出すものか!」
「ははっ、ごもっともですね。
私たちは後方で指揮を執るので、お褒めの言葉を確実にいただける場所に居て良かったです」
昔はともかく、今は医学が発達している。
速やかに治療を施せば致命傷でない限り、死亡率はかなり低い。
だが僅かな怪我でも負えば、万全とは言い辛くなるため、致命的な失敗をする前に、速やかに軍医の元まで下がらせたほうがいい。
後方待機である司令官たちの言うことは理に適っているが、実際に救出任務を遂行する我々としては納得はできなかった。
「司令官殿! 僅かな怪我で戦線離脱はやり過ぎではありませんか!」
「やり過ぎだと? お前たちが負傷しなければ済む話だろうが!」
確かに負傷を避けるのは当然だ。
しかし、たとえ偶然流れ弾が掠っただけでも、たった一度の失敗で退場では割りに合わない。
今回は実行する前から戦力差は歴然であり、作戦の成功はほぼ間違いない。
おかげで指示するだけの司令官と副司令は気楽な立場だが。人質の奪還と敵の無力化に当たる下っ端としては、ぶっちゃけ死にはしないが生きた心地がしなかった。
「しっ、しかし! もし流れ弾が掠ったら──」
「たとえ怪我の療養のために授与式に参加できずとも、名誉の負傷である!」
血も涙もなかった。
だが既に命令は下されて、具体的な離脱条件も決められてしまった以上、司令官の指示には従うしかない。
「代わりに儂が、稲荷神様からのお褒めの言葉を伝えに行ってやる!
だから安心して、軍病院で療養しておけ!」
俺たちが悪態をついている間に、副司令が作戦原案を提出したことで、いよいよ時間がなくなった。
さらにはこれ以上文句を言うなら、一番の名誉で花形任務だがその分危険も多い突入部隊から外すと、堂々と宣告されてしまう。
そのせいで慌てて司令室の外に飛び出して、各々が急いで作戦準備を開始するのだった。
結果を言えば、作戦は成功して味方に目立った負傷はなし、人質も無事に救出できた。
さらには稲荷神様から、直接お褒めの言葉もいただけた。
特に活躍した者には表彰状や勲章も授与されたので、俺としては願ったり叶ったりだった。
それに最近実用化されたカラー写真での撮影会にも応じてくれた。
最高統治者と神様でありながらも、何とも気さくな対応に自衛隊員は皆心身共に癒やされる。
わざわざプロの写真家を呼んで特別に撮影された多くの写真を、代々の家宝にするのは確定であった。
そして何故か、事件を起こした張本人であるイギリスの好感度が上がった。
今回は稲荷神様の文通相手である王室の預かり知らぬ事件だったので、彼らから謝罪とお詫びを受け取った。
本来なら船員は皆殺し、船は轟沈させられてもおかしくない。
だが稲荷神様は全員を拘束した後、きちんと本国との交渉を得て、最終的には賠償金と交換で生かして帰国させた。
諸外国が植民地支配に熱心なご時世には珍しく、極めて紳士的な対応であった。
稲荷神様が高く評価されるのは日本国民としては嬉しい。
だがこの事件の後で、イギリスが神皇様を見る目が少々怪しくなってきた。
しかも秘密裏にうちの諜報部と接触し、稲荷神様のことは他国に秘密にするけどいいよね? と、本人には知らせずに江戸幕府と秘密裏に協定を結んだらしい。
なお実際には向こうが一方的に実行していることに、正式な許可を求めただけだった。
こっちとしては煩いハエをいちいち駆除するのも面倒なので、手間が減るのは良いことだ。
特に最近の外国の動きは、きな臭く感じる。
稲荷神様のおかげで天下泰平の世が百年以上も続いているが、そんな平穏を脅かす何かが起ころうとしているかも知れない。
だがまあ少なくとも、自分が生きているうちは大丈夫だろう。
それでもあの御方が、再び日本の最高統治者として手腕を振るい、歴史の表舞台に登場する時が、刻一刻と近づいているように感じたのだった。




