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稲荷様は平穏に暮らしたい  作者: 茶トラの猫
江戸時代 番外編
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三十四話 生きている化石(3) 書物

 目的地の狐の穴を目指す私だったが、その道中に長い煙突と湯のマークか目印の大衆浴場が目に入った。


 元々は私が提案したものの一つで、民衆の衛生環境を整えるための施設だ。


 そして当初の運営は江戸幕府、もしくは各藩の公共事業だった。

 しかしすぐに、二匹目のドジョウ……ではなく、新規参入が相次いだ。


 採算が取れるかは別として、この時代の風呂の造りは単純だ。

 職人の腕で差は出るが真似は容易だし、個人宅への設置も可能である。




 なお私の家にも檜風呂がある。

 最初は聖域の森の奥に豪邸を建てたり、近衛やお世話係も二十四時間体制でスタンバらせる計画だったので、大浴場となるはずであったが、民衆の善意の無駄遣いだと私が大反対した。


 その結果、家も風呂も庶民宅と同程度に小さくなり、毎日の炊事洗濯掃除もやりやすくなった。

 中身が平民で元女子高生なので、個人的にはとても落ち着く空間だ。




 とにかくそういった様々な事情があって、お風呂業界は個人宅に進出するほど活性化し、もう親方日の丸でなくてもやっていけると判断した。


 なので現在は稲荷の湯から銭湯に改名して無料ではなくし、少額の銭を支払うように一部を除いて民営化してしている。




 そのうちイナリ運輸と国鉄……稲荷神有鉄道と呼ばれているが、そちらも全部民間に委託することになる。


 だが、今はまだ鉄道網を広げている最中で問題も山積みだ。

 少なくとも日本の主要都市全てと繋がるまでは、うちで管理して経営の地盤を築く必要があるだろう。




 だが今はそんなことより、目の前にある銭湯のほうが気になった。


 ひとっ風呂浴びるために、暖簾のれんの向こうに大勢の人が入っていく。

 出てくる人も、皆スッキリした表情をしているので、商売繁盛は良いことである。


 ふと足を止めた私に、お世話係が少しだけ顔を近づけて、小声で話しかけてくる。


「銭湯に入られるのですか?」


 我が家の小さな檜風呂でもいいが、たまには広々としたお風呂に浸かるのもいい。

 かなり昔になるが、稲荷山でゆったりと温泉に浸かっていたことを思い出して、汚れても疲れてもいないが命の洗濯をしたくなってきた。



 私は立ち止まって少し考えたが、やがて結論が出て小さく首を振った。


「いえ、止めましょう。銭湯に入浴しては正体がバレてしまいます」

「そっ、そうですね」


 何かを言いたそうにしているお世話係と近衛だったが、結局その口が開かれることはなかった。


 その後の私は名残惜しそうに目の前の銭湯から視線を外して、狐の穴を目指して再び歩き出したのだった。







 目的地である大型書店の狐の穴は、様々な書物を取り揃えている。


 古書から最新の書籍まで、町一番の品揃えと言われており、立地も江戸の中心近くで大通りに面している。

 そんな一等地なので、開店したら閉店時間になるまで客足が途切れることはない。




 これを後押ししたのは、版画にヒントを得たのか、木製の活版印刷が発明されたことだ。

 おかげで書籍の大量生産が可能になり、庶民でも何とか手が届く価格まで抑えられることになった。


 さらにミミズがのたくったような難解な文字ではなく、未来で使われる私が慣れ親しんだひらがなと漢字が、標準語として浸透している。


 日本は西洋と違って文字の種類が多いので、実現に至るまでには職人の並々ならぬ努力や苦労があったと、否応なしに察せられるのだった。







 一方、私たちは江戸の町で一番大きな書店である狐の穴の暖簾を、他の客に紛れて潜っていた。


 店内に入って周りを見回すと、広々とした家屋に高めの棚が規則正しく並べられていた。

 そこには多種多様な書物が取り揃えられているのがわかる。


 自分たち以外の客は、直接本を手に取って、中身を確認しているのが目に入る。未来でもよく見かける立ち読みかも知れないが、別に注意する気はないし目立つのは嫌なのでスルー安定である。




 それはとにかく、本日ここに来た目的を果たすべく、私は広々とした店の中をキョロキョロと見回していた。

 取りあえず自分が登場するエッチな本を、万が一の事態に備えるためにも入手しなければならない。




 たとえ一冊だけでもいいので購入して、稲荷大社に帰れば外出中にやるべきことは片付くのだ。


「んっ……あれは?」


 店内の中央付近に視線を向けた私は、一枚の木の板が立てかけられていることに気づく。


 それはちょうど自分の身長と寸分違わず、……と言うか、巫女服を着た狐っ娘の絵なので私のように見えてしまう。


 造形にも拘っているようで、描かれているイラストの体格やら目鼻立ちも、まるで鏡に写った自身を眺めているようだ。




 だがまあ、こういうのが存在することは予想済みだ。

 それでも偽物を飾るのではなく、古来のお稲荷様像にすれば良いのにと思わなくもなかった。


 何しろ江戸時代になってからは、私のほうが人気はうなぎ登りの反面、本家の知名度は下がる一方なのだ。

 しかし昔と比べれば元ネタ的な存在として崇められているので、総合的には上がっているかも知れない。


 何となく微妙な判定かもと迷っていると、私はあることに気づいた。


「髪と目の色は銀なんですね」


 真っ直ぐ近づいてよく観察すると、髪と目の色は全然違っていた。

 そして胸が自分よりも大きめであり、低身長の割には豊かな膨らみに、名札が描かれていた。


「なるほど、狐の穴のマスコッ……象徴。ギンコちゃんですか」


 マスコットキャラと口に出しそうになったが、慌てて言い換える。


 英語も教えているが、鎖国中は外国の人と話す機会は早々ない。

 普段の生活で使うのは、私が日本語化が難しいと思った横文字ぐらいだ。


 そして蟲が出てくるお話に登場する人と同じ名前でも、江戸時代にはまだ生まれてないから問題はないだろうと、誰が聞いているわけでもないのに小さくヨシと頷く。


「あっ、よく見たらマスコットキャラと書いてありましたね」


 名札の上部には、狐の穴のマスコットキャラクターのギンコちゃんです。可愛がってあげてくださいと書かれていた。

 これだけでもう、本来の歴史が捻じ曲がっているのだと、容易に察してしまう。


(今も外から石焼き芋の呼び声が聞こえてきてるし、改めて考えると遠くに来たなぁ)


 冬の石焼き芋は格別美味しいため、絶対買って帰ろうと心に決める。


 なお薩摩芋自体は、江戸時代には伝わっていたそうだ。

 しかし窯で熱した石で焼く芋が広まったのは、昭和に入ってからな気がする。


 それも諸説あるだろうが、私のせいで色々時代を先取りしているのは間違いない。


 特に食糧や環境、衛生事情は、本来の歴史よりも大幅に改善したはずだ。

 目的は自分が美味しい物を食べたいからだが、それで皆が幸せになれるなら何も問題はない。




 江戸幕府を開いてから色々あったなと黄昏れていると、お世話係が目の前に置かれた木板のギンコちゃんと私を見比べて、何かを察した。


 そして彼女は、痛ましい表情で小声で話しかけてくる。


「どうか気を落とさないでください」

「えっ? 何のことです?」


 正直お世話係が何を言っているのか、今いちわからなかったので、彼女の視線を追ってみると、それは私の胸に集中していた。


「別に気にしていませんよ」

「そっ、そうですか」


 にっこりと微笑んで返答すると、お世話係は若干引きつった表情で視線をそらす。


 本当に気にしていない。毎日牛乳を飲むのは人間だった頃と同じで、健康に気を使った習慣だからだし、柔軟体操も狐っ娘の体では意味はないかも知れないが、何だかやらないと何となく落ち着かない。


 ぶっちゃけ無駄な努力だろうが、もし望みが叶うなら、普通の人間のように成長し、月日を重ね、そして死にたかった。

 だがそれが、もはや不可能なのはわかっている。


 私は大きく溜息を吐いて、少しだけ顔を俯かせる。


「あー、日本永代蔵にっぽんえいたいぐらが売られていますね」


 大型書店の一番目立つ正面のコーナーに、知っている本が山積みにされていた。


 私はそれを無造作に手に取る。

 ついでにすぐ近くの棚には、稲荷神公記が並んでいて、超ロングセラーと宣伝までされていた。

 確か今は何代目かの作家さんが執筆を行っており、百巻を越えてもまだ続いているらしい。




 まあそれは取りあえず置いておき、日本永代蔵にっぽんえいたいぐらをパラパラとめくって中身を拝見する。

 どうやら江戸の経済を扱った小説で間違いないと小さく頷く。


 なお、こちらは既にお供え物としていただき、正倉院行きになっている。


 きっと遠い未来では、当時を知るための貴重な歴史的資料になることだろう。

 災害や戦争で、各家庭や出版社で保管したものが紛失しなければいいが、それは神のみぞ知るであるため、今考えても意味がない。




 なお、すぐ隣に稲荷神のR18本が置かれていたので、これで目的達成かなと日本永代蔵にっぽんえいたいぐらを元の場所に戻して、そちらに手を伸ばす。


 だがここで私は、重大な見落としをしていることに気づく。


「私を題材にした卑猥な書物。少し多すぎませんか?」

「普通だと思いますが?」


 全国から送られてくる書物が何冊あったのかは数えてないし、何が書かれているかも流し読みなので、詳しくは知らない。


 だが今も書店の一番目立つ棚に縦積みされた本は、半分近くが私を題材にしたものだ。

 R18関連の書物を買おうにも、一体どれを手に取って社会勉強したものかと迷ってしまうほどだ。




 ぶっちゃけ自分が題材のエロ本なんて何冊も読みたくないので、一冊読んで終わりにしたい。


 そんな時に近くを通りかかった店員らしき男性が、小さく咳払いをして優しく声をかけてきた。


「コホン! 何かお困りでしょうか。お客様」

「えっ? あっ、稲荷様と、その……交わる本を、購入しようと考えているのですが──」


 ついいつも通りに思ったことをそのまま口に出してしまった私だが、今のは明らかに問題発言ではなかろうか。


 だが江戸時代は性行為に対しての基準が緩いので、見た目小さい子供が口走ったり、読んだりしても大丈夫だと信じたい。

 エッチな本は上下に別の書籍を重ねて、近衛かお世話係に購入してもらう計画だったのに、それが早くも頓挫してしまった。




 なお店員さんは、内心で思いっきり動揺する私を見ても、特に気にすることなかった。

 それどころか、彼は山積みにされた本に手を伸ばして、そのうちの一冊を掴んでこちらに見せる。


「お客様には、こちらがお勧めかと」

「どんな内容なのですか?」

「正体を隠して江戸の町人と交流する稲荷様に恋する、一人の若者の物語です」


 それを聞いて私は、なるほどと思った。

 つまりローマで休日を過ごす映画のような感じだろうか。R18成分は控えめなので、自分のような初心者にも読みやすそうだ。


 これを読んで勉強すれば、万が一の備えもバッチリである。


 私が買いますと口を開こうとすると、お世話係が一冊の本を指差して。待ったをかける。


「私としてはこちらが良いと思いますよ」

「そちらは?」

「稲荷神様にお仕えするお供の者の、深まる絆を書いた小説でございます」


 お世話係が勧めるということは、これもR18関連なのだろう。

 お供が彼か彼女のどちらを指すかわからないが、後学のためにも一冊買っておくのも悪くない。


 私が購入を決めた時に近衛も手を上げたことで、もはや聞くまでもないと判断し、彼の勧める書物を無言で手に取り、直接会計に持っていったのだった。







 後日談となるが、合計三冊の私が畫かれた書物を購入してもらい、聖域の森の奥の自宅に帰ってじっくり読み進めて社会勉強を行った。


 その感想としては、何か色々と強烈過ぎた。

 私への過大評価は当然として、やけに性技に通じていたり、または初心だったりと、書物ごとに様々な解釈がある。


 だがまあ何にせよ、どの作者も各々が理想の私を追い求めている。

 そんな心境が、作品を読んで嫌というほど伝わってきた。悪いことではないが、過大評価過ぎてやっぱり辛い。


 何とか三冊を読み終わった後は、家の奥に仕舞い込んで厳重に封をする。

 きっともう、ツッコまれた時に咄嗟に思い出すだけで、二度と開くことはないだろう。


 とにかく今はちょっと変な気持ちを切り替えるために晩の食事を作ろうと、早足で台所に向かうのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] この世界に光圀公がいないとしたら大日本史が書かれない? いやまあアレ百害と一理ぐらいの割合だからなくてもいいか
[一言] 大丈夫ですお稲荷様、ひんぬーはステータスなんです! 奨める本に欲望が見えかくれして・・・お付きの方、もう少し欲望を抑えて下さい!
[一言] 銭湯に行かなくてよかったネ きっと(稲荷様ガン見)戦闘になってたヨ(笑)
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