二十二話 幕府を開く(18) 板海苔
結局紙漉き職人との交渉は、上手くいかなかった。
ならば次だと気落ちする暇もなく、あらかじめ役人が話を通しておいた、港町の紙業界では一番貧乏な零細個人事業主に声をかける。
その職人の家は最大手と比べれば小ぢんまりしており、町の外れにポツンと建てられていた。
何だか少し寂しい気がするが、私的には楽隠居した後はこういう場所や家で、一人静かに住みたいので、とても憧れる。
ちなみに零細紙漉き職人の略歴を簡単に説明すると、例の港町一番の工房の親方の利益最優先主義に反発して、首になった。
それでも諦めきれずに奥さんに資金援助してもらい、ここ最近になって独立起業したらしい。
だが残念ながら工房と道具一式を揃えた辺りで銭が尽きてしまい、資源は品薄で値段が高騰している。
何より喧嘩別れした親方が港町の紙業界を牛耳っているので、資材も仕事も入る前に潰される有様であった。
なのでこれからどうしたものかと進退窮まり頭を悩ませていた時に、私が尋ねてきたということらしい。
傷みで隙間風が吹き込む小さな工房の中に通されたので、若い夫婦を前に畳の上に座って真面目にお話をする。今度は大丈夫と信じたいところだ。
三度目は嫌なので、二回目だけで成功して欲しい。
「板海苔ですか?」
「そうです。理論上は紙と同じ工程を踏めば実現可能なはずです。」
親方には食材としか言っていなかったが、板海苔という名前まで出した。
直感だが彼ならやってくれると確信したので、ここぞとばかりにグイグイ説明をする。
「良いですよ。うちは仕事を選べる立場ではありません。
それに稲荷神様に言われた通りに板海苔を作れば、多少なりとも銭をくれるのでしょう?」
若い職人の期待するような表情に、私はしまったと言葉を詰まらせる。思えば自分は無一文で、遠出の費用も全て松平さん持ちである。
最初の目的は北条さんの引越し前のご挨拶と、難民の救済だ。そして用が終われば、すぐに帰るはずだった。
しかし実際には期間延長しただけでなく、武田さんの領地に寄り道して、次は今川さんのホームで豪遊しているときたものだ。
奇病の解決は日本のためになると自信を持って言えるが、板海苔うんぬんについては完全に私のわがままだ。
果たしてそんな俗物的な理由で、松平さんに投資してくださいとお願いして良いものかどうか。
私は深く考えるフリをしながら口元に手を当てて、横目で案内役に視線を送る。
そして、板海苔の産業は今川さんの領地が発祥になるので、出資してくれませんか? と、小声で伝えた。
「主君である今川氏真様の代理として、そなたらを雇い入れよう! 何も心配には及ばん!」
彼は咳払いを一つした後に、堂々と告げたことで、若夫婦はお互いに仲良く両手を握り、仕事が貰えるよ。やったね! と言わんばかりに喜んだ。
「おおっ! 今川様のお墨付きでございますか! ならば安心ですし、ありがたき幸せで存じます!」
多分これで板海苔事業発祥の地として今川さんの手柄になるが、私は別に構わない。
今はとにかく、松平さんに迷惑をかけずに済んで、内心でガッツポーズを取るのだった。
今川さんが板海苔事業に出資する契約を交わしてから、紙漉き職人の若夫婦は俄然やる気になった。
お殿様もきっと、これから今川領の産業として盛り立てていくつもりなのだろう。
だからこそ私は、いくつもの契約書にサインするハメになった。
三河に居るときにはなかったことだが、それだけ今川さんも本気ということだ。
これで苦境に立たされていた若夫婦が元気が出るなら、まあいいかと前向きに考えるのであった。
契約を交わして数日が経過した今の私が何をしているのかと言うと、板海苔の試行錯誤である。
別に難しいことはなく、生海苔を紙漉きで薄く伸ばしたあと、日向に干して乾燥させる。それだけである。
はっきり言って近い将来誰かが思いついてもおかしくなく、真似るのも容易だ。
しかし今は生海苔自体の数が少なく、もっぱら朝廷や大名への献上品となっている。
天然物に頼り切っているのは大量生産は厳しく、言っては悪いが零細の工房で少量ずつ実験するほうが理に適っていた。
そういう面でも大手を断って正解であった。
そして、今川さんに出資してもらうためには、とにかく早期に成果を出さなければいけない。
なので本来は日光に当てて乾かすのだが、少しでも時間を短縮するために狐火で炙り、板海苔を強引に完成させた。
藁や薪が調達できればいいのだが、現状では厳しいので苦肉の策である。
とにかく一応試食をしたので大丈夫だと思うが、念の為に料理レシピ付きで案内役に渡す。
そして彼に今川氏真さんに届けるようにと伝えて、数日が経過したのであった。
お弟子さんを雇う余裕がない夫婦共働きの小さな工房では、今は私やお供の者たちが弟子の代わりになり、無賃金労働をしていた。
ちなみに今日は天気が良いので、板海苔を工房の外に置かれた木枠の棚に、一枚ずつ丁寧に干していた。
「与作はー、へいへいほー」
何処で聞いたかも覚えていない謎の歌を口ずさみながら、桜さんや花子さん、桔梗ちゃんも交えて労働の汗を流す。
すると今川さんの元までお使いに出した案内役が戻ってきた。
彼は無言でこちらに近づいてくると、何だか申し訳なさそう表情で話しかけてきた。
「稲荷神様、海苔の養殖についてお聞きしたいのですが」
「そのお話は、なかったことになったのでは?」
私は磯の匂いが強い生海苔を木枠の棚に干す作業をお世話係たちに任せて、取りあえず彼の話を真面目に聞くことにした。
「今川様がおにぎりに板海苔を巻いて食べるのを、大層気に入られまして」
「美味しいですものね。海苔巻おにぎり」
「……はい」
案内役の人も炙り板海苔を、味見と称しておにぎりに巻いて食べたことがあるので、これまでとは大違いだと実感しているようだ。
そして今川さんには試作の板海苔と、それを使ったレシピも送っておいた。
海苔の文化がまた一ページ、日本の歴史に刻まれたのである。
歴史書には、初めて板海苔を食べたのは今川氏真であるとか、捏造されそうな気配がある。
だがそんな歴史家たちの議論など知ったこっちゃない。今は海苔の養殖についての話を進めるのが肝心だ。
「しかし、海苔の養殖ですか」
「何とかなりませぬか?」
私が一度は水に流した話を蒸し返すとは、きっと向こうも無茶振りされた手前、相当焦っているのだろう。
だがまあ海産物の減少を抑えるためにも養殖は望むところだし、未来のように海苔が気軽に食べられるようになるのは良いことだ。
「私の教え通りに行えば、自然の海苔を回収するよりも効率が上がります」
「おおっ! では!」
「しかし、失敗する可能性もあります」
最初から全てが上手くいくはずがない。
同じような人工栽培である、茸の菌床栽培も手間ひまかけた割には、一つの箱から多くて十本に届かない。
未来の日本では不作にもほどがある。
それでも、茸栽培に関わった職人たちは大成功だと喜んでくれた。
だが気を使ってくれているのはバレバレで、次回はもっと沢山収穫できるように頑張りましょうと声をかけるのが精一杯であった。
つまり海苔の養殖も、最初は失敗する可能性が高いのだ。
そして最近は板海苔の試食に忙しいので、一時のように食欲に惑わされることはない。
なのでここは、極めて中立的な立場として忠告しておく。
「海苔に詳しい方と相談しながら行えば、天然物の採取よりは効率は高いでしょう」
テレビのニュースや海の見える場所に旅行に行った時にしか、本場の海苔農家のことは知らない。
つまり素人目に見て、何か網を海に浮かせて海苔がびっしりついている光景しか、はっきりとは印象に残っていないのだ。
「では、稲荷神様! よろしくお願い致します!」
「微力を尽くしましょう」
取りあえずは海苔の天日干しが一段落してからと告げて、その間に案内役が地元の漁師たちに話をつけるという流れになった。
結果的に未来式の養殖法を伝授する流れだろうが、先行きに若干の不安を感じるのだった。




