岡崎城下の稲荷祭
夏が過ぎ去り永禄六年の秋になった。一向宗は相変わらず嫌がらせのように一揆を頻繁に起こしてくるので、本当に戦国時代は平穏に生き辛い。
それでも時間が経つごとに地盤は盤石になっていくため、今はとにかく耐えることが重要だ。
ある時、裏切って一向一揆に参加していた家臣たちが私の名前を出して説得したら、稲荷教に改宗して松平さんの家臣に返り咲いた。詳しい説明を聞いても、何が何だかよくわからない謎の事態が起こった。
稲荷神のネームバリューは天井知らずであり、本当に何処まで高く積み上がるやらで怖くなってくる。
まあ一向一揆を起こした領民を、丸ごと取り込んだ自分が言うのも何だが、信仰と忠義の板挟みに合っていたとはいえ、その家臣は本当に信用できるのだろうかと不安になる。
だが幸いにも、今では稲荷神の教えを忠実に守る立派な信者になっている。しかしこれは裏を返せば私の権威が地に落ちた瞬間、あっさりと裏切ることを意味している。
ついでに言えば、今の尾張と三河、そして各地の稲荷神社にもガッツリと絡んでいて、自分の何気ない行動が周囲に大きな影響を与えてしまう。
本当に自業自得とはいえ、どうしてこんなことになってしまったのかと、岡崎城下町に向けて犬ぞりを走らせながら、私は大きな溜息を吐くのだった。
永禄六年の秋、東条城を目指してひた走った時のように、途中の村々や関所でありがたや~と拝まれたが、お供え物は全てお断りした。
もはや正体を隠す必要はなくなり、藁笠なしのすっぴんなので非常に目立っているが、今の三河は稲荷神の住む場所だと認知されているので、堂々と外を出歩けるようになった。
それでもお世辞にも治安が良いとは言い辛く、いつ何処で一向宗や盗賊といった輩に襲われるのか、わかったものではない。
ただし、松平さんたちが私の家に来るときに通る街道は、岡崎で稲荷祭を行うこともあり、大々的に道路工事が行われた。
その結果、小石を取り除いて土をしっかり踏み固めて、雨が降ってもぬかるみにならず、平らで犬ぞりがとても走りやすくなった。
ついでに念入りに掃除したらしく、監視の目があちこちにあることも相まって、私を付け狙う勢力からの妨害が全くなく、静かなものである。
「今回は一泊して、次の日の夜には家に帰る。永楽銭は持ってるし、お土産は岡崎で買う…っと」
行きの荷物は少ないほうがいいと考えて、途中の村々は滞在せずに素通りしてきた。
野宿から目覚めた後に街道を犬ぞりで半日ほど走り、狐っ娘の視力で遠くに見える町並みを捉えた。これならもう少しで着きそうだと、三河で一番栄えていると評判の岡崎の町が近くなると、少しだけ楽しみになってくる。
(でも、…これはちょっと予想以上かも)
岡崎城下に近づくにつれて街道を行き交う人が多くなり、犬ぞりでひた走る私を避けるように左右に分かれ、驚きと一緒にありがたや~と、人々が皆揃って祈りを捧げている。
無宗教の自分でも、いざ目の前に神様が現れたら拝みたくなるが、当事者として目の当たりにすると、赤面するほど恥ずかしくなる。
「稲荷様! 岡崎にようこそお越しくださいました!」
松平さんと大勢の武将や兵士が馬から降りて、整列して城下の入り口で私を待っており、綺羅びやかな鎧武者姿の彼らは、犬ぞりに乗った私を見て皆一斉に頭を下げる。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「稲荷大社にご案内しますので、どうぞこちらに!」
彼らの馬まで飾り付けられており、町中のいたる所に篝火が立てられ、宵祭の準備は万端なことを感じさせる。
今は犬ぞりを微速前進させる私を中心に置いて、守るように進んでいるが、華やかな行列の中に織田さんたち、尾張勢も混ざっていることに気がついた。
「織田さんも参加するのですか?」
「三河と尾張の同盟関係を民衆に知らしめるには、今回の稲荷祭はもってこいじゃからのう」
確かに大きなお祭りには大勢の人が見物に来る。その中で三河と尾張の殿様が仲良く並んで行進すれば、互いの同盟関係は良好で盤石だと、広く知らしめることができるだろう。
今回はそこに稲荷神も含まれるので、その結果がどう転ぶかは予測は難しいが、まあ悪いようにはならない…と思いたい。
「しかし、物凄い人混みですね」
「三河や尾張だけでなく、遠江、信濃、美濃からも人が集まって来ていますからね」
松平さんが今言った地方からも支援物資が続々と届いており、さらに書状を出した覚えのない東と北の国からも、ぜひ協力させて欲しいとお願いされたのだ。
私としては断る理由がなく、実際に困っていたので了承したのだが、これが周辺諸国の緊張を多少なりとも緩和することに繋がるなら、悪くないと感じた。
「ですが稲荷様、本当に他国に教えて良かったのですか?」
「構いません。私の教えは遅かれ早かれ広まる定め。
ならば、先に伝えたところで大した問題はありません。
相手に恩を売れて、飢える民も減り、日本全国の五穀豊穣の近道になるでしょう」
これ以上難民が流出する事態は避けたいのは周辺諸国も同じであった。
それに稲荷神の教えに従ったほうが領土が豊かになるとわかれば、三河や尾張と争って被害を出すよりも、一時的でも矛を収めて仲良くし、積極的に技術提供を受けたほうが得である。
各国の聡明な統治者はそのように判断し、たとえ表面的でも友好的に振る舞うようになった。
なおこれは二段構えの作戦であり、周辺諸国が目先の利益を取ったことで、万が一戦になった時にはこちらが有利になるのだ。
豊かな暮らしを知った民衆が稲荷神を支持することで、それと争う統治者の命令に反発し、徴兵しても集まりが悪くなる。
さらに時間が過ぎて教えが浸透するごとに、こちらの味方が増えていくことを意味する。
「何とも恐ろしい…いえ、争いがなくなり平和になるのですから、問題はないのですが」
「はははっ! 日本中が稲荷神の甘い毒に溺れていくのじゃな!」
若干顔を赤くしている松平さんと豪快に笑い飛ばす織田さんに、私は頬を膨らませてプンスコして言葉を荒くする。
「卑猥な言い方は止めてください! 私はただ自分が平穏に暮らすために!
何より日本の民衆が少しでも幸せに生きられるように、正しい教えを広めているだけです!」
色仕掛けで男を誑かす女狐扱いされるのは心外である。女子高生をやっていた頃は、彼氏居ない歴=年齢という悲しみを背負い、今も昔も生娘なのだ。
「だからこそ稲荷神には、日の本の国を治めて欲しいのじゃ」
「嫌ですよ。天下は織田さんか松平さんの二人にお譲りします」
どうしてこうなった! …と絶叫したい衝動に必死に堪えつつ、重い溜息を吐く。
「儂は天下を取るよりも、稲荷神から聞いた外国に行ってみたいのう」
「私も稲荷様を影で支えるならともかく、自分から天下人になるのはちょっと…」
松平さんも織田さんも、私に天下を取らせる気満々である。
だがそれは、日本全国の大名が認めない限り、統治者として立つことはないと厳しい条件を出した。なのでどれだけ頑張っても達成できるはずがない。
それに最後は、この場に居ない徳川家康が天下人になればそれでいいのだと、私は自分を納得させる。
その後も完全に身内のノリで天下を押し付け合い、のんびりペースの稲荷神行列は岡崎の町を歩き続けた。
ちょうど夕焼け空になった頃に稲荷大社に到着したが、微妙な段差があったので、私は狼たちを自由にしてから、犬ぞりから静かに降りる。
三河と尾張の武将たちも皆、馬を降りて徒歩で境内に入っていくので、私も静々と後を追う。
本宮の舞台の前まで来たところで道を開けられ、一人で先に進むように促されたので、下駄を脱いで木製の立派な階段を登り、御神体が祀られている屋内へと入場する。
「稲荷大明神様は! 岡崎の稲荷大社に移られた!
皆の者は今年一年の感謝を捧げ、今宵は存分に飲み食い騒ぎ! 来年の英気を養うようにと仰せだ!
…稲荷大明神様! 万歳!」
私の代わりに松平さんが全て喋ってくれるので楽ちんだ。
予定として本日の宵祭は本宮内で適当にくつろいで、明日の朝からの本祭で神輿に乗って岡崎城下町を練り歩く。そして夕方頃に本宮に戻り、締めの挨拶を行った後に犬ぞりに乗って、城下町の入り口まで稲荷行列で移動し…と。
考えを整理したら、観光したりお土産を物色する時間がなかったことに気づく。そして外から、稲荷大明神! 万歳! …と、割れんばかりの歓声に驚き、何ともやり切れない表情で肩を落とし、がっかりしてしまうのだった。
岡崎の稲荷大社の聖域バリアは、豊川の長山村よりも強力らしく、本堂の中では神職の人しか訪れないので、気楽に話せる松平さんや織田さんも私に近寄れないらしい。
正直かなり暇だが、神様とは本来はそんなものだ。仕方なく受け入れるが本人は稲荷神(偽)なので、自覚は全くない。
「でもうちの村より、お酒や料理は美味しいかな」
たとえ二番煎じでも岡崎のほうが質の良い物が揃っている。村の物より透き通った清酒にチビチビと口をつけながら、一口大に切って底の浅い茶碗に乗せられてきた、カステラをいただく。
「うーん、サトウキビかサトウダイコン。どっちが気候に合ってるんだろう?」
養鶏が三河と尾張に広がって、卵もそれなりに出回るようになった。それに伴い甘いお菓子も作られたが、養蜂で取れる蜂蜜の量が少ないため、まだまだ高級品である。
なので庶民は、一年に一度の稲荷祭の日にしか口にすることができない。
「それでも一年に一度は無料で、好きなだけ飲み食いできるってだけでも。
この時代の人にとっては、凄く幸せなんだろうなぁ」
織田さんと松平さんに仲介を頼み、野菜の苗や種、その他の欲しい物を外国から取り寄せたとしても、ポルトガルと日本を行き来するのはとても時間がかかる。
ついでに品物が無事に届く保証もなく、最悪途中で難破する可能性すらある。
「頼んだ物が届くまでは一年、それとも二年以上かな?」
既に南蛮船は本国に向けて出港したようだが、私の希望する品々が届くかどうかは全くの不明だ。なのでそれまでは戦国時代の日本にある物で、何とかやり繰りするしかない。
「でもまあ、探せば案外色々あるものだよね」
特に嬉しかったのが綿花や鶏である。ちなみに綿は規模が小さく少ししか取れないし、卵は数日に一個生めば良いほうだ。
これは何かがおかしいと思った私は、現代の記憶と照らし合わせた結果、もしかして原種に近いのでは? …と判断した。
そもそも米からして粒が小さく甘くなかったので、優良種を掛け合わせて品種の改良を進めるようにと指示を出すことになった。千里の道も一歩からである。
将来的にコシヒカリ等のブランド米になるかは不明だが、冷害や日照りに強い品種も生み出せるので、やる価値は十分にある。
「何にせよ、私の役目はもう終わったも同然…っと」
今チビチビ飲んでいる清酒は、私の教えを受けた生徒の一人が濁り酒を改良して、独自に生み出したものだ。平凡な女子高生はお酒の作り方を知らなかったが、戦国時代の常識の殻を破るキッカケにはなったらしい。
他の生徒も色んな方面で大活躍しているようで、これまで教鞭を執って指導を続けてきた私としては、とても誇らしく思う。
今の彼らは先生であり、新しい生徒たちに現代知識を教えているのだ。
これから三河と尾張を中心にして、日本全国に新しい時代を告げる大波が広まっていくのはほぼ確定しており、もはや自分が居ても居なくても、この流れは変えようがない。
「稲荷山の学校を、増改築するとか言われてもなぁ」
今年は春から忙しい日が続いたが、稲荷山の学校は相変わらず通常通りだった。
最初は一期生が卒業すればお役御免だと思ったのだが、実はそんなことはなく、半分の教師が各地に散っていき、残り半分が増改築した施設に留まった。
そこで新たに生徒を招いて、二期生を相手に授業を行っているのだ。
私は初代校長として勤務し、一部の生徒や教師に、より専門的な講義をしている。一期生と同じ小学生向けではなく、中学の授業にランクアップということだ。
「そもそも校長どころか日本のトップに立つなんて、冗談じゃないよ」
知識を与えれば独り立ちできるのに、いつまで神様におんぶに抱っこなのか。
そもそも私は本物の稲荷神ではないので、一生面倒を見る気はないし、平凡な女子高生が日本の舵取りなどしたら、すぐに暗礁に乗り上げてしまう。
「やっぱり本来の歴史通りに進むのが良いんだろうけど、今さらだよね」
正史を詳しく知らずとも、本来の流れとは別方向に進んでいるのは明らかであり、私という異物が戦国時代で暮らしている時点で、どう転んでも波風が立つ。
これまでは自分の人生が平穏無事に過ごせるように頑張ってきたつもりだが、いざ蓋を開けてみれば、中身は女子高生の狐っ娘に日本を統治して欲しい。…といった大きな流れに飲まれかけている。
これは断じて認められないので、全力で抗う所存である。
しかし私には、日本中の大名が稲荷神に統治してくださいとお願いされない限り、実際に上に立つ気はないと、到底実行不可能な条件を出している。
それにどうせこの国の何処かに居るはずの徳川家康が、最終的には全部持っていくので、自分が色々やったところで、正史には何の影響もない…はずだ。
つまり私の平穏な生活は、今後も揺らぐことなく守られ続けると、心の中でユニコーンの壮大な音楽が流れ、完全勝利を確信したような心地になる。
そのままフフンと得意気な笑みを動かべながら、ほろ酔い気分のまま、残りの清酒を美味しくいただくのだった。