天下人の条件
永禄六年の初夏、三河と尾張の両国の稲荷神社に、ある文が届いた。
それは難民を保護するための支援物資の要求だった。差出人は三河の稲荷山の稲荷神社に住む、稲荷神を自称する怪しい童女だ。
「宮司様はいかがされるおつもりでしょうか?」
「普通ならば詐欺を疑い、無視するところだが…」
あまりに常識外れの内容だったため、ここまで運んできた巫女にも読ませたが、実はどうしたものかと少々悩んでいた。
「お前は豊川で民に教えを広める稲荷神の噂を、知っているか?」
「稲荷神の教えで荒れた土地が豊かになり、病気になる者が減り、怪我の治りが早くなり、見たこともない道具や食べ物を作り出し、最近では一揆を静めたと聞いております」
たった今巫女が語った通り、とんでもない噂が広まったものだ。これらのどれか一つ取っても、誰もがありえないと笑い飛ばすのは間違いない。
しかも稲荷神を自称しているとくれば、胡散臭いにも程がある。
「狐の耳と尻尾が生えているらしいですが、本当でしょうか?」
「正直なところ、この目で見るまではとても信じられん」
「…私もそう思います」
肌や髪、目の色が違う異邦人は、過去に一度だけ見たことがあるが、何処の世界に狐の耳と尻尾の生えた人間がいるものか。
それこそ物の怪の類か、正真正銘の本物の稲荷神でもなければ、あり得るはずがない。
「尾ひれのついた噂でしょうか?」
「そうとしか思えんが、劣勢の松平軍に加勢し、勝利に大きく貢献したとなればな」
「狼に乗って戦場を駆け、富永忠元をたったの一太刀で討ち取った。…でしたか?」
あまりにも劇的な活躍に、藤波畷の戦いがまるで神話のようだ。なお実際に三河の民の間で、まことしやかに囁かれているし、敵味方双方、大勢の目撃者が居るのだ。
図らずとも、稲荷神はただの噂ではなく本当に存在するのだと、多くの者が信じる結果になった。
「…支援しよう」
「よろしいのですか?」
「戦だけでなく秋祭りでも姿を見た者も居るのだから、稲荷神を偽物と断言することもあるまい」
正直まだ迷っているが、取りあえず支援物資を送ってみることに決めた。もし騙されたとしても詐欺師の所在地は割れている。
その時には直接文句を言いに行けばいいし、何より私は豊川の稲荷神を信じてみたくなった。
「乱世に安寧をもたらしている稲荷神に賭けてみるのも、悪いことではあるまい」
「少々噂が独り歩きしていますが、やっていることは善行ですからね」
「そうだ。詐欺師は人を騙して不幸にするが、稲荷神は民を幸福にしている」
噂に尾ひれや背びれ、さらに胸びれどころか羽まで生えているが、その教えは三河の民を幸福にしている。
そして詐欺師は自らの懐のみに富を抱え込むが、彼女はほんの少し冬越しの分だけを受け取り、残りは稲荷祭で民に分け与えているのだ。
戦乱の世にこれほどの善行を行う人間が、一体何人居るやらだ。
「そんなことを言いつつも宮司様は、最終的に一割増しで返ってくることに、期待していませんか?」
「……否定はせぬ」
支援した物資を後日一割増しで返すと記載されていたことに、心が揺れたのも事実である。この国に仏の教えが広まってから、神道の勢いは衰えるばかりだ。
なので寺と比べれば神社の儲けはかなり少ないので、これを良い機会だと考えて、少しでも懐を暖かくしようと考えるのも仕方のないことだ。
ともかく理由はどうあれ支援物資を送るのだから、何の問題もあるまい。
私はいそいそと立派な判子が押された書状を手に持ち、わざとらしく咳払いをすることで、蔑むような視線をこちらを向けている巫女を、必死に誤魔化すのだった。
永禄六年の夏になり、三河と尾張の稲荷神社から支援物資が続々と届き始めた。暖かいご支援に感謝感激! …と言いつつ、一割増しで返すという条件が効いたのかも知れない。
だが時と場所までは指定していないので、その気になれば十年、二十年先でも返済は可能なのだ。
ちなみにあまり待たせすぎると直接苦情を訴えに来そうだが、今の三河なら一、二年もあれば全ての返済を終えられるだろう。
それぐらい年間の生産量は他国を大きく引き離して激増しつつあるのだ。
そして今の所は上手くいっているが、戦国時代に大量の物資を運搬するなど、鴨が葱を背負っているような物だ。たとえ自国だろうと、略奪目的の野盗に襲われることは多々ある。
その時に活躍するのが、稲荷大明神ののぼり旗である。この時代は神様が存在すると普通に信じられており、お供え物に手を出す罰当たりは殆ど居ない。
もちろん信仰心の欠片もない者も居るが、極めて少数なので被害を受けることはあまりないのだ。
勝手に名前を使うと各々の神社から抗議を受けるが、中身は女子高生でも見た目だけなら立派な狐っ娘である。
しかもちゃんとした実績をあげており、噂が噂を呼び、今では稲荷大明神(仮)ぐらいは認知されている。なので余程のことがない限り、直接喧嘩を売られることはない。
「それで、一向宗から襲撃を受けたと?」
「支援物資を守るは精鋭であり、劣勢だと判断してすぐ山中に逃げ申した。
しかし何人か捕らえて聞き出したので、…恐らく間違いはないかと」
本宮の社務所の床をドンと叩き、悔しそうな顔をする本多さんに、ハエのように周りをブンブン飛び回る一向宗に、毎度毎度邪魔をされることに私はうんざりしていた。三河って面倒な土地柄なんだなー…と、表情は変えずに心の中で大きな溜息を吐く。
「最近では東の今川、北の斎藤と武田からも支援物資が送られてきていますが。それでも一向宗は少々目障りですね」
「今川と斎藤と武田は、稲荷様の教え目当てでござろうか?」
戦国の世に無償の施しを行うことはありえなくはないが、十中八九私の教えが目当てだろう。
「では、彼らの領土にも指導員を送りましょうか」
「稲荷様! 相手は敵でござるぞ!」
救援物資はありがたく頂いたが、敵対しているのだから、本多さんが怒るのも当然だ。しかし未来からやって来た私にとっては、都道府県の違いはあっても、誰もが同じ日本国民なのだ。
「たとえ今は敵でも、天下を取れば同胞です」
「天下…で、ござるか? 今は足利将軍が治めてござったな」
足利と聞いても下の名前は覚えてないので、ふむ…と顎に小さな手を当てて、本多さんの言葉に答える。
「足利将軍は、もはや己の役目を果たせていません。
誰かが古きを終わらせ、新たな日の本の国の舵取りをしなければ、平和にはならないでしょうね」
歴史の教科書には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が、天下という椅子取りゲームをしていた。
一人目はあと一歩まで迫ったが強制退場させられ、二人目は椅子に座ったが長くは続かなかった。しかし三人目は、三百年もの天下泰平を築き上げた。
私の最終目標は平和な時代で普通にのんびりと暮らすことなので、早いところ戦乱の世を終わらせるためにも、さっさと徳川さんに江戸幕府を開いてもらいたい。
そして足利将軍の頼りにならないことに溜息を吐き、気苦労と乾いた喉を温かなお茶で潤す。
「なるほど! つまり稲荷様が天下を取り、新たに日の本の国を治めるのでござるな!」
「…ぶふううううっ!!! ごほっ…げほっ…! なっ…何ですか! それは!?」
本多さんに衝撃的な言葉をかけられて、口に含んだお茶を思いっきり吹き出してしまった。何で私が天下を取る話になるのだ。
たとえ現代知識を持っていたとしても、平凡な女子高生に、そんな大それたことができるわけがない。
取り乱しながらも私が布巾で溢したお茶を拭き取っている間も、彼は瞳を輝かせながら説明を続ける。
「稲荷様は日の本の国の神の一柱であるからして、当然朝廷に勝るとも劣らぬ権威を持っておりまする」
「いえ…私は、そんな大したことは…」
「人と神、どちらが偉いのか。稲荷様にはわからぬでござるか?」
当然神様のほうが人間よりも偉いと答えたいところだが、それを言ったら私が天下を取る話になってしまう。
何とか本多さんを納得させないと、自分の身が色んな意味で危なくなどころか、狐っ娘に日本の舵取りをやらされかねない。
「本多さん、今は人間の時代で、私は既に舞台を降りた身です」
「ですが日の本の国の民は、長い戦乱で疲れ果てております!
ことここに至っては、もはや稲荷様が再び上に立たねば収まらぬかと!」
何と言うことだ。ここに来て稲荷神(偽)を演じ続けたツケが周ってきた。
確かに過去に色んな人が日本を統一したけど、結局平和は長くは続かなかった。大和王朝や鎌倉幕府。そして今の室町幕府にせよだ。
だからこそ本多さんは、私を推すのだろう。人間に駄目でも神様なら、この国を支える礎として相応しく、それこそ千年の安寧を築くことさえ夢ではないと信じているのだ。
私は大きく溜息を吐いて、押せ押せの彼にどうしても聞いておきたいことを尋ねる。
「それは、…本多さんだけの意見ですか?」
「いえ! 松平殿と織田殿もでござる!
さらに拙者の同胞で、稲荷様の指導を受けた者は、皆同じ意見かと!」
「そっ…そうですか」
肉体的には頑丈な狐っ娘だが、何だか頭が痛くなってきたので手で額を押さえて、社務所の天井を仰ぎ見る。大体男性のみが出世する戦国時代に、女性の私が特例として上に立っても、現場を混乱させるだけだ。
政治とは全く縁のなかった平凡な女子高生には、とにかく荷が重すぎるし、天下を取る気は微塵もない。
それに何となくだが、野心にギラついているイメージが強い織田信長が、私に席を譲るとかありえないだろう。
「しかし、私よりも天下を握るに相応しい人物が居るのでは? 例えば…」
「稲荷様が相応しくなければ、他の者は皆不合格でござろう!」
織田さんとか…と続けようとすると、先程から一歩も引かない本多さんに断言されて、こちらのほうがタジタジになる。
いつの間に、これ程の好感度を稼いでいたのか。もしくは信仰度と言ったほうがいいのか。
そう言えば彼はいつも、私の活躍を近くで見ていたっけと思い出す。ならば本多さんの信念を、今この場で突き崩すのは不可能に近い。
となればここは、押して駄目なら引いてみる作戦だ。
「…仕方ありませんね。では条件付きなら、引き受けても良いですよ」
「おお! ありがたい! …して、条件というのは?」
彼は押しが強いので、このまま問答を続ければ、強引にでも天下を取る約束をさせられかねない。
ならばこちらが先に妥協して達成困難な条件を出すことで、たとえその場しのぎでも、本多さんは納得して引き下がってくれるだろう。
「全国の大名が稲荷神にこの国を治めて欲しいと、嘘偽りなく願うこと。
神とは人々に望まれてこそ、この世に存在することが許されるのです」
「なっ…なるほど! 一理ありますな!」
本当は嘘八百だが、本多さんにははっきりと断言しておく。でなければ私が首を縦に振るまで、引き下がってくれそうにない。
しかし何はともあれ、彼は納得したようで感心顔である。
「稲荷様! 拙者は至急殿に報告をせねばならぬ用ができたため! これにて失礼致す!」
「あっ…はい。ではまた」
本多さんは勢い良く座布団から立ち上がると、風のように社務所の玄関から飛び出していった。
余程急ぎの用だったらしく、引き戸を閉めるのを忘れて、参道を勢い良く駆け下りていく若武者に、すれ違った多くの参拝者がギョッとした顔で振り返る。
私が日本の舵取りをする条件を伝えに言ったのは間違いないが、全ての人に好かれる人間は居ない。
つまり彼がどれだけ頑張っても、自分は天下人ではなく、地元のローカルアイドルの狐っ娘のままだ。しかし本多さんや松平さん、さらにそれを取り巻く人々が平和を目指して動くのは悪いことではない。
何より最終的にまだ見ぬ徳川家康が天下の椅子に座りさえすれば、目的は達成されるのだ。
中身が女子高生の稲荷様(偽)の平穏は、これで完全に守られたと安心し、私は冷めたお茶をゆっくりと飲み干したのだった。