十九話 甲斐の奇病(1) 上洛
甲斐の奇病の最中となります。ご了承ください。
<農民>
三河国の大軍が京の都を目指して街道を北上しているという噂が、まことしやかに囁かれ始めた。
このせいで、通り道となる周辺の地域は上を下への大騒ぎになった。
急いで荷物をまとめて逃げ出そうとする者、家の窓や扉を閉め切って通り過ぎるまで身を潜める者、銭や物資、さらには女子供まで差し出して身の安全を図る者。
このように、人々の行動は千差万別であった。
ちなみに今年三十になる農民の自分はと言うと、最初は妻や息子と娘たちと一家全員で近くの寺に避難し、三河の軍勢が通り過ぎるまで匿ってもらおうと考えていた。
普段から住職はいつも、困ったことがあれば頼るが良いと話していた。
だが実際には寺院の土地には限りがある。なので寄付金を多く払った者を優先して保護すると、土壇場になって意見を変えた。
そして貧しい農民の自分たちは、残念ながら住職が納得するだけの寄付金を用意できなかった。
寺の敷地内には裕福そうな人々がポツポツとしか入っていないにも関わらず、立ち入りさえも拒否されたのだった。
理不尽な怒りを感じはするが長年世話になった住職の言うことだし、地元で幅を利かせている商人たちを匿っているので、ここで揉めると後々面倒になるだろう。
ならば近くの山や森に隠れようとして、この場はさっさと引き下がって家に帰り、荷物をまとめていた。
すると三河国の軍勢は、町村での略奪を一切行っていないので、安全だという噂が流れてきた。
あまり楽観視するのもどうかと思ったが、村人たちが避難して無人になった家々に、火事場泥棒が侵入しないとも限らない。
ならば少々危険でも家の中に閉じ籠もり、軍勢が通り過ぎるのを待つ。
もし不穏な気配を感じたら急いで逃げれば多分大丈夫だと、そう判断したのだった。
時は流れて、自分たちが住んでいる宿場町を三河の軍勢が通過する日になった。
何処の家々も木枠の窓以外は完全に閉め切っており、屋内に引き篭もるか、寺院に避難していた。
自分たち家族も、四人揃って家の中でじっと身を潜めている。
殆ど光が中に入らないので薄暗く埃っぽく、湿気った畳の上で一箇所に集まって小声で会話する。
「お父。三河の殿様は何で京都を目指すんだ?」
「ふむ、これは人から聞いた話しだがな。
将軍様か公家様に用があるから、京都を目指しているらしいぞ」
京都はたびたび戦乱に巻き込まれているが、その殆どは将軍様や公家様を巡っての争いだ。
そのような話を、旅の商人や村長から聞いた覚えがあった。
一つずつ思い出しながら、六歳になったばかりの息子や四歳の娘に、丁寧に説明していく。
「じゃあ三河の殿様は、将軍様や公家様に会って何をするの?」
恐怖で少し震えている娘の口が動くが、四歳にしては難しい質問をしてくる。
出来ればきちんと答えてやりたいが、俺も明確な答えを持っていなかった。
なので頭の中で整理をして、迷いながらも自分なりの言葉で話す。
「確固たる地位を要求するか。もしくは将軍様を亡き者にして権力を握りたいか。そんなところだろうな」
他人からの情報と俺の想像が混じった答えだが、そこまで的外れではない気がした。
しかし娘はなかなか鋭いところを突いてきたものだ。親の贔屓目かもだが、将来有望になりそうで大変結構だ。
「なあ、お父。もし三河の殿様が新しい将軍様に成り代わったら、この国はどうなるんだ?」
今代の足利将軍様も頑張ってはいるだろうが、戦乱の世は終わる気配は全くない。
かと言って三河の殿様に変わってどうなるかと聞かれても、評判すら良く知らない自分にとって、正直さっぱりわからなかった。
「そればかりは皆目見当がつかんな。
統治が上手くいけば良いが、今の将軍様でも無理だしなぁ」
農民の自分たちにとっては、誰が上に立とうと構わない。
しかし今より少しでもマシな統治者であって欲しい。そう強く願うのも当然と言える。
「ねえ貴方? 三河国って、噂の──」
「ああ、稲荷神様が居るらしいな。だが所詮は噂に過ぎんよ。
それに将軍様になるのは一国の殿様だと、昔から決まっている」
本当にそう決まっているのかは知らないが、過去に将軍様になった人は皆、一国の主だったので今回もきっとそうだ。
それに神の御業としか思えないような出来事が相次いで起きている三河国だが、余りにも現実離れし過ぎている。
だが明日をも知れぬ命になれば、藁にもすがる思いで三河を目指すために難民になる者も出るかも知れない。
しかし俺たち家族は違った。三河がかなり遠いのもあるが、街道の宿場町として人の往来が多い。
おかげで野菜が良い値で売れるのだ。身分は農民でも、貧しい山村よりかはマシに暮らせていた。
もっとも、蓄えがないのは俺たち家族も同じか。そう重い溜息を吐くと、家の外がにわかに騒がしくなってきた。
どうやら三河の軍勢が通過するようで、俺は木枠の窓に静かに近寄り、僅かな隙間から油断なく外の様子を伺う。
「お父! 俺にも見せてくれよ!」
「私も! 私もー!」
「見るのは構わんが、二人共静かにするんだぞ」
いくら略奪をしないのが噂が事実だったとしても、騒ぎを起こして目をつけられると不味い。
お侍様は平民を斬ることに躊躇いがないだけでなく、明らかに多勢に無勢であり、もし逆らおうものなら問答無用で殺されてしまう。
なので俺たちは、街道沿いに建てられたオンボロな掘っ立て小屋の隙間から、一家全員で街道を進む三河の軍勢を様子を窺うことにした。
最初は肩車していたのだが、それでは自分が良く見えないし途中で疲れてきた。
そこで適当な踏み台を持ってきて、息子と娘にはそっちに乗るようにと指示する。
「立派なお姿だなー」
「そうだな。宿場町を管理しているお侍様よりも、綺羅びやかに見える」
鎧姿だけでなく馬まで着飾っている。
何というか他国と戦をしに行くのではなく、三河国がどれだけ凄いかを見せつけている気がする。
俺だけでなく、隣の息子と娘も完全に圧倒されているので、しばらくの間は、行列をじっと観察していた。
「ねえ貴方、それにしても随分長い行列ね」
「そっ、そうだな」
二、三千でも大軍には違いないが、それなら宿場町をとっくに通り過ぎている。
だが今街道を行軍している三河国の兵士は先頭も後続も、どちらも見通せない程の大行列となっていた。
正確に数えたわけではないが、少なくとも一万以上の軍勢に思えたのだった。
どれだけの時間が過ぎたかわからないが、最初は興味津々といった表情で進軍を見つめていた息子と娘も、余りにも長い行列に飽きてしまった。
そのため、今ではお侍様たちではなく、窓の隙間から空を飛ぶトンボや草地のバッタを、どちらが早く見つけ出すか競争し出す有様だ。
だがそんな息子と娘の瞳が、突然ある一点に釘付けになり、信じられない者を見るような驚愕の表情に変わる。
そして俺の言いつけを破って、大声を上げた。
「お父! 狐の女の子が居る!」
「お狐しゃま! お狐しゃまを見つけたの!」
突然叫んだだけではなく、息子と娘は好奇心を抑えられなくなったのか、踏み台から飛び降りて窓際から離れると、そのまま家の玄関に向かって勢い良く走り出した。
「二人共、待つんだ! 外は危険だ! 行ってはならん!」
どれだけ焦っていても草履に足を通したのは素直に褒めてやりたいが、俺の言葉は右から左のようで止まる様子は微塵もない。
仕方なく自分も慌てて後を追うが、どうにも間に合いそうにない、
だが親として子供たちを守るために、彼らが乱暴に開けた引き戸から躊躇なく外に飛び出したのだった。




