九話 藤波畷の戦い(3) 神頼み
<松平元信>
東条吉良氏の居城を攻めるのは、これで何度目になるか。
小城をいくつも占領して、吉良氏の包囲網を完成させたまでは良かった。
しかし結局は奪還されてしまい、戦を行えば毎回敗北をするという、散々な有様であった。
春から始めたこの戦いも秋になっても決着がつかず、兵の士気は下がる一方だ。
恐らく次に敗北すれば、もはや軍を維持することはままならずに、部隊は瓦解する。多くの兵が我先にと逃げ出すことだろう。
そうなればもはや本城に撤退するだけの余力もなくなり、吉良氏の追撃を受ければ自分の命すら危うくなる。
かと言って今から逃げ帰ったところで、消耗した軍を立て直すのは容易ではなく、たとえ辛勝だろうと領地と民衆を取り戻さなければ、丸損以外の何ものでもなくなってしまう。
つまり、始めた限りは負けは許されない戦なのだ。
「ここが正念場ですね」
私たちは、これから向かう平地に陣を構える予定で、遥か遠くの吉良氏の旗がたなびく東条城を見据えるが、真面目な発言とは裏腹に、何とも気が重い。
勝てば官軍負ければ賊軍とはよく言ったもので、最悪自分の命は今ここで終わりかねない。
今川氏への反抗を証明するための三河統一さえ成せず、ただ朽ちていくのは、無念としか言いようがなかった。
晴天吉日に、馬にまたがり立派な鎧を着ているので、身なりだけは立派であるが、本当に勝てるのかと不安ばかりが大きくなってしまう。
「稲荷神様! どうか我ら三河武士に勝利のご加護を!」
「殿! 稲荷神は戦の神ではありませぬぞ!」
砦から出て東条城を攻めるための陣を、少し先の平野に敷かせている最中に、武将の一人である本多広孝が私を叱責する。
「ええ、わかっています。しかし御利益のある神や仏にどれだけ祈ろうと、これまで負け続きでした」
戦の前の願掛けに、御加護があると伝わる神社や寺に出向き、供え物や寄付金を出して信心深く祈りを捧げた。
しかし結果は連戦連敗。とうとう次に負けたら終わりという、崖っぷちまで追い詰められてしまったのであった。
そんな時に本陣の一部が出来上がったと報告が入ったので、気心の知れた武将のみを陣幕の内に呼び、皆馬を降りて椅子に座り、人払いをして会議を開いた。
もし今ここで松平の未来は潰えると言うなら、最後ぐらいは自分の心の底から信じる稲荷神に祈ったところで、バチはあたらないだろう。
これまでの勝利祈願に何の意味もなかったので、なおさらである。
「殿! そう悲観なされるな! 今度こそ勝てますぞ!」
「その言葉、何度目ですか?」
部下を従える上司としては弱気な発言をするのは如何なものかと思うが、春から秋にかけて殆どの戦で負け続きでは、気が滅入ってくるのも仕方ない。
このような状況だからこそ、本多広孝や周りの武将は何も言わず、自分と同じく重い雰囲気で敗北濃厚な戦場に向かうのだ。
だがそこで、彼が堂々とした態度で私に告げる。
「とっておきの策がありまする!」
「策ですか?」
生真面目な彼が嘘を言うとは思えないので、きっと本当に策を練ってきたのだろう。
ならば物は試しに聞いてみるのも、やぶさかではない。
なお私が聞かされた内容は、まさに起死回生の策であった。
それをすれば、どん底まで落ちた兵の士気は上がるのは間違いない。
だがしかし、万が一にでも失敗したら彼はもうこの世に生きてはいられない。
たとえ戦で命を落とさなかったとしても、切腹という最後を迎えた悲劇の武将として歴史に残ることになるのだ。まさに背水の陣である。
「本当に良いのですか?」
「この老兵の命を賭けて戦に勝てるのなら、遠慮なく使ってくだされ! 」
「貴方の忠義、決して無駄にはしません!」
そして私は決意を固めて、藤波畷の戦いでの勝利を願った。
その後の策通りに、本多広孝は必ず勝利して帰るという決意の印として、多くの将兵の前で、自分の鎧の上帯の結んだ端を二度と解けないように、平岩元重に刀で切らせた。
これによって三河の軍勢の士気は、一時的だが大きく上がった。
同時に勝利以外は許されない雰囲気となり、撤退は即ち全軍の崩壊を意味することとなったのだった。
だがしかし、やはり吉良氏の軍勢は強かった。
松平勢は最初こそ善戦したものの、やがてジリジリと後退させられてしまい、これではどちらが攻めているかわからない程の一進一退の乱戦となった。
富永忠元が単騎で突撃してきたのは好都合だが、三河の武将が二人がかりでも彼を仕留めるには足りない。
それどころか、逆に押されて討ち取られてかねない危機的状況となる。
このままでは味方が総崩れとなり、大久保大八郎と鳥居半六郎の両名が命を落としてしまう。
しかし全軍に指示を出し終えた自分には、もう見守ることしかできない。助けようにも手の空いている将兵はおらず、皆が目の前の敵を倒すので精一杯である。
もはやこれまでかと思った私は、最後に出来るのは神に祈ることだけと考えて、心の底から奇跡が起きることを願った。
だがこれは、きっと自分だけではないはずだ。
彼女を見知った人々が困った時に神頼みをするならば、皆が稲荷神を連想するはずだ。
すると、本当に奇跡が起きた。救いの女神が戦場に舞い降りたのだ。
多くの将兵で埋め尽くされた戦場を、まるで無人の野のように狼を引き連れて疾走する。
そんな稲荷様の美しさに、敵も味方も戦いを忘れて見惚れてしまう。
そこからはもう、怒涛の展開だった。
稲荷様は二人がかりでも倒せなかった富永忠元を、たったの一撃で地面に沈める。
その後は、これで用が済んだとばかりに、颯爽と戦場を去っていったのだ。
あまりの急展開に両軍はしばらく唖然としていたが、稲荷神様の突飛には比較的慣れていた松平軍は、一早く正気を取り戻した。
「稲荷神様が富永忠元を討ち取った! もはや我らの敵ではない! 押し返して城へと攻め上るのだ!」
「「「おおー!!!」」」
本物の稲荷神様が味方になってくれたのだから、先程までとは違って松平軍の士気は急激に上がって天元突破する。
逆に吉良氏の軍は富永忠元を失ったことで大幅に低下し、各部隊が大混乱に陥って敗走が始まった。
このような経緯もあり、藤波畷の戦いは、劣勢だった松平軍に奇跡が起こり、見事逆転して勝利することができたのであった。




