天下泰平を目指す
今は私が分社の舞台の上に立って堂々とすることで、神主さんは恐れ多い立ち振舞で、少し離れた場所からこちらに声をかける。
既に夕焼け空に宵闇が混じっており、もうしばらくすれば太陽は山の陰に隠れて、完全に日が暮れるだろう。
「一年間教えを守り、良く頑張りましたね。これは私から皆への褒美です。
今夜は存分に飲み食い騒ぎ、来年に向けての英気を養ってください」
座布団から立ち上がって皆を見渡せる聖域の端に移動し、緊張しながらこの日のために丸暗記してきた言葉を、分社の外に集まっている人たちに伝える。
それにしてもどれだけの村から集まってきたのか、とんでもない人混みから熱気が溢れ、私は即数えるのを諦めた。
「では、これより五穀豊穣への祈りを込めて、稲荷祭を始めます!」
「「「稲荷神様! 万歳ー!!!」」」
狐耳が震えるほどの喝采を受けたので、笑顔で手を振ると、集まった人たちの声はますます大きくなる。……とは言え、いつまでも稲荷神がこの場に留まっていては祭りが始まらないので、背を向けてそそくさと退去する。
そのまま御神体の近くに敷かれた座布団へと戻り、一息ついてゆっくりと腰を下ろす。
「お疲れさまです。稲荷様」
「貴方は、……松平さんでしたか」
「はい、お久しぶりです」
今夜の指定席に座った私に、草履を脱いで正面の階段から本堂に上がってきた松平さんが、嬉しそうに話しかけてきた。
先程の挨拶が終わって祭りが始まり、神様が奥に引っ込んだことから、聖域バリアが解除されたらしい。
それでも御神体の間は神聖な場所であり、直接踏み込む人はあまり居ない。だが彼以外にも本多忠勝さん、酒井忠次さん、榊原亀丸さん。そしてこの間合戦場で助太刀した武将や、その他大勢も一緒で、私の家より広いから良いが、とにかくそうそうたるメンバーが乗り込んできた。
「祭りは無礼講でお願いします」
「はい、稲荷様。皆にもきちんと伝えてあります」
「それならば構いません。楽しんでくださいね」
そもそも武士階級で偉い人が来るのは、想定していなかった。あくまでも当初は一つの村のみ祭りだったのだ。それでも今日明日は、大勢の人たちが飲み食い騒ぎ酔っ払うので、その間に起きたことは基本無礼講となる。
「しかし、凄い活気ですね」
「付近の村々からも、祭りと聞いて集まっていますからね」
神主さんと私以外の巫女さんが来客のために座布団とお茶を持ってくる。彼女たちの着ているのは私の衣装にそっくりで、紅白色と編み方機能性だけでなく、必要のないチラリズムまでもを再現しようと努力している。
萌えの文化はきっと、こんな風に生まれるのだろうなぁ……と、何だか感慨深くなるのだった。
「やはり急ぎ三河にも、稲荷様の教えを広めなければ……」
「止めたほうがいいですよ」
「それは何故でしょうか?」
自分の周囲は豊かになった自覚はあるが、私はそれを三河にも広めようとは思わなかった。しかし松平さんが私の教えを自領に広めたがる気持ちもわかる。
それでもすぐに実践できるものから、複雑な手順が必要になるものまで、現代知識は非常に幅が広く、一朝一夕で身につくものではないのだ。
「人は自分が理解できないものを恐れて、排除しようとします。
それに私の教えに従えば豊かになりますが、扱いを間違えれば身を滅ぼします」
肥料の発酵が不十分では、土壌バランスが狂って病気を誘発するし、養蜂は扱いに気をつけないと、刺されてショック死する可能性がある。
「成果は出ているのですから、私の教えは放っておいても広まります。
焦ることはないでしょう」
出る杭は打たれるので、あまり急ぎすぎると何処からともなく妨害が入るに決まっている。しかし工夫次第で収穫量が増える技術は、誰もが喉から手が出るほど欲しがる。
だが今の私は名前だけなら稲荷様(偽)なので、お膝元である周囲の村々では、そこまで強引な手段は取れない。
それに一向宗だって、神道の稲荷神に敵対するのは望まないはずだ。この間の抗議活動はきっと、カッとなってやった。今は反省しているとか、多分そんな感じだ。
既に制裁を受けて、一向宗の寺は稲荷様の神社に改築されたので、今では完全にこちらのホームとなり、そう何度も迂闊な行動は取らないだろう。
なおもし外から攻め込んできたら、ようやく安定し始めた三河の殿様に泣きつくという手段も取れる。
「ですが、ただ広まるのを待つだけでは……」
「では、指導員を育成しなさい。私の教えを一から十まできちんと理解し、時と場合に応じて最適な判断を下せる者です」
「……指導員ですか」
私の言葉に考え込む松平さんに、長山村の者を紹介して、けれど本人が離れたがらなかったり、あまり大勢引き抜かれると事業の運営が回らなくなるので、程々にしてくださいね。……と付け加えておいた。
「ありがとうございます。稲荷様」
「技術を伝えるのは、何も武士にこだわる必要はありません。
ただし指導員の教えを、誤りなくきちんと守らせる必要があります」
「はいっ! 肝に銘じておきます!」
戦国時代はいくら優秀な技術者でも、農民の教えを素直に聞く人は少ない。なので松平さんたち身分の高い者がしっかりと見守り、成果が出るまでの期間は、四の五の言わずに黙って従わせることが大切なのだ。
その後も色々と話し合い、一段落したところで神主さんを呼び出して、稲荷祭のために特別に用意した屋台料理を持って来るようにと頼む。
私は明日まで聖域内から動いてはいけないので、今日はここで夜を明かすのだ。
「そう言えば、ここだけしか食べられない屋台料理があると聞きましたが」
「ああ、それは殆どの料理は私が考案した物ですから、確かに他では見ないでしょうね」
「稲荷様が!?」
食材や調味料の乏しさに嘆き悲しんだ結果、ここに来た当初から研究開発を続けて、ようやく実を結んだのだ。しかしやはり量が少ないため、年に一度の祭りで出すのが精一杯であった。
ついでにそれを使って比較的簡単に作れる料理レシピも考案して、村の者たちと何度も試行錯誤して失敗を繰り返し、何とかお披露目には間に合わせたのだった。
「それに、全ての屋台料理が無料で振る舞われるのも、ここだけでしょうね」
「むっ……無料ですか!?」
元々は稲荷神(偽)へのお供え物なので、景気よく放出しても何も問題はない。今回は天候に恵まれたこともあって大豊作だったが、毎年無料になるかは神のみぞ知るだ。
だが周囲の村々には農業の近代化が確実に浸透しており、各々がさらに効率的なやり方を発見していくにつれて、収量は変わらず上がり続けることになる。
「しかし私が稲荷神を降ろされれば、無料ではなくなるでしょうね」
「稲荷様を降ろすだなんて! そんなことはありえません!」
松平さんは寂しそうな顔をする私を真っ直ぐに見つめてくる。
だが女子高生をやっていた時なんて信仰心の欠片もなかったし、現代日本で神様を本気で信じてる人は、一体どれだけ居るやらだ。
「ありがとうございます。私もそうあることを願っていますが、人の世は移り変わるものですから」
今は物珍しい近代農業と大豊作で沸きに沸いているが、いずれは私の現代知識もネタ切れになる。そうなれば見た目だけの稲荷神など、便所のちり紙以下に落ちぶれないとも限らない。
その時、何を思ったのか松平さんがおもむろに立ち上がり、こちらを見下ろしながら堂々と声をあげた。
「ならばその願い、私が叶えましょう」
「松平さんが?」
「ええ! 稲荷様を敬う人の世を! 松平元康が実現させます!
そして天下の泰平を何百年でもです!」
何とも壮大なスケールの夢物語だ。実際に私が望んでいるのは徳川幕府で、三百年も平和な時代が続いたと、授業で習った覚えがある。
とは言え松平さんは最近改名して康が入っている。ならばまだ見ぬ徳川家康の四分の一ぐらいは期待してもいいだろう。
「ふふっ、期待していますね」
「お任せください!」
彼が徳川家康でないのが残念でならない。だがたとえ幕府を開けなくても、今だけは少し格好良く見える松平さんを、何となく応援したくなったのだった。