チェルノブイリ原発事故
昭和六十年に、G6でプラザ合意が行われた。
立場的には日本の最高統治者だが頭の悪い私には、ニュースを見ても何のことかわからなかった。
なので日本政府の関係者を謁見の間に呼んで、お茶菓子を摘みながら詳しく説明してもらった。
まず日本語に翻訳にすると、先進六ヶ国財務大臣、中央銀行総裁会議である。
今回集められたのは、フランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、オーストラリアだ。
だがまあ第一回のときにはイタリアが会議に乱入してきたり、欧州偏重を防ぐため翌年にカナダを招聘したりと、何かこうグダグダ感が否めない。
しかしそれらの過程は置いておいて、先進六ヶ国の首脳が集まって、為替ルートを安定させるための会議を開いた。
その際に会場になったアメリカ合衆国ニューヨーク州のプラザホテルにちなんで、プラザ合意と呼称されることになったのだ。
ちなみに内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、この会議自体はわずか二十分程で合意に至る、形式的なものだった。
最後まで説明を聞いた私は、これいる? と思い、大人の世界は面倒くさいという気持ちしか抱かなかったのであった。
なお年末に、稲荷神の魂が人間の女性の体に宿り、彼女が聖闘士たちを引き連れて世界を守る漫画が始まった。
しかし歴史の修正力とでも言うか、星座カーストは健在であった。なのでこっちの日本でも蟹座は不憫枠だったことに、少しだけ可哀想に感じたのだった。
昭和六十一年になり、円高の影響で輸出産業や下請け等の関連企業が不況に陥った。……ということは一切なく、日本は相変わらずオーストラリアと共存共栄していた。
ついでに男女雇用機会均等法が執行されたが、今まで暗黙の了解だった事柄を明確にしただけで、実際のところは江戸幕府から殆ど変わっていない。
だがまあ女性党首の土井さんがやる気が上がったので、全くの無駄ということではないかなと、思ったのだった。
同じく昭和六十一年の四月二十六日に、ロシア連邦のチェルノブイリ原子力発電所で事故が起きた。
向こうは隠し通すつもりだろうが、ロシア原発がメルトダウンしていると、日本の情報部が世界でいち早く掴んだ。
アメリカの軍事衛星を出し抜くのは今さらだし、非常事態なのでそれは取りあえず置いておく。
当然すぐさま対策会議が開かれたのだが、それは国会ではなく稲荷大社の謁見の間であった。
公表すれば日本どころか世界中が大混乱に陥るので仕方ないが、重大事に毎度私を引っ張り出すのは如何なものかと抗議したくなる。
だがまあ、もし世界の危機を放置すれば平穏な暮らしが遠ざかるのは火を見るよりも明らかであり、現状では自分以外に対処が不可能なのもまあわかる。
なので渋々重い腰を上げ、ちょっとロシア連邦までひとっ飛びしてきますと、対策会議に集まった者たちに、軽い気持ちで告げるのだった。
チェルノブイリは既にメルトダウンしているが、今なお高濃度の放射能汚染を撒き散らしているため、時間的な猶予は殆どないと言ってもいい。
なので、現在非常事態の対処に精一杯のロシア連邦に、日本に技術者の入国手続きをしている余裕はなく、普通の移動手段でも時既に遅しになりかねない。
おまけにチェルノブイリ原発はロシア連邦の殆ど端っこで、日本との距離が離れすぎている。
私が直接飛ぶにしても道に迷うか方角を間違える、もしくは適時修正が必要となりそうで、無事につけるか不安が残る。
しかも、ちょっと通りますよと一言告げるにしても、非常事態のロシア連邦が耳を貸してくれるかは不明である。
特にメルトダウンした原発に向かって高速で突っ込んでくる謎の飛行物体など、十中八九撃墜対象だ。
なので向かうならレーダーの感知を避けられて最新のステルス戦闘機が望ましいが、それでは航続距離が足りないかも知れない。
だからこそ、使い捨てのゴテゴテとしたロケット推進を突貫で取り付けて、燃料がなくなったら切り離してポイーである。
地上への落下を開始した時点でロシア連邦に感知されてしまうだろうか、気づいても連絡や対処が間に合うとは思えない。
それに一応コンピューターでルート計算をして、人の居ない場所に落とすことになっているので、多分大丈夫だろう。
とにかく、機体がバラバラにならなければヨシだが、トールギスでもないのに、これに搭乗するパイロットは殺人的な加速を味わうハメになってしまったのだった。
結果から言えば、たとえステルスさえも感知するレーダーに捕捉されたとしても、対処が間に合わないほどの速度で、日本の基地からロシア連邦の端っこまで、ほぼ最短ルートで突っ切ってきた。
そのせいで機体の赤いランプがピカピカ光っており、ぶっちゃけ原発がメルトダウンするよりも早くに、空中分解しそうであった。
(いつものこととはいえ、どうしてこうなったんだろう?)
今は最先端の軍事用AIに全てを任せて飛んでいるが、警告アラームがやかましいので切っている。機械操作に疎くても音声入力が可能なので、私でもそれぐらいはできる。
しかしいくら世界が平和とはいえ、万が一のために軍事的な備えをしておいて良かったと、今だけはそう思った。
「稲荷神様。間もなくチェルノブイリ原発の直上に到達します」
ステルス戦闘機の内蔵スピーカーの向こうから自分そっくりの機械音声が聞こえてきた。
なお、そんなこったろうと予想していた私は、完璧にスルーして私は気を引き締める。
ちなみに当然のことながら酸素マスクもパイロットスーツも必要ない完全な生身で、いつもの巫女服と下駄という普段着である。
「わかりました。指定ポイントにて投下。あとは作戦通りにお願いします」
「了解致しました。ご武運を」
そう言って人工知能の音声が切れたことを確認した私は、徐々に速度が落ちてきた戦闘機のコックピットハッチが、自動で開いたことを確認する。
警告ランプは相変わらず赤く点灯しているので、空中分解どころかエンジンが爆散寸前だろうが、最初から片道切符なので想定の範囲内だ。
「ドイツまで飛べれば良かったのですが、無理そうですね」
私は短い付き合いだが、ここまでお世話になったステルス戦闘機に別れを告げて、軽く座席を蹴って跳躍する。
元々超高速で移動していたので、みるみる機体が遠くに離れていき、やがて遠くの空で赤い火花が散ったのを見届けるのだった。
一方私は、機体の座席ではなく足場のない空中に飛び出した。
時間にして数秒程度で、すぐに地球の重力に引かれて落下を開始する。雲の海を突き抜けて、物凄い速さで地上に近づいていくのがわかる。
「事前に衛星写真を見ましたが、アレで間違いないですね」
割とギリギリだったが作戦通りに、チェルノブイリ原発の直上で戦闘機を乗り捨てられた幸運に感謝して、私は狐火を噴射して軌道修正を行う。
「ええと四号炉は、……あそこでしょうか?」
事故は四号炉で起きたと聞いていたので、衛星写真と照らし合わせながら落下していく。爆発の痕跡が残っているため、すぐにわかった。
途中で目を凝らすと、対爆スーツを来た白い人たちが、現場で右往左往しているのがわかった。
正史でもこっちでもメルトダウンは阻止できなかった。
その後は物語やゲームに何度も出てくるほど全世界を震撼させたのだが、この世界は私というイレギュラーな存在がある。
「……狐火!」
落ちながら戦うわけではないが、両手を四号炉に向けた私は、空中で大声を出して青白い狐火を生み出す。
これまでとは違い、桁外れに大きな青い火の玉が、チェルノブイリ原発の直上に突如として出現した。
現場の職員たちは空を見上げて驚きの声を上げるのが、私にもはっきりと伝わってくる。
「行きなさい!」
短い言葉と同時に巨大な火の玉は最初はゆっくり降下を始めて、次第に大きさと勢いを増しながら、やがて四号炉に到達する。
結果的に四号炉を中心として、チェルノブイリ原発の全てが激しく燃え盛る青白い炎に包まれる。
当然職員たちも巻き込まれるため、現場は大混乱となった。
だがしかし、不思議なことにまるで熱くない。
一体何が目的で放たれたのかと疑問に思い始めた頃に、異常に気づいた職員が大声を上げる。
チェルノブイリ原発の核燃料が残らず消失し、放射能汚染も除去されていると。
日本の対策会議で議論を交わしたところで、原発で異常が起きたとしても、それが具体的に一体何で、どうすれば解決に導けるかは結論がでなかった。
だがそこで起きる問題は、ほぼ必ずと言っていいほど核燃料や放射能汚染が絡んでいるのは間違いない。
なのでここは、臭いものに蓋をするのではなく、全てを焼き尽くしてしまえいいと、いつもの脳筋ゴリ押し的な思考で今回の作戦を思いついた。
狐火は炎を喰らえるのだから、核燃料や放射能も頑張ればいけるかも! と、日本で実際に試したら成功した。
その後に稲荷神様のお考えが失敗するはずもないと信じて、事前に用意してあったステルス戦闘機の最終決戦仕様に搭乗させられ、私の単騎駆けが決行されたのだった。
そういった諸々の事情があり、職員全員が唖然とする中でチェルノブイリ原発の敷地内に、私は華麗に着地した。
それから程なくして、目を離した間に原発の外まで伸びていた狐火が消えたことで、周囲の核燃料や核廃棄物、人体に害のあるレベルの放射能汚染物質をあらかた焼き尽くしたのだと理解する。
「何とかなって良かったです」
あとはこの場を速やかに立ち去って日本に帰るだけだが、既に周囲を大勢の職員と銃を持った警備員に囲まれているので、何もかもがトントン拍子に進んだわけではなかった。
(囲みを突破するだけなら、簡単だけどなぁ)
狐っ娘の身体能力ならば包囲網からの脱出は容易だ。
しかし不法入国と原発内への許可なく侵入し、原子力発電や核燃料の破壊、さらに公務執行妨害まで追加されるとなると、日本の立場的に不味いことになるのは確実だ。
「リトルプリンセス。申し訳ありませんが、ご同行願えないでしょうか?」
「わかりました。しかし、日本の代表としての待遇を希望します」
日本語を話せる職員が居て助かった。
自国と連絡を取るために通信機器は用意してきたが、今頃は強行突入の理由を説明するために、政府間交渉の真っ最中だろう。
胃痛に苛まれている外交官に、これ以上余計な仕事を増やしたくなかった。
「もちろんです。我がロシア連邦は国賓待遇以上を保証致します」
そう言って現場の職員たちは身なりを正して整列し、現場の代表らしい中年男性と私の通る道を、まるで赤絨毯やモーゼのように、きちんと整列して開けてくれた。
「急ぎホテルをご用意致します。まずはそちらで、ゆるりとお寛ぎください」
その言葉を告げる彼は、よく見るとビシッとしたスーツの着こなしが所々乱れていた。
それに周囲から羨ましそうに見られていることから、他に多くの案内役の立候補者たちとガチバトルすることで、権利を勝ち取ったのだろう。
何にせよ、一国の代表がこれ以上やらかすのは不味い。
日本からお迎えが来るまで大人しくしていようと、にこやかな表情の彼に案内されて、仮宿であるロシア連邦のホテルを目指して歩き出すのだった。




