ホテルニュージャパン火災
昭和五十七年になり、ホテルニュージャパンで火災が発生した。
発生時刻は二月八日の午前三時頃だったので、完全に深夜である。
なお出火の原因は、九階の九百三十八号室に宿泊していたイギリス人で、その男性宿泊客が酒に酔って寝タバコをしたのが原因らしい。
ちなみにその時の私は、家ですやすや眠っていたが夜中にふと目が覚めた。
珍しく早めに起きたが、最初はすぐに寝直すつもりだった。しかし、たまには月を見ながら酒を飲むのも良さそうだと、気が向いたのだ。
そうと決まれば善は急げで布団から起き出して、手頃な酒とツマミを用意する。色々あったが、パッと目についた柿の種っぽいものを選ぶ。
なお場所は縁側ではなく、月を見ながらなので高いビルの屋上に決める。
聖域の森を駆け抜けて外に出た瞬間に地を蹴って、適当なビルの屋上までひとっ飛びである。
抜群のバランス感覚で酒とツマミを落とすこともなく、フェンスを飛び越える。そして深夜で人気のない屋上に、ゆっくり腰を下ろす。
一息ついた後は、ぼんやりお月様を見上げる。
「月が綺麗だね」
当初の目的を果たしたので、高い場所から周囲を見回し、東京の夜景を楽しみながらチビチビやる。
すると、何となく様子がおかしいなと感じる箇所があった。
「あっちは千代田区かな? 何だろう?」
小さな違和感だが気になったので目を凝らすと、電気の光ではない炎の揺らめきが視界に入った。
まだ火災が起きたばかりなのかオレンジ色の明かりも微かで、街の灯りに紛れて普通なら気づかないが、ほんの僅かな違和感でも見逃さないのは流石は狐っ娘の視力であった。
だがしかし、まだ現場を直接確認したわけではない。火事っぽいのが見えただけかも知れない。
もし誤報では消防署に申し訳がないし、あの神皇様がうっかりを!? とか明日の一面で赤っ恥をかきかねない。
まあ私が結構な頻度でやらかすのは国民に知られているが、別にわざわざ失敗する理由もない。
気が向いたので一杯やりに来ただけでスマートフォンは持ってきていないが、通報する気がないので必要ないだろう。
「……とにかく行ってみよう」
迷わず行こう。行けばわかるさの精神で、私は深夜の東京のビルからビルに飛び移っていく。
もし火事でなかったらそれで良し、安心して月見酒を楽しめる。
それにもし本当に火事だったら、流石に見て見ぬ振りはできない。
なので私は、千代田区の炎っぽい光が見えた場所まで、成り行きで酒とツマミを持ったまま急ぎ向かうのだった。
何処かの大きなホテルの前駐車場に到着すると、時刻は深夜だが人がちらほらと集まってきており、見上げると九階の窓に燃え盛る炎がはっきりと見て取れた。
消防車はまだのようだが、たまたま通りかかったタクシー運転手が通報したようで、もうしばらくすれば到着するはずだと、周囲の人の会話内容からそんな情報が明らかになった。
「しかしおかしいですね。スプリンクラーが作動していません」
前に大火事になった千日デパートは、たまたま電気工事中だったらしい。なのでもしかすると、このホテルも同じかも知れない。
しかし今はそんなことはどうでも良く、重要なのは火の勢いは衰えずに、ひたすら燃え広がり続けるということだ。
これでは避難が間に合わずに消防が駆けつける前に、大勢の死傷者が出てしまう。
「案ずるより産むが易しですね」
周りに居る人たちは、お忍びではなくいつもの紅白巫女服なので私のことに気づいている。しかし、一定の距離を保って話しかけてこない。
真面目な顔で思案しているので邪魔しては悪いと気を使ってくれたのだろうが、何にせよ大まかなだが方針は決まった。
「すみませんが、しばらく預かっていてください」
「えっ!?」
一番近くに居たタクシー運転手に、ついつい持ってきてしまった酒とツマミを、半ば強引に押しつける。
「では、行きますか」
入り口から一階ずつ登っていくと時間がかかり過ぎるし、火元が何処かは外から見ても丸わかりだ。
なのでその場で軽く地面を蹴って跳躍し、火の勢いがもっとも強い九階の窓ガラスを素手で叩き割って、燃え盛る炎の中にその身を躍らせる。
「狐火! 広域展開!」
消火にはこの手に限るとばかりに、両手から放出した狐火に高温の炎を喰わせていく。
実際にはバカの一つ覚えでコレしか使えない。
だがしかし、四百年かけて初期スキルの応用を思いついただけでも、私にとっては大きな一歩である。
実際に狐火は地面や壁を這うようにして高速で広がり続けて、瞬く間に九階の隅々まで行き渡り、特にそこまでは命じていないが勝手にかき消えた。
「ふむ、狐火が消えたと言うことは、多分そういうことなのでしょう」
結構な数をこなしたので落ち着いたもので、狐火が一斉に消えたことで消火が完了したと判断した私は、大きく息を吐いて肩の力を抜く。
(私が後処理や怪我人の治療を手伝ってもいいけど、素人だからなぁ)
人外の身体能力を怪我の治療に活かせるわけでもなく、近衛やお世話係を連れていない。
そんな今の私では、現場の足を引っ張ってしまう。
なのであえて何もせずに立ち去ることに決めて、突入時にぶち抜いた窓まで、トコトコと歩いて行く。
縁に足をかけたところで、ひょっこりと顔を覗かせ、ホテル前の駐車場に集まった人混みを視界に収める。
野次馬はまだそこまで多くないと判断した後は、躊躇うことなく宙に身を投げ出して、人が少ない空間をめがけて降下する。
念の為に狐火を放出して軌道修正するつもりだったが、幸い自分の降下場所に集まってくることもなく、音も小さく綺麗に着地する。
地面に降り立った私は、すぐに周囲をキョロキョロと見回す。
そして一人の男性を見つけて、真っ直ぐに彼に歩み寄る。
「お酒とおツマミを預かってくれてありがとうございます。
あとは現場の方々にお任せしますので、私は先に失礼しますね」
呆然としている男性タクシー運転手に、にこやかに笑いかけ、預けていた酒とツマミを返してもらう。
そしてペコリと頭を下げたあと、軽く地面を蹴ってあっという間にビルの屋上に降り立つ。
思わぬ事態に遭遇してしまったため、今から月見酒という気分ではなくなってしまった。
かと言って家に帰って寝直すには中途半端だ。
私は、この後どうしようかなと悩みながら、稲荷大社を目指してビルからビルへと飛び移っていくのだった。
今回のホテルニュージャパン火災だが、多数の怪我人が出てしまった。
そして管理人が、利益第一主義で防災に対して無関心で、東京消防局も『適』の合格点を与えていたのが大きな要因になっていた。
さらには経営者が日頃から独裁的な経営を行っていたり、避難行動に不向きな内部構造だったり、電気代の節約のために加湿器を停止したりと、叩けば埃がボロボロと出てきたのであった。
しかし同じく昭和五十七年に、良いニュースもあった。
リニアモーターカーが盛岡駅や新潟駅に繋がったのだ。
それが新聞の一面を飾ったことで、もはや自分の知っている二千二十年の日本を越えたのだと、強く実感したのだった。