過去の日本
完結まで、毎日二話投稿予定
地元の女子高等学校に入学してからそろそろ一年が経つ頃、私はいつも通りに軽めの朝食を取り、指定の制服を着て通学路を歩いていた。
やがて山の奥の神社へと続く階段の前を通りがかったとき、突然物陰から小狐が飛び出し、道路を横断しようとしたのか、小走りに走り去っていく。
しかしそこに運悪く普通乗用車が高速で突っ込んできたのを見て、私は深い考えもなく小狐を助けようとして、勢いに任せて飛び込んでしまった。
このままだと車に轢かれると本能的に察したのか、驚きに固まっていた狐を抱えて。私は体を丸める。だがもうすぐ近くまで迫っていた自動車は、咄嗟にブレーキを踏んでも手遅れであり、すぐに体に強い衝撃を受けて、吹き飛ばされ宙を舞う。
私は微かな浮遊感の後、何処かに叩きつけられたのか激しい痛みを感じた瞬間、意識がプッツリと途切れたのだった。
それからどれだけ気を失っていたのかわからないが、私は奇跡的に目を覚ますことができた。
「あっ…あれ? 生きてる?」
正直何が起きたのか全く理解が追いつかないが、とにかく命があっただけでも良かった。しかし最後の瞬間を思い出すと車にはねられたのは確実なので、慌てて飛び起きて、何処か怪我はないかと、体中をペタペタと触る。
「怪我は、…ないのかな?」
血も出ていないし痛みも感じない。とにかく元気いっぱいで安堵するが、いくつかおかしいところもあった。
まず医者の治療を受けたにしては治療の痕跡が何処にもないし、そもそも自分が目覚めたところが病院ではなかった。
「何で私、神社の境内で倒れてるの?」
キョロキョロと周囲を見回すと、自分の倒れている場所は鬱蒼とした木々に囲まれており、奥には小さなお社が建てられている。そこには小さいながらもお稲荷様の木像が祀られていた。
物はかなり古いようで、風雨で色あせたり湿気で苔むしたりしていたが、まだ雨漏りはしていないようだった。
境内も草茫々で荒れ放題なことから、ここには人があまり立ち寄らないのかも知れない。
「自分の服装も変だけど、一番おかしいのが…」
現在違和感がもっとも酷いのがこれで、私は地元の女子校の服装を着ていたはずなのに、それがパッと見た感じでは、紅白色の巫女服に変わっており、白足袋と下駄まで履いている。
さらに怪我の具合を確かめる時にあちこち手で触れたときに気づいたのだが、人間の耳があった部位には何もなく、頭頂部に獣の耳が、お尻の少し上の辺りからは獣の尻尾、長く美しい狐色の髪まで伸びていた。
おまけにまるで巨人が住む山に迷い込んだかのように、視点もかなり低い。と言うよりもこれは、自分自身が縮んでいると考えるのが普通だろう。
「嫌だなぁ。触ったら感覚あるし、神経通ってるのかな」
嫌だ嫌だ…と嘆きながらも、このままじっとしてても始まらないので、私は行動を起こすことに決める。
とにかく何かしていないと不安な気持ちが際限なく膨らんできて、今の訳のわからない状況の重圧に押し潰されて、泣き崩れて一歩も動けなくなってしまいそうなのだ。
その点では、いくら考えてもわからないことは無駄だとスッパリ割り切り、イノシシのように一直線に突っ走る性格が幸いしたとも言える。
でなければ、ちんちくりんの獣っ娘になって見知らぬ場所で目覚めた時点でパニックになり、何もする気が起きずにいつ来るかもわからない救助を待ち、最終的には飢えや乾きで命を落としていただろう。
取りあえず動き始めた私は、奥には小さな社があって、反対側には獣道に近い曲がりくねった下りの参道が続いていることを確認し、もし誰かに助けを求めるとしても、山を下りないと難しいだろうなと考えた。
「はぁ…携帯電話があれば、家族と連絡が取れる? んっ…あれ?」
今は巫女服一式以外は完全に手ぶらである。しかしたとえ携帯電話を持っていても、周囲には落ち葉や雑草、あとは高い木々や茂みぐらいしか見えない。
ここまで自然が豊かな山には入ったことがないが、現在地が不明の深い山中では、電波が通じるか怪しいかもと不安に思い始めた。
だがそれ以前に、何故か家の番号がわからない。しかしこれは電話帳に頼り切っているせいで、そのうち思い出すだろうと気楽に考える。
だがとにかく今は人に会ってから考えようと、荒れ放題の参道を歩くが、尻尾や耳、そして下駄という風変わりな格好でも、抜群のバランス感覚で疲れもせずにスイスイと下っていく。
子供の歩幅の狭さも、何のそのである。
「でも私って、こんなに運動得意だったっけ?」
ろくに整備されていない山道を、下駄で転ばずに歩くのは難しい。
特に自分は、休日は結構な頻度で家に引き篭もっていたので、運動靴を履いて山道を歩けばすぐ転ぶ自信がある。
試しに二度、三度と軽くステップを踏むと、不安定な足場でもふらつくことなく着地し、ビシッと片足立ちができた。
「うっ…うーん、わからないことだらけだよ」
だが今は、とにかく人に会うことが最優先だ。今は木漏れ日が差し込んできているが、もし日が暮れたら、灯りがなければ山道はまともに歩けなくなってしまう。
どのぐらい歩けば人里に辿り着くのかはわからないが、私は首を振って不安をかき消して、とにかく歩みを止めないように努めたのだった。
下山しながら自分の体のことを色々と試していたら、いつの間にか日が暮れてしまい、山道は暗闇に包まれていた。
「暗闇でも見通せるんだ。……凄い」
辺りが暗くなって不安に苛まれたが、心配はいらなかった。やはりこの体は人間ではないのでは…と、察してしまうほど夜目が効くのだ。
しかも慌てて灯りになるものをと探した時に、青白い火の玉を手の先に作り出したのだから、これはもう完全に妖怪だ。
「でも獣の妖怪はわかるけど、猫か犬か狐か狸か」
お稲荷様の社の前で倒れていたのだから、多分狐っ娘だろうとは思うが、鏡がないので実際の自分の姿はよくわからない。尻尾は確かに狐っぽいのだが。
あと青い炎なのだが、これは私の思い通りに浮遊させられるようで、今は自分の一メートル先に設置して、灯り代わりに便利に使っていた。
「あれは、……街路灯かな?」
前方を見ると、木々の隙間から何か小さな光が見えた。しかし街路灯にしてはあまり明るくないし、白ではなくオレンジっぽい色をしているので、何か変だ。
だが何はともあれ荒れた山道を抜けて、土がむき出しでアスファルト舗装はされていないが、ようやく下道に出ることができた。
「ふいー、長かったよ」
山道から一般道に下りた私は小さく息を吐いた。山の入口付近には自分が倒れていたところで見たような小さな社が建てられていた。
そしてこちらにもお稲荷様の木像が祀られていたので、これはきっと分社だと見当をつける。
だがようやく人里に着いたからと言って、ここで気を抜いてはいけない。とにかくまずは電話を借りるのだ。
かなり精神的に参っているが、体だけは元気いっぱいの私は、山の中から見えた灯りを目指して、再び歩き出すのだった。
どうやらここは山間のど田舎らしく、薄暗がりの中にのどかな田園風景が広がっていた。とにかく周囲をキョロキョロ見渡しながら、えっちらおっちらと人を求めて歩き回る。
参道を下りていたときに微かに見えていたので、あれが街路灯でなければ、誰も居ないということはない。
その証拠に、あちこちに掘っ立て小屋らしき簡素な住居はあるが、どの家も明かりが灯っている様子はない。
「もしかして、今って深夜なんじゃ?」
時計がないので正確な時刻は不明だが、深夜なら皆寝入っていて電灯をつけていないことが考えられる。
だがそれ以前に電柱も街路灯も何処にもないので、電気が通っていない可能性がある。
「困ったよ……まさか、ここまでど田舎だとは」
今の私は出合い頭に通報されたくないので、青い炎は消している。やはり田舎なので空気が澄んでいるのか、星や月の光もあってかなり明るく照らされている。
流石に熟睡中にお邪魔するのは悪いので、誰かまだ起きている人は居ないかなと、木製のあばら家を外から眺める。
それにしても窓ガラスさえついていないとは、どれだけ貧しいのか。…これは電話を借してもらえないかもと、私はここに来てまた、辛い現実に打ちのめされるのだった。
下道を歩き回ってしばらく経った頃に、ようやく明かりが灯っているあばら家を見つけた私は、喜び勇んで下駄のままで器用にスキップしながら近づいていく。
そこは村の家の中では少しだけ立派だった。それでも私から見れば五十歩百歩だが、多分この地区では一番裕福なのだろう。
そして、この状況を打開するための助けになることは確かなので、少し緊張しながら玄関らしき引き戸の前に立って、近所迷惑にならないように口を開く。
「あの、夜分遅くに失礼します」
「……ん? こんな夜更けにどなたかな?」
聞き慣れた言語があばら家の奥から聞こえてきたので、やはり日本だったことを確認できて、心底安堵する。
お稲荷様が祀られているのでそんな気はしていたが、ここが外国でなくて本当に良かった。
嬉しくなって一瞬こちらから扉を開けようかと思ったが、獣耳の聴覚は優秀なようで、足音が徐々に近づいてくるので、向こうに任せようと少し離れてソワソワしながら待つ。
「一体誰じゃ……はっ?」
「ど、どうも」
白髪交じりのおじいさんが玄関の引き戸を開けて、私を視界に収めた瞬間、固まってしまう。
いきなりのドアップでは刺激が強いので距離を取ったのだが、それでも精神的動揺は避けられなかったらしい。
「貴方、一体どうした……の?」
奥からもう一人おばあさんらしい女性が出てきたが、そちらも私を見て石になったように固まってしまった。
自分でさえどうしてこうなっているのかわからないので、何か聞かれたら獣人のコスプレだと強引に誤魔化すつもりだ。
とにかく今は、現状を打開するために取れる手段は限られているので、速やかに実行に移すまでだ。
「……あの」
「はっ!? なっ、何じゃ!」
「電話を貸して欲しいのですが」
「でっ……電話? はて?」
おじいさんが再起動して、隣のおばあさんと顔を見合わせる。しかしやけに服装が質素というか、色が薄くて地味な気がする。
周りの家もそうだし、現代日本の田舎でももっとマシな生活水準のはずだし、おまけに二人共電話を知らないらしく、首を傾げている。
「稲荷様の言うような、電話…とかいうものは、とんと聞いたことがないのう」
「そっ……そうですか」
この時点で私は嫌な予感がして、若干の冷や汗をかいていた。お年寄りは神様を信じている者も居るが、現代社会ならまずは良くできた仮装を疑うべきだ。
ただでさえ夜中に突然来訪した怪しい人物なのに、お稲荷様だと一目見て断言したのだ。さらに家の中には電話どころか家電製品が一つもない。
正直尋ねるのが怖いが、これで聞かなければ先に進めないので、私は大きく息を吸ってはっきりと質問する。
「ちっ、ちなみに、今は何年で、ここは何処かわかりますか?」
「確か永禄に変わったばかりじゃったか? のう婆さんや」
「ええ、そうでしたねぇ。そしてここは三河ですよ。稲荷様」
日本ではなく三河と来たものだ。しかも永禄とか、私は歴女ではないのでその年代に何があったかはまるで覚えてない。それでも今が戦国時代だということだけは、辛うじて知っていた。
これが時代劇の撮影や、村ぐるみのドッキリ企画ならまだいい。だがもし二人の言うことが本当だとしたら。
もう帰れないかも知れないという絶望の余り、思わず腰が抜けてしまった私は、これまで気にしないように努めていた現代日本の家族のことを考えてしまい、余計にショックを受ける。
(家族と私がどんな名前と姿だったのか。全然思い出せないよ)
道理で自分のことながら、私としか表現できないわけだ。日本の家族や私、それに友人関係の記憶のみが、綺麗サッパリ消えてしまっている。
狐っ娘に乗り移らせた何者かが、こちらの時代で暮らすために未練を断ち切ったのか。
何にせよ、自分が何処の誰かがわからないと言うことは、思った以上にショックだった。
「どっ、どうしたんじゃ! 急にへたり込んだりして!?」
「あらあら大変。稲荷様、大したもてなしはできませんが、あがっていってくださいな」
顔を青くしてへたり込んでいる私を見て、あからさまに動揺するおじいさんと、こちらに近づいて優しく背中を擦ってくれるおばあさんのご厚意に甘えて、足取りはフラフラでも、何とか自分で歩きながら、家の中へと入れてもらう。
今の私は告げられた真実と、向こうの人間関係だけが消えてしまった記憶を受け止めきれずに、これからどうして良いのか、まるでわからなくなってしまった。
目から涙が次から次へと溢れて止まらなくなり、子供のように恥も外聞もなく、大声で泣き喚く。
そのあとは何があったか覚えてなくて、気がつくと麻の服を上からかけられたまま、木枠の窓の隙間から朝日が差し込んでいたのだった。