第74話 愛ゆえに壊される
ナイフを突き刺した場所から血しぶきが舞い、生暖かい血が少し頬にかかる。
ぐじゅりと音を立てる柔らかい肉の感触が、コツンと当たる堅い首の骨の感触が、ナイフを通して手に伝わる。
生々しい、現実の感触として。
私は、気持ち悪いその感触に耐え切れなくなって、ナイフから手を離した。
しかし、明らかに致命傷なのにも関わらず、ナイフを離した後も橋川さんは倒れない。
倒れないどころか……なんと、橋川さんはゆっくりと私の方へ、体の向きを回転させ始めた。
気管まで貫通したであろう首に刺さったナイフから、こぽこぽと呼吸を試みている事を示す、赤い泡を立てながら。
思わず一歩、二歩と後ずさる。
それに続いて、護身用に腰に差してある他のリビングナイフを手に取ろうとする。
が、手が震えてうまく手に取ることが出来ない。
そうしてもたもたしている内に、橋川さんの体の向きはすっかりこちらの方を向いていた。
私はどれほどの感情を向けられるのだろうと、震えながらも橋川さんの顔を目に映す。
だが不思議なことに、映ったその表情に敵意はなく……ただ、寂しげな笑顔と、音を立てずに動く口だけが見えた。
『き っ と、理 由 が あ る ん だ よ ね?』
「っ!」
異常な私には分かってしまった。
振り返った橋川さんが口パクで、ゆっくりと、そう言っているのが。
痛みに苦しみながらも、最後まで私を信じて、一生懸命優しい表情を浮かべて。
「うぁ……あぁ……」
罪悪感で呻き声が出る。
殺意をもって危害を加えられたのにも関わらず、まだ私の事を敵視しないだなんて。
本当に、なんて……なんてお人好しだろう。
口パクが終わった直後、どさりと音を立てて、橋川さんがその場に崩れ落ちる。
言葉を残して、残された僅かな体力を使い切り、橋川さんが死んだことを私は理解した。
首のナイフから、赤い泡が出なくなっていたから。
最初に、私の心は罪悪感によって満たされた。
自分の身勝手によって、何の罪もない人を殺すという大罪を犯したという事実によって。
次に、私の心は虚無感に襲われた。
大切な友達を失ったという事実によって。
最後に、私の心を[幸福感]が満たそうとした。
努君の目的に、貢献出来たという事実によって。
早々に虚無感は消え去った。
私には、世界で一番愛おしくて、世界で一番私を愛してくれている人がいることを再認識したから。
幸福感が罪悪感を消し去ろうとして、分からなくなった。
どの感情が正しいのか。
喜びと悲しみがごちゃまぜになって、考えても、考えても、何を思えばいいのか分からなくなった。
そんな中、私はふと、こう思った。
努君ならどう考えるだろう、と。
結論が出るのに、そう時間はかからなかった。
私は、幸福感とぶつかってボロボロになった罪悪感を消した。
自らの、確固たる意思をもってして。
幸福感に包まれるのを感じながら。
ようやく頭の中の整理がついて、現実に戻ってきたとき、私は自分が涙を流していたことに気が付いた。
……何故、私は涙を流していたんだろうか?
作戦通り予定の部屋で橋川さんを殺害することに成功し、努君の目的に貢献した。
こんなに喜ばしいことはない。
涙を流すような悲しいことなんて、きっと、何もなかったはずだ。
そう、きっと。
私は疑問を振り払い、作戦の続きに移ろうとした。




