幕間 篠宮努という男の過去①
彼は、生まれた時からあまり泣かなかった。
もちろん赤ん坊の時は泣くこともあったが、週に一、二回程度のものだ。
泣かない代わりと言っては何だが、彼の視線はとても良く動いていた。
その視線の動きは、何かを探しているといったものではなく、周りで起きている事を隅々まで観察しているような動きだった。
彼は、生後数か月で両親の言葉を理解したかのような素振りを見せ始めた。
「おいで」と言われたらその未発達の体で呼ばれた方に向かって行ったし、「ママはどっちだ?」と聞かれたらきちんと母親の方を指さした。
この時点ではまだ、彼の両親はこの成長の早さを個人差程度にしか考えていなかった。
彼が一歳になったある日の朝、父親がいつも通り彼に「おはよう」と挨拶すると、なんと返事が返ってきた。
「パパ、おはよう」と。
父親は大きな驚愕と……ほんの少しの薄気味悪さを、彼に感じた。
いつから喋れるようになったのかと父親が聞くと、彼は「数日前、から、練習、してた」と、拙いものの、きちんと文章で言葉を返した。
父親は、彼が既に基本的な文法を理解していることを知ると益々驚愕した。
その後も彼は、異常なスピードで成長を続けた。
読書では、最初こそ絵本を読んでいたものの、あっという間に小説や新聞を読むようになった。
言葉のレパートリーも増えて、会話もスムーズに行えるようになっていった……大人と遜色ないほどに。
そんな彼を、両親は気味悪がった。
至って普通の自分たちの子供とは思えないほどの成長ぶりに、その異常さに。
虐待とまではいかなかったものの、両親は彼と距離をとるようになっていった。
無論、親としての最低限の事はしていたが。
当時、彼はなぜ自分が両親から距離をとられるのか理解できなかった。
三歳になると、彼は幼稚園に入園した。
彼は自分と同じ年齢の子供たちとの交流を普通に楽しみにしていたのだが、ほかの子供の様子を見て目を丸くした。
彼らのレベルが、一歳の頃の自分と大して変わらない……いや、もっと低いレベルにすら見えたからだ。
ここで、聡い彼はある可能性に思い当たった。
幼稚園の先生に、彼が普通に話しかけてみると、先生は驚愕の表情を浮かべた後、微笑んで彼と会話をした。
そして会話を終えて、彼が視線を先生から外したふりをすると……先生は彼の両親がよくするのと同じ表情を浮かべた。
ここで彼はようやく、自分のしていることが、能力が、普通ではないことに気が付いた。
そしてそれが、両親に距離をとられている理由だとも。
この問題を解決するために、彼は表向きの人格を作ることにした。
周りの子供たちの様子をじっくり観察し、どういった様子が普通なのか学ぶと、その日は出来るだけ目立たないように心がけて、家に帰るまでの時間を過ごした。
家に帰った後、彼は仮の人格のイメージを始める。
幼稚園のほかの子供たちを参考に、いたって普通の自分を、異常ではない自分を。
そうして彼は、新たな人格を自分の中に作り上げた。
それから彼は、人前では普通であるようになった。
最初は不完全なものだったため、度々本来の彼が出てきてしまっていたが、周りの様子を学習して、"普通の彼"の人格は徐々に完全になっていった。
まぁ、普通の彼の人格が完全になったと言っても、いわばこれは完璧な演技用の仮面であるため、思考の深いところでは本来の彼が経験を共有して、常に考えを巡らせているのだが。
突然普通になっていった彼に両親は最初は困惑していたが、普通の彼は両親とだんだんとよりを戻していった。
幼稚園でも、普通の彼は上手くやっていた。
先生があの表情を浮かべることは二度となかったし、距離をとられることもなかった。
彼は「成功した」と思うと共に虚しさも感じた。
何せ、愛されているのは本来の彼ではないのだから。
また、彼は人間がいかに騙されやすいかも知った。
両親でさえも、普通の彼が本来の彼でないことに気づかないのだから。
それでも彼は、普通の彼であることをやめなかった。
まだ幼い彼は、例え普通の自分が本来の自分でなくとも、自分の周りから誰もいなくなるのを恐れたのだ。
結果として、彼は小中学校でも普通であり続けた。
彼は人を信じない。
誰も本来の彼に気づかないから。
彼は人を愛さない。
愛を受けたことがないから。
彼は自我を晒さない。
同じ人間だと思われなくなるから。
そうして、彼が孤独という名の地獄を進むうち、彼の中から人間らしい情や欲は消えていくのだった。