アンクレットと夏の匂い : 裏
お姉ちゃんが亡くなってから十年と半年、お婆ちゃんが亡くなった。
病気でも怪我でもない。純粋な寿命、老衰だった。
「リサ、そこの食器片付けといて」
「……うん」
お母さんに言われて広間に向かうと、何十人分もの食器が広間に並んでいた。
お婆ちゃんの葬式に参列してくれた親戚や友人の人たちの数。お婆ちゃんの思い出を語りながら、皆が食事を取った後。
お姉ちゃんの時はこんなに並んでなかったのに。
生きた歴史の分だけ、その数は違ってくるのかもしれない。
私の時には、どれくらい並ぶんだろう。
お婆ちゃんが亡くなったばかりでこんなことを考えるのは、不謹慎かな。
『婆ちゃんなぁ、一つだけ、心残りがあんのよぅ』
お婆ちゃんの顔を見る。綺麗にお化粧されたその顔は、ただ眠ってるだけみたいだ。
その顔のどこを見ても、心残りがありそうな陰りなんてどこにもない。
「……お婆ちゃん、あっちであの人に会えたのかな」
お婆ちゃんの秘密。
亡くなる寸前まで、誰にも言わずにお婆ちゃんの胸の内だけに閉まわれていた秘密。今は、私だけしか知らない秘密。
『お婆ちゃんなぁ、守れないままの約束、ずっと放りっぱなしにしてんのよぉ』
お婆ちゃんの声を思い出す。
もう聞くことのできない、お婆ちゃんの声。もう頭の中だけにしか残ってない、お婆ちゃんの声。
お姉ちゃんの声は、もうほとんど思い出せない。
時間は残酷だ。こうやって少しづつ、私たちの中から思い出は無くなっていく。お婆ちゃんの声だって、そのうちに多分、私は――。
『きっともう、あの人も忘れてると思うけどねぇ。お婆ちゃんも最近まで忘れてたしねぇ』
それでも、お婆ちゃんは思い出した。古い生まれ故郷で別れた、大切な人との約束を。
お婆ちゃんは満州で生まれた。
十代の半ばまでを過ごしたその土地は、たとえ国籍は違っても、お婆ちゃんにとって大切な故郷だったんだ。
でも、そんな大切な故郷の話を、息子であるお父さんも、孫の私も、一度だって聞いたこともなかった。お姉ちゃんはどうだったのか、確かめようもないけど。
お婆ちゃんの口から故郷の話を聞いたのは、つい一週間前。
体調の具合が悪くなって、お母さんが勤める病院に入院したのが、つい一月前。たまたまお見舞いにやってきた私が見たのは、両手で顔をふさいで泣いているお婆ちゃんの姿。
なんで泣いてるのかなんて想像もつかなくて、お婆ちゃんのそんな姿なんて見たこともなくて、どうしたらもいいのかもわからず、私は無言でお婆ちゃんのベッド横に駆け寄った。
私に気付いたお婆ちゃんはすぐ笑顔になって、まだ目尻に残ったままの涙を拭き取って、ゆっくりとした口調で、秘密を打ち明けてくれた。
『婆ちゃんなぁ、一つだけ、心残りがあんのよぅ』
日本に行くことが決まった時、お婆ちゃんは一つの約束をした。大切な人との、守ることのできなかった約束を。
『あの人はなぁ、待ってるって言ってくれたのよぉ。帰ってこれるかもわからんあたしなんかを、ずっと待ってるって』
お婆ちゃんにとって日本は『行く』ところで、満州は『帰る』ところなんだ。
お婆ちゃんの言葉には、端々に故郷への思いが詰まっていた。それとももしかして、その人への思いだったのかもしれない。
『その時になぁ、足輪を貰ったのよぅ。あの頃は鉄が貴重品だったから、周りに知られないように、もんぺの下から身に付けられるものを作ってくれたのよぅ』
それがその人からの最初で最後のプレゼント。
飾り気も何もない鉄製のアンクレット。それがお婆ちゃんとその人との約束の証。
でもお婆ちゃんは、その約束を守ることは出来なかった。お婆ちゃんが日本に来た年の終わりに、戦争が始まったから。
『あれからもう、六十年以上経つのよねぇ。もう待ってるわけないのに、覚えてるわけないのにねぇ』
約束の証のアンクレットでさえ、お婆ちゃんは捨ててしまった。
もう帰ることのできない故郷に繋がる海へ、投げ捨てたんだ。
『捨てなくてもよかったのにねぇ。持っていてもよかったのにねぇ。謝りたい、謝りたいのよぅ。それだけがねぇ、心残りなのよぅ』
そう言って、お婆ちゃんが遠くを眺めていたのを覚えてる。
アンクレットを捨てたことが心残りなんじゃない。きっと、その人との約束を守れなかったことが心残りなんだ。
『お婆ちゃん! 私、お婆ちゃんの生まれ育ったところ見てみたい! もうすぐ夏休みだし、お婆ちゃんの体調良くなったらみんなで旅行に行こうよ!』
『……そうだねぇ。みんなで、行きたいねぇ』
『約束だよ! お父さんやお母さんには私から言っておくから!』
『はいはい。楽しみだねぇ』
その約束は、結局守られなかった。
私は、お婆ちゃんにまた一つ心残りを押し付けただけだったのかもしれない。
お姉ちゃんの時もそうだった。
五つ年上のお姉ちゃんは、あの頃の私にとって、神様みたいな存在だった。
何でも出来て、何でも知ってて、何でも助けてくれる、憧れの存在だった。
だからいつだって甘えてた。だからいつだってワガママ言った。
お姉ちゃんが見つけたって言う秘密の場所も、教えてくれなきゃイヤだって泣きじゃくった。
『今度連れてってあげるから』
もう声は思い出せないけど、その言葉は今でもハッキリ覚えてる。約束は守られることなく、お姉ちゃんは事故に遭って亡くなったけど。
あの頃のお姉ちゃんの年齢はもうとっくに過ぎたって言うのに、いつまで経ってもお姉ちゃんに追いついた気がしない。
私の時間は止まったまま。いつまで経っても、私は小さな妹のままだ。
お姉ちゃんの彼氏はどうなんだろう。
秘密の場所を共有した男の子が居るってことは知ってた。多分、何度か家に遊びに来ていたあの人だ。確か、アツシって言う人。
今も何度か街中でアツシさんを見かけることはある。友達と数人で歩いているところばかりで、女の人と一緒のところは見たことがない。たまたま私が見てないだけなのかもしれないけど。
アツシさんとお姉ちゃんは、お婆ちゃんたちみたいに何か約束してなかったのかな。
アツシさんは、今でもお姉ちゃんのことを好きでいてくれてるのかな。
……ううん、そんなはずないよね。
あれからもう十年以上経った。私が止まったままなのは、私がお姉ちゃんの身内だからだ。他人のアツシさんが、いつまでも覚えているはずがない。
積みあげた食器を台所へ運び終える。綺麗になった広間と、綺麗な顔のお婆ちゃんを見ながら、思う。
ねぇお婆ちゃん。お婆ちゃんは、その人に待ってて欲しかった? 約束を守っていて欲しかった?
私なら、待ってて欲しい。ワガママなのはわかってるけど、待ってて欲しいよ。
だけど、本当に待ってたら。
守れない約束を、ずっと信じてたなら。
それはきっと、すごく残酷なことだ。
傍目からじゃ美談に映るんだろうけど、来るはずのない人を待つ身にしたら、それはまるで、何かの罰。
果たされない約束は誰も救わない。誰も幸せになんかなれない。
だから、お婆ちゃんは――、
『謝りたい、謝りたいのよぅ』
安らかに眠るお婆ちゃん。あの時の懺悔みたいな言葉は、まるで似合わない。
まるで少女みたいな、幼い寝顔だった。
その寝顔の意味を知ったのは、この一週間後のこと。
お婆ちゃんが夢に出た。若い頃の姿で。あの頃のままお姉ちゃんと、一緒に。
『リサ』
その声が誰の声なのか、初めはわからなかった。
だけどすぐに思い出せた。
なんで忘れてたんだろう。こんなに優しかったあの声を。こんなに安心できるあの声を。
『お姉ちゃん……、お姉ちゃん!』
『そんなに大きい声出さなくても聴こえてるよ、リサ』
お姉ちゃんの姿はあの頃のまま。私が好きだったあの笑顔のまま。
隣に居るのは、見たことのない女の人。
土色に染まった服に、昔の人が穿くようなダボダボのズボン。まるでついさっきまで農作業してたみたいな格好の、私と変わらないくらいの歳の女の人。
見たことも会ったこともない人。だけど、すぐにわかった。
この人は、若い頃のお婆ちゃんだ。
あるはずのないことが起こってる。だけど何も不思議に感じない。だって、これは私の夢の中だから。もう会えないはずの二人に会えたって、若返っててたって、全然不思議なことじゃない。
『リサに、頼みたいことが、あるの』
若い頃のお婆ちゃんは日本語が苦手なのか、どこかたどたどしい話し方。あの病室で見た、遠くを見るような瞳は、全然変わっていない。
『迎えに、行ってあげて欲しい』
『迎え……? 誰を?』
『アツシくん。私の代わりに、アツシくんを迎えに行ってあげて』
質問に答えたのはお姉ちゃんだった。
お姉ちゃんはくるりと背を向けて、突然走り出した。たまに止まって、私の方を見る。
追っかけてこいって言ってるんだ。
私は走り出す。お姉ちゃんの後について駆けていく。懐かしい。懐かしすぎて、涙があふれ出た。
お姉ちゃん、お姉ちゃん――。
お姉ちゃんの背中に伸ばした手は何も掴めずに宙を泳ぐ。私の手は、天井に向かって伸びていた。
……夢は終わったんだ。そう思った瞬間、伸ばした手に月の光が差した。
光は私の手を通り過ぎて、部屋の入り口に佇む背中を照らす。
「……お姉、ちゃん?」
小さな背中が扉をすり抜けていく。急いで部屋を出ると、廊下の角でお姉ちゃんが待っていた。
『連れてってあげる、リサ。私とアツシくんの秘密の場所に』
背中が再び駆け出していく。それを必死に追いかけて、私は裸足で外に飛び出した。
夜の匂いがした。月の光が道を照らす。
お姉ちゃんはたまに立ち止まって私を待っている。夢と同じだ。
お姉ちゃんは小さい身体のままなのに、私は必死に走ってるのに、追いつけない。追いつくことができない。
待ってよ、待ってよお姉ちゃん。
私、お姉ちゃんにずっと聞きたいことがあったんだよ。
私、私は……! お姉ちゃんにとって、私は……!
――どんな、妹だった?
ワガママばっかりで、助けてもらってばっかりで……! そんなバカな妹だったけど、そんな私でも、お姉ちゃんにとって私は、いい妹でいられてた? お姉ちゃん……、お姉ちゃん……!
『リサ』
お姉ちゃんの声が、後ろから聴こえた。
振り返るとそこには、あの頃のままのお姉ちゃん。
私は、いつの間にか、お姉ちゃんを追い越していた。
『私にとってリサは、最高の妹だったよ』
そう言って、お姉ちゃんは私の背後を指差した。
そこにあったのは、月の光に照らされた浜辺。その浜辺に寝転ぶ、一人の男の人の姿。
『アツシくんに、よろしくね――』
霞むようなその声に振り返ると、お姉ちゃんの姿は消えていた。
涙のせいで、もうほとんど何も見えない。自分の泣き声と波の音しか聴こえない。
――ちゃんと見るんだ。
ここが、お姉ちゃんの秘密の場所。お姉ちゃんが大好きだった人にしか教えなかった、大好きな場所。
涙を拭う。大きく息を吸う。――目を開く。
防波堤に囲まれた、小さな砂浜。港の端に出来たおまけのような小さな空間。お姉ちゃんとアツシさんの二人だけの世界は、こんなにも、こんなにも小さな世界だったんだ……。
涙がまたあふれてくる。ダメだよ、まだやらなくちゃいけないことがあるのに。
アツシさんに、伝えなくちゃ。
お姉ちゃんの思いを。お婆ちゃんの思いを。
止まらない涙を拭いながら、私は砂浜を駆けていく。
海の匂いがする。月の光が砂浜を照らす。
私の時間は、ようやく動き出した。