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アンクレットと夏の匂い

 

《アンクレットと夏の匂い : 表》




 瓶に詰まった手紙が海の向こうからやってくる。そんな本を小学生の頃に読んだのを覚えている。

 どんな内容だったかはうろ覚えだ。確か、手紙を拾ったのは男の子で、手紙を出したのは病弱の女の子で、その手紙がきっかけで二人は心を通わせる、そんな話だった気がする。

 なんでそんな話を思い出してしまったんだろう。今の僕が置かれた状況とその話とじゃ、まるで中身が違うと言うのに。

 僕の手の中にあるのは手紙の入った瓶ではなくて、潮の香りを色濃く残したままの預かり物。錆びのこびりついた鉄のリングが、月の光を反射して鈍く輝いていた。


「一体どうしろって言うんだ……」


 寄せては返す波音だけが僕の言葉に答えてくれる。何を言ってくれてるのかは全然わからないけれど。

 誰もいない夜の浜辺。僕以外には誰も来ない、僕と彼女だけの秘密の場所だった。あの人が来るまでは。


「これを、預かっていて、くれませんか」


 その声はまるで波音の一音のように、僕の耳に自然に溶け込んできた。

 月の光しか差さず、潮騒の音だけしか聴こえない。そんな場所で背後から突然話しかけられたと言うのに、小心者であるはずの僕の心は、少しも取り乱すことはなかった。

 振り返ると、そこにはどこか儚げな目をした一人の女性が立っていた。

 茶色に染まった薄汚れた服に、縞模様のダボダボとしたズボンといった、どこか古めかしい様相に身を包み、月明かりに輝く黒髪は一縛りに括られ、背中に隠れてしまうほどに長かった。

 年下のように見えるけれど、なぜか年上のような雰囲気を感じた。どこか達観しているような、儚げな瞳のせいかもしれない。

 痩せ細ったその手から差し出されたのは、鈍く輝く鉄製のリング。

 彼女はそれを僕に預かってくれと言う。初めて会ったばかりの、見ず知らずの僕に。


「ただ、持っているだけで、いいんです」


 その言葉を残して、彼女は去っていった。

 あれからもう一週間。預かり物の主は、いまだ現れない。

 もう二度と現れないかもしれない。そんな気がするのは、彼女の存在があまりにも希薄だったからだろうか。

 どこから来たのか、どこへ行ったのか、始まりと終わりが霧のようにおぼろげで、交わした会話さえ蜃気楼のように曖昧だった。

 夏の夜、つかの間のこの世ならぬ者との邂逅。そういうことなのかもしれない。

 しかし、それならば、この預かり物はあまりにも矛盾している。

 希薄だった彼女の存在とは真逆に、このリングには確かな重みがあった。

 どれほどの月日をこのリングは過ごしたのだろう。どれほどの人間に関わってきたのだろう。どれほどの思いを背負ってきたのだろう。

 見た目以上の重さが、その小さな器に込められている。僕には審美眼も鑑定能力も、ましてや超能力の類の力など全くないと自負できるけれど、その思いだけは、確信に近いくらいに強く感じている。

 リングを月にかざす。月の灯りを一身に吸収しているかのように、それは強く輝く。だけれども、その光には痛みがない。突き刺すような鋭さではなく、注ぐような柔らかさ。それ故に思うのだ。このリングには、強く、優しく、大きくて、確かな何かが込められているのだと。


「……お前は、なぜ僕の元に居るんだ?」


 口を持たない者に語りかけて、僕は己が心を平静にする。

 このリングを見ていると、心がざわざわと掻き立たせられる。あるいは、僕の魂が、かもしれない。

 目を閉じる。潮の香りが鼻をなでる。

 不意に、この場所を教えてくれた彼女のことを思い出した。

 幼い頃から思い続けた、ただ一人の女性。

 もう触れることも、話すことも、歳を取ることも出来なくなってしまった彼女。

 彼女は中学校にあがる前にこの世を去った。

 化粧をすることも、着飾ることも、女性としてのたしなみなど意識する前に、彼女は逝ってしまったのだ。


「僕が持っているよりも、君が持っていた方が……」


 言いかけて、口をつぐむ。

 口を持たない者に語りかける。同じ行為でありながら、もたらす結果はまったくの真逆。

 彼女がこの海に来なくなって、――来れなくなって、もう何年もの月日が流れたと言うのに、僕の心はいまだ囚われつづけている。

 毎日のようにこの海に通い続けて、大学生になった今でも、僕は彼女が帰ってくるのではと、心のどこかで待ち望んでいる。彼女はもう逝ってしまったのだと、頭では理解できても、心はそうしようとしない。

 囚われているのだ。自分の妄想に。どこかにあったかもしれない、彼女がいる未来に。

 目を開く。鋭く尖った三日月が視界に映りこむ。手の中には、鈍い光を有した預かり物。


「今さら一つ二つ増えても、変わらないか」


 もうすでに囚われているのだ。この不思議な預かり物が、新たな鎖になろうとも構わない。

 待ち続けてみよう。待つのは慣れている。この数年、そればかりを繰り返してきたのだから。

 ザッザッと砂を踏みしめ、何気ない様子で彼女がこの場所にやってくる。そんな在り得るはずのない光景を、もう何年も待ち続けているのだから。

 ほら、目を閉じれば、今にもその音が聴こえてくる。僕を待たせまいと、少し早いリズムを保って砂を踏みしめる音が聴こえてくる。

 ザッザッザッ。

 ザッザッ――ザッ!

 足音が止んだ。

 その最後の一音が、僕の心臓をも、一瞬止めた。

 果たしてこれは現実か。それとも妄想の産物か。僕には、境界がわからない。

 足音の先に、彼女が立っていた。

 在り得るはずのない光景が、待ち望んだ瞬間が、あまりにも突然に、僕の傍らに佇んでいた。


「はぁ……はぁ……う、うぅ……うああぁぁんッ!」


 彼女は泣いていた。

 息も絶え絶えに、頭を垂れてヒザにもたれながら、嗚咽をあげて泣いている。その姿がかつての彼女の姿と重なって、僕は自分の身体の奥から込み上げるもの何かを抑えることができなかった。

 彼女のわけはない。なのにこの幻影は、なんて残酷なものを僕に見せるのだ。

 目の前で泣いている少女が顔を上げる。その泣き顔を見て、ようやく理解できた。

 リサだ。五つほど歳の離れた、彼女の妹。

 もう何年も会っていない。彼女の葬式の時以来、一度も顔を見たことはなかった。会おうともしなかった。会えば、こうなることがわかっていたから。

 感情が止まった。心の仮死状態。

 僕は、僕の心を守るために、僕であることを、止めたのだ。


「アツシさん……、アツシさん……ッ!」


 リサの声が僕の心を抉る。

 その声で僕を呼ぶな。その目で僕を見るな。

 それ以上、彼女の面影を有したその存在で、僕を刺激しないでくれ。

 大体、なぜリサがこの場所を知っているんだ?

 この場所は、僕と彼女だけの場所だった。二人で沈む夕日を眺め、二人で秘密を語り合い、二人で季節の移り変わりを感じ、二人だけが共有した世界の全てがここにあった。

 それを、なぜリサが知っているんだ?

 止めたはずの感情が右手にこもる。預かり物が悲鳴のように、カチャリと音を発した。


「……そ、それ……ッ!」


 音に釣られて、リサはそれに気付いた。

 あの不思議な女性から預かった鉄製のリング。その存在に気付いて、リサは膝から砂浜に崩れ落ちた。


「う、あぁ……! お婆ちゃん、お姉ちゃん……! 待っててくれたよ……! 待ってて、くれ、……う、うぅ……!」


 考えてみれば、不思議な光景だった。

 両手で顔を抑え涙に暮れた少女を、死んだような表情で、ただただ見つめる男。傍目には、今生の別れと映るのか。それとも、もつれた愛情の結末と映るのか。

 突然現れた彼女の妹。想像すらしていなかった訪問者に、僕はただただ時が過ぎるのを待つしかなかった。

 何も言うことはなかったし、何も言ってほしくなかった。

 けれどリサは、僕の願いなどお構いなしに、僕の心を抉った。


「アツシ、さん……。私、アツシさんに伝えなくちゃいけないことが、……あるんです」


 彼女によく似た声が、僕の感情を追い詰める。

 彼女によく似た上目遣いが、僕の心を捉える。

 彼女によく似た仕草が、僕の魂をざわつかせる。


「もう、……待たなくて、いいんです……! もう、これ以上……、待たなくても、いいんです……!」


 モウ、マタナクテ、イイ。

 何を言ってるんだろう。意味が理解出来ない。

 ――それは嘘だ。

 理解出来ないんじゃない、理解しようとしていないのだ。


「も、う……待たなく、て……っぐ、いいん、です……! あ、あぁ……」


 込み上げる嗚咽の狭間で、リサは必死に僕に叫び続ける。

 頭では理解している。もう彼女はここにはやってこないのだと。もう彼女は帰ってこないのだと。もう、彼女を待つ意味はないのだと。

 リサが言わんとしていることは、多分、そういうことなのだろう。

 わかっていた。……わかっていたんだ。

 それでも、僕は待っていたかったんだ……!

 彼女のことが好きだった自分自身を無くしたくなかった!

 彼女を置き去りにして、自分だけ大人になりたくなかった!

 いつまでも少女で居つづける彼女と一緒に……、僕は、少年のままで、いたかったんだ……!


「……ぅ、っぐ、……あ、あぁ――うわああぁぁっ!」


 右手の中にあったリングが、砂浜に落ちていく。

 止めたはずの感情が決壊する。

 留めたはずの心が時を取り戻す。

 少年の頃、彼女を思い続けた日々の記憶が、嵐のように身体中に吹き荒れる。ぶつかり合い、削り取り、そこにあったはずの大切なものたちを、虫食いのように穴だらけにしていく。

 その痛みは僕は大人にする。――彼女を一人、置き去りにして。


「うわああぁぁッ! ……っぐ、う、あぁ……ッ! ごめん、ごめん……! ごめんなさい、……ごめん、なさい……ッ!」

「アツシさん……う、うあぁぁん!」


 溢れだした感情は、もはや止めようがなかった。

 罪悪感と失望感が僕の心を押し潰す。少年のままの心が耐えられるはずがない。こうして泣いていられるのは、僕がもう、あの頃の僕ではないからだ。心に嘘をつき続けて、僕は少年のままで在り続けようとしていたんだ。


 僕らは泣いた。抑えることなく、涙の限りに泣いた。

 誰かに許しを請うように。

 宝物を無くした子どものように。

 もう泣くことのできない彼女の分まで、泣いた。


 砂浜に落ちたリングは、ただただ鈍く輝いていた。

 

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