籠の中の三日月
――何故だろう。
この場所に来ると、僕は思わずそう自問してしまう。
草が絡み付いた竹垣に手を触れる。かすかに風に混じる緑の匂いと、かさりとした手の平への感触が心地良い。
でも、何故だろう。そんな心地良さなど気休めにもならない程に、僕の心は押し潰されている。
理由さえわからず、ただただ何かから逃げ出したくなる。この場所に来ればそうなるとわかっているのに、それでも来ずにはいられないのだ。
――何故だろう。
問いの答えは返ってこない。それを確認するための作業。無益なことこの上ない。無意味なことも、同様に。
そんな僕を嘲るように、猫は欠伸し、顔を洗う。
空を見れば雲一つない快晴。古くからの迷信は、今回に限っては外れのようだ。
その猫は今日も籠の中に居た。
昔ながらの藁ぶき屋根の家々が立ち並ぶ通りの一角で、僕は竹垣越しにとある一軒家の縁側を眺めている。
いや、正確には、縁側に置かれた籠の中に居る一匹の黒猫を眺めている。
竹で作られた大きな籠。
猫一匹が丸くなる分には充分すぎる大きさとは言え、本来自由奔放なものであるはずの猫にとっては、それはけして広いと言えないだろう。
けれども猫は、全身を覆う黒い毛並を舐め繕ったり、丸くなったり、背伸びをしたり、今目の前でしているように顔を洗ったりもする。
本来の生き方とは掛け離れてた生活のはずなのにも関わらず、籠の中から覗かせるその瞳はとても穏やかだ。
僕には猫の気持ちを知る術などないけれど、そう感じた。
――何故だろう。
無益な行為がまた一つ重なる。答えなど出るわけがない。問いの意味すらわからないのだから。
猫が顔洗いをやめ、籠の中でも日当たりの良い場所に移動し、丸くなる。
夕刻の赤い光が 猫の額に籠目の模様を作る。
黒毛に浮かび上がる赤い籠目。その下には幸せそうに細められた瞳がある。
――何故だろう。
あの猫は幸せなのだろうか。あんなにも狭い世界にいつも閉じ込められて、不満はないのだろうか。
額に何かの感触がする。虫が停まったのかと思ったが、それは額から溢れ出た汗だった。
またしても、ずいぶん長い間この場に立っていたようだ。
ここに来ると時を忘れる。
何かに没頭するとはこのことだろうか。その対象が何なのかすらもわからないと言うのに。
不意に、視線を感じた。
隣の家から小さな女の子がこちらを見つめている。きょとんとした表情で、関心がこぼれ落ちそうなくらいに瞳を大きく開きながら。
女の子と目が合う。
好奇心を隠そうともせず、女の子はこちらを見ることをやめようとしない。
何故だか、無性に罪悪感やら羞恥心やら、とにかく後ろめたい気持ちが沸いてくる。
額の汗が急に存在感を表し始める。先ほどまではようやく気付くことが出来る程成りを潜めていたのに。
視線に背を向け、竹垣から手を離す。
かさりとした柔らかい感触だった草は、僕の汗を吸ったのか、しなりと萎れていた。
帰ろうとしたその時、籠の中から猫の鳴き声が聴こえた。
僕を呼んだのだろうか。そう思って縁側へと目を向ける。
籠の中に、月が浮かんでいた。
二つ並んだその月は、籠の目から僕を照らす。夕焼けの残り火が、二つの月を赤く染める。
――何故だろう。
幾度も呟いたその問いが、急に輪郭を描き出す。
幻のように形ないものが、実体を手にしていく。
ああ、そうか。そういうことか。
猫よ。僕は何を問うていたのか、ようやく悟ることが出来た。
僕は知りたかったのだ。
僕は訊きたかったのだ。
何故、お前はそんなにも――、
そんな狭い世界に閉じ込められながら、僕の視線を受け止め続けながら――、
何故そんなにも、自由で居られるのかと。
赤い月は姿を消し、再び眠りに就いてしまった。
籠の中からはもう声はしない。たまたま視界に映った一人の男のことなど、猫にはどうでも良いことなのだ。
再び視線を感じた。僕には振り返ることは出来ない。
――あの猫のようには、なれない。
いつものように押し潰された心を引きずりながら、帰路を歩く。
小さな世界の中でも、あんなにも自由になれたなら。
限られた世界の中でも、あんなにも自分を保っていられるなら。
それは、生きていると言えるのだろう。
何故、僕にはそれが出来ないのか。
何故、僕はあんな風に生きることが出来ないのか。
街灯が点り始める。光の枠が僕を囲む。
新たな問いが、頭の中で響いた。
――果たして、籠の中に居るのはどちらなのだろう。
余程滑稽な問いだったのだろう。天が口を歪ませて笑っている。
夜空に映える、見事な三日月だった。