神城鋭治 様
拝啓
時下御健勝にて何よりと存じます。お陰様で私共も、主人と娘の未来と親子三人で健やかに過ごしております。
さて、先ずは神城様に一言お詫び申し上げ無ければなりません。本来であれば家長である主人から一筆御礼の手紙を差し上げるべき所なのですが、「いかなる形であろうと、あの男とは二度と関わりたく無い」と申しておりますので、家内の私が筆を取る無礼を何卒お許し下さい。
その上で、改めて御礼申し上げます。あの日神城様がなさった御決断で、娘の未来の命は救われました。全て貴方様の御蔭です。どんなに言葉を重ねても表せない程、感謝しております。
ただ連日のマスコミの報道で、あの時の行動で神城様が様々な困難に晒されていると聞き及び、心を痛めております。
しかしながら、良心のある方々というのはまだまだいらっしゃるものですね。全国の有志の皆様による神城様に対する減刑嘆願の署名が200万人を突破したとの事。大変心強く感じております。
今や世論の大勢は、貴方様のあの時の判断を支持して下さっている様です。殆どの識者の方々も、まず実刑になる事は無く執行猶予が付くだろうと仰っています。私共もそうなる事を心より願っております。
警察の仕事は御自分から辞職なさったと伺いました。なんと申し上げれば良いのか、言葉も有りません。今はただ、神城様に受けた御恩に報いる意味でも主人と二人で力を合わせ、娘が真っ直ぐに成長する様、命を懸けて守り抜く所存です。
娘は、未来は、簡単に授かった訳では有りません。8年に渡る不妊治療を経てやっと私共の所へ来てくれた、正に主人と私にとって掛け替えの無い『未来』なのです。
主人は会社を経営する立場に居る事もあってか、決して自尊心の低い人ではありません。不妊治療を続ける中で色々と愉快とは言えない思いもした様です。それでも私には一言も不満をこぼす事は無く、その腕に小さな命を抱く日を夢見て、只々懸命に努力してくれました。
それだけに、未来が産まれた時の主人の喜び様は尋常な物では有りませんでした。仕事では常に冷静沈着な人が、まるで子供の様に泣いて笑って、それはもう大騒ぎをして。
未来の成長を見守って行く中で、主人は随分と変わりました。それまでは仕事一筋、会社を大きくする事が全ての様な生き方だった人が、週に二日は休みを取り、娘と私と三人で過ごす時間を大切にしてくれる様になりました。笑顔を目にする機会も以前とは比較にならない程に増えて、私自身娘が産まれた事で、初めて主人と本物の家族になれたと感じておりました。
6年間、常に我が家の中心には未来の笑顔が有りました。主人と私は未来の笑顔を守り、未来の笑顔が主人と私を守ってくれていました。『幸せ』という言葉の本当の意味を、主人も私も娘から教えられたのです。
それ程迄に掛け替えの無い大切な大切な存在だからこそ、あの夜貴方様が電話で仰った「5千万円払えば、どんな手を使ってもお嬢さんの居場所を聞き出して命を助ける」との申し出を迷う事無く御受けして、指定された口座にお金を振り込んだのです。
正直に申し上げます。今回こうして筆を取らせて頂いたのには、二つ理由が御座います。先ずは何よりも、未来の命を救って頂いた御礼を申し上げる為。今一つは神城様に御理解して頂ける様、御願いする為です。無礼を承知で書かせて頂きます。神城様には金輪際、私共に関わって頂きたく無いのです。まさかその様な事は無いと信じておりますが、もしも、万に一つ、神城様が私共に対して改めて金銭を要求する様な事がありましたならば、私共は直ちに警察に全てを話す覚悟で御座います。
その場合、恐らく私共にも何らかの法的制裁が下される事となるでしょう。しかし主人も私もとうに覚悟は出来ております。今回の事件の全てが詳らかになった場合、より困った立場に置かれるのは神城様ではないかと思われます。貴方様が賢明な御判断を下されると信じております。
娘の恩人に対し、大変失礼な事を申し上げているのは重々承知しております。しかし先日主人がポツリと漏らした「あの男のやった事は、誘拐犯が身代金を要求する行為とそれ程違うとは思えない」という言葉。私はそこまではっきりとは申しませんが、ただ主人の言葉を強く否定する気にもなれないというのが、忌憚の無い所で御座います。
あの夜貴方様が電話で仰った通り、確かに今の私達夫婦にとって、5千万円というのは生活に支障が出る程の金額では有りません。しかし主人と私が二人三脚で育てて来た今の会社は、元々は従業員が5人の小さな町工場だったのです。あの頃の艱難辛苦を、5千万円というお金の価値を忘れてしまう程、主人も私も呆けてはおりません。
あの夜振り込ませて頂いたお金は、勿論神城様の物です。それに関しては何の異存も御座いません。御好きな様に使って頂いて結構です。ただ、改めて申し上げて置きます。私共は神城様に対してこれ以上、一銭たりとも支払うつもりは御座いません。その点、くれぐれも御留意下さいます様宜しくお願い致します。
長々と失礼な事を書き連ねました事、何卒ご容赦下さい。
末筆ながら、神城様の御多幸を私共家族三人心より祈念致しております。
________________________________________敬具
6月23日
_____________________________________笛吹櫻子