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八話 全てを破壊する者

 剣崎巽。ヴァルーと本当の意味で手を取り合い、獅子のイマジナリーに囚われた男、高槻成一を救う。彼の命までも守ることは叶わなかったが、最期に彼は正義のヒーローであることを二人に託した。街もいよいよ彼をヒーローとして正式に認め、彼は戦いの意思を新たにするのだった。



――巽は必死に走っていた。道路が割れて炎が噴き出し、突風が吹き荒れビルのガラスが割れ飛び散る。天は既に煤煙で真っ黒に染まっている。あちこちから人々の悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえる。しかし構うことなど出来なかった。巽は真っ青な顔で後ろを振り返る。街の中心に立つシティタワーを薙ぎ倒し、一体の竜が咆哮していた。七つ頭を王冠で飾り、一際豪奢な三重の玉冠を被った真ん中の頭には禍々しく捻れて生えた十本の角が伸びている。空を覆い尽くさんばかりに巨大な翼を広げ、竜は首をもたげて一斉に巽を見つめる。


「やめてくれぇっ!」


 巽の掠れた懇願も虚しい。竜は巨大な火の球を飛ばし、一瞬にして神凪市と巽をこの世から消し去ってしまった――



「うっ! ……そ、そうか。夢か……」


 ベンチからがばっと跳ね起きた巽は、荒くなった息を整えながら周囲を見渡す。木陰のベンチで、すっかり巽は寝入ってしまっていた。周りを見回しても、ケチのつけようがない晴れ模様の下、古びてくすんだ文系棟も、ペンキも真新しい理系の実験棟も、等しく白い光を浴びていた。隣を見ると、薄い文庫本を開いた乾が、苦笑しながら巽を見つめていた。


「悪い夢でも見てた? 随分うなされてたけど」

「……まあね。あんまりいい夢じゃなかったよ」

(ディクリエーションに触れた影響だろうな。ついでにあんな無茶するから精神的に疲労が溜まってるんだろうよ)


 力なく笑う巽を見かね、ヴァルーがブツブツと呟く。目の前に湧く意識の泉も、今日は少し湧きが悪かった。


「あの時はああするしかなかった。悪夢なんて今に始まったことじゃないし、どうにでもなるさ」

(本当かよ、ったく)


 いつものように平静を保っているように見せる巽に、ヴァルーはむっとして舌打ちする。


「ヴァルーが巽くんの心配するなんて、ちょっと変わったね」


 読み終えた本を閉じた乾は、巽のこめかみ辺りをつついて笑う。うずくまっていたヴァルーだったが、からかい混じりの口調に苛立ち外へ飛び出してきた。


「うるせえな。お前に俺の何がわかるんだよ」

「さあね。でも、前ならきっと馬鹿にするだけだったでしょ」

「はっ! 今でもバカにしてるっての。バーカ」


 小さな翼を広げ、ヴァルーは子どもっぽくムキになって巽をなじる。その必死さがかえって滑稽だ。巽は肩を竦めると、ヴァルーを掴まえ自分の中へと押し込んだ。


「はいはい。分かったからこんなところでいちいち外に出てこないでくれ」

(へいへい。わーったよ)

「そういえば乾ちゃん。今まるでヴァルーの言葉が聞こえてたみたいな言い方だったけれど……」

「最近聞こえるようになったの。よくわかんないけど」


 新しい本を取り出しながら、乾は首を傾げる。今も、ヴァルーの厭そうな唸り声が聞こえていた。狐に摘まれたような顔で彼女を見遣り、巽は顎を手で擦る。


「本当に? それはまた何故なんだろう」

(こいつの出歯亀気質のせいじゃねえのか? こいつクリエーションは有り余ってるからな。盗聴くらいわけねえだろ)

「聞こえてるんですけど。巽くんが心配で付いてってるのよ」


 乾は再び巽のこめかみをグリグリと指で突く。ヴァルーは舌をぬっと出すと、ケラケラ笑いながら尻尾を振った。


(怖え怖え。これじゃあ悪口も言えやしねえな)

「はあ?」

「痛い痛い。僕が痛いんだからね、考えてくれないか」

「あ、ごめん」


 巽を挟んで口喧嘩を始める乾をそっと制する。頬を赤らめた乾はそろそろと右手を引っ込める。しおらしくしている彼女に、ヴァルーは笑いが止まらなかった。


(けっ。仲の良いこった)


 ヴァルーの言葉にますます頬を赤らめた乾は、せっかく開きかけた本を鞄に戻して慌ただしく立ち上がる。目は宙を泳ぎ、仕草もどこかぎこちない。


「あー、もうゼミの準備しなきゃー。じゃあね。巽くん」

「それじゃあね。でも気をつけるんだ。最近物騒だし」

「……大丈夫。そんな遅くならないし」


 ふと表情を曇らせた乾は小さく頷き、そそくさと立ち去った。黒のカーディガンが風に吹かれてひらりと揺れている。


(殺人事件か。何時の世も一番物騒なのは、人間だよな)


 ヴァルーの他人事じみた口調に、巽は浮かない顔で頷く。


(……出来ることなら自分も何とかしたいけど)

(さすがにお前が何とか出来るこっちゃねえだろ。イマジナリーが関わってるってんなら話は別だけどよ)

(ああ。さすがに犯人を探すだなんて、そんなバカなことは言わないさ……)


 巽はうつむく。自らの存在を誇示するように表で暴れ回る大きな脅威には颯爽と現れて立ち向かうことが出来る。しかしヒーローは結局それまでの存在だった。裏から迫りはびこる根深い脅威に対抗する術など、彼らは持ち合わせていないのだ。空を見上げて巽は嘆息する。


(ヒーローと認められても……結局無力なのは無力なんだな)



 十月も終わりに差し掛かったこの頃、神凪市で連続殺人事件が起きた。警察の警戒も嘲笑うかのように、数日おきに人が殺された。ある日は南の海辺で、またある日は北の山間で。神凪市全体が標的とされていた。だからといって街の様相は変わらない。どうせ街中にいれば大丈夫、と自らが狙われることなど想像もしていないようだった。だからその日も人は死んだ。神の出払った神凪市に、強い嵐が吹き荒れていた。



「下がって! 下がってください!」


 合羽を着込んだ若い警察官の怒号が街に響く。慌ただしく周辺に進入禁止テープが張られていく。近く近くへと集まってくる野次馬や記者を押し戻してコーンを置き、日常から異常を切り離す。そこは、思わず目にした人が顔を背ける、酷烈な現場が広がっていた。


「派手にやったものだな」


 蝙蝠傘を開き、激しい雨を受けながら黒いスーツに身を包んだ少年が呟く。その目の前には、五体がバラバラになって潰れた死体が広がり、鑑識がチョークで跡を書き残し、どうにか拾えるものだけ選んで拾っている。腕や足はまだ綺麗な形を残していた。しかし頭は砕けて脳漿を撒き散らし、胴体も潰れて肉が地面に貼り付いてしまっている。そんな惨劇の割に、飛び散った血の量は余りに少なかった。隣に立つコートを着た大男は自らを濡れるに任せ、回収されていく死体を冷静に見守る。


「ここで殺されたものではないだろう。どこかでバラバラにした後、ここから放り投げたんだ」

「犯人は間抜けなのか? ここまで派手にすれば足がつく可能性も高かろうに」


 少年はむくれたような顔のまま顎を持ち上げ、半ば見下すような視線を送りながら呟く。一方男の方はのろのろと首を振り、低い嗄れ声で応えた。


「違う。ここまで派手になると捜査がむしろ難しくなる。目撃者の視線は手法の残酷さにばかり行き、初動捜査の一つとして主流になりつつあるプロファイリングも突飛な結果を導き出すばかりで役に立たん」

「そういうものなのだろうか……」


 男の言葉に少年は首を傾げる。とはいえ、朝散歩していたら首がビニール袋に入れられて公園の看板にぶら下げられていた、花に交じって人間の手が植えられていたなどという余りに冒涜的な殺人の誇示は、そちらにばかり目が向いて、肝心の犯人へ繋がる情報の重要性を薄れさせていた。有り体に言えば、二週間ほども断続的に殺人が続きながら、警察はろくな手がかりを得られていなかったのである。男は彫像のように身じろぎ一つせずに立ち、死体が掻き集められる様子を観察していた。


「しかしこれほどまでに無茶苦茶な手段が取れるとなれば、もしかすると我らが絡んでいる可能性もあるな」

「そいつは何をやっているのだ。面白半分に人間を殺すことなど許されるべきことではない」

「恐怖を与えるという手段においては、この手法は効果的かもわからん。この街は今連続殺人で話題が持ち切りだからな」


 不機嫌そうに口を尖らす少年とは対照的に、男はあくまで無表情を崩さず徹底的に分析を試みている。少年はひたすら首を傾げていたが、小さなシャッター音が聞こえて少年はちらりと野次馬達の方に振り返る。彼らが恐怖を感じている様子など無かった。能面のような顔で見ているスーツ姿の中年、空々しく怖いとか何とか隣の青年に言っている女子高生、携帯のカメラを構えている少年。切り離された異常の世界を、何の脅威も覚えず彼らは見物していた。気に入らないような顔をすると、少年はぼそりと呟いた。


「そうか? 誰も怖いとは思っていないようだが?」

「怖いと思う人間は見物などすまい。行くぞ。もう十分だ」

「はーい」


 二人は人混みをするりと抜けると、街を行き交う人の流れに紛れ、静かに消えていった。



(もうこんなに暗いなんて)


 連日ゼミやレポートに追われて図書館に閉じこもっていた乾は、六時を指す腕時計をちらりと見て慌ただしく自転車を漕ぎ出す。暗くなったとはいえまだまだ人通りは多いが、乾は最近一抹の不安を抱えていた。


(……まただ)


 乾はいそいそと自転車を漕ぎながら唇を噛んだ。遠くから視線を感じる。その感覚は外に出た瞬間から、止むことがない。怖くなった乾は、ますます自転車の足を速めた。

 最近、誰かにつけられている気がしてならなかった。建物の外にいる間、ずっと誰かに見られている気がした。少しでもじっくり見られるのを避けようと、地下鉄で通学していたのをわざわざ自転車に変えた。そのお陰で少しはその視線が軽減されたような気もしたが、最近はまた視線を感じる日々を送っていた。


(気持ち悪い。いい加減にしてよ)


 自転車を停め、不意に後ろを振り返る。しかし相手のストーキング技術は相当なものらしく、それらしき人影は一切窺えない。それがなお一層の彼女の不安を煽る。手に冷や汗が滲むのを感じながら、乾は再び走り始めた。

 彼女は集団の中ではあまり目立たない方だった。自分なんか不細工だなどと自分を卑下することもないし、もしそうすればむしろ不興を買うくらいの容貌を持っていたが、暇さえあれば本を開き、ナード系の女子とよく関わっている彼女を狙う男はいなかった。幼馴染の巽との仲の良さをからかわれることもあったが、彼女はあくまで彼は幼馴染ということにし続けてきた。そんなだから今まで彼女は男がらみのトラブルに巻き込まれる事などなかったし、これからもないだろうと思っていた。

 突き刺さるような視線に、乾は冷汗が背を伝うのを感じる。ニュースでは損壊した死体が見せびらかすように遺棄される事件でもちきりだった。警察は必死に情報提供を求めるが、未だ犯人の特徴らしき情報も上がっていない。これに気を良くして居座っている犯人が、とうとう自分にまで目を付けたのではないか。不安がひたひたと彼女の心に迫っていた。

 まるでその予感を裏づけでもするかのように、視線は彼女を捉え続けている。叫び出したい思いを堪え、乾は暗く静かな住宅街をひた走った。タイヤの回る音しか聞こえない。歩いてなどとても追いつけないような速さで走っているのに、振り返れば何もいない。車も、自転車も、はたまた黙して追走する未来の殺人鬼も。それが彼女を余計怯えさせた。心臓が早鐘を打ち、彼女の耳にまで聞こえ始める。もう怖くて仕方がない。


(……もういや)


 乾はようやく自分の家に辿り着くと、自転車を入口の前に転がし店の中に飛び込んだ。冷や汗でびっしょりになり、乾はドアにもたれかかってその場にへたり込む。蒼ざめた顔の彼女に気付いた壮二郎は、訝しげな顔で立ち上がった。


「どうした、乾」

「ストーカーがいるの……怖い」


 乾は携帯を取り出すと、乱暴に電話番号を打ち込み耳へ押し当てる。普段の元気さが欠片も無い孫娘の様子に、普段呑気な壮二郎もおろおろと歩き回る。


「ストーカー? 何てことだ。警察に言わないと……」


 祖父がいそいそと動き始めたのをよそに、乾は電話先の相手――巽に向かって息も絶え絶えに囁く。


「巽くん、来て、助けて」

『乾ちゃん? どうしたんだ』


 乾の悲痛な口調に、彼は真剣そのもので尋ねてくる。しかしそんな真面目な態度すら今の乾にはもどかしい。彼女は携帯を握り締め、思わず叫んだ。


「いいから、早く来てよ!」


 電話の奥で息を呑む音が聞こえた。数秒して、落ち着き払った彼の声が応える。


『……わかった。今行く』

「お願い。……とにかく早く」


 乾は携帯を切ると、その場にだらりと腕を落とす。胸が抉られたように疼き、苦しい。糸の切れた操り人形のように崩れ、乾は荒い息を吐き続けていた。



 三十分後、巽はココアの入ったカップを片手に乾の部屋へそっと足を踏み入れた。


「ココアを入れてきた。飲んで少し落ち着くといい」


 そう言って巽は顔を曇らせる。彼女はすっかり怯えきり、タオルケットを頭から被ってベッドの隅に小さくなっていた。窓の外に向けられた目は虚ろで、死んだ魚のようになっている。巽はそっと側に腰を下ろすと、椅子を引っ張ってきてその上にカップを置く。


「安心するんだ。ストーカーなんかに手出しはさせない」


 言葉も無く乾は頷くだけだ。今も小刻みに震えている。ふわりと出てきたヴァルーは、そんな彼女の萎れた表情を見てケラケラ笑う。


「なっさけねえなあ。コソコソしてる奴にビビることなんてあるかよ。お前らしくもねえ」


 そう言って彼女の目を覗き込もうとしたヴァルーだったが、乾の鋭い抗議の眼差しに思わずたじろいでしまう。


「んだよ。そんな目で見んじゃねえ」

「……乾ちゃん。ヴァルーはこんな言い方しかできないが君のことを心配しているんだ。怒らないでやってくれ」


 ごそごそと背中の方へと隠れたヴァルーを尻目に巽が肩を竦めると、乾は上目遣いで巽を見つめ、もぞもぞ隅から出てきてカップを手に取る。


「わかってるよ……別に」

「ああー、駄目だ。困った困った」


 心底残念そうに呟きながら壮二郎も乾の部屋に入ってきた。ただでさえ下がり気味の眉尻がさらに下がって、八の字のようになっている。


「どうしたんです?」

「いや、警察に娘がストーカー被害に遭っているようだと連絡したんだが、確固たる情報もないのに言われてもこちらとしては動けないと来たもんだ」

「それはそうですよ。まずは役所に行くのがセオリーですから。でも役所は不親切だし、ストーカーを示す証拠がなくては動いてくれないでしょうね」

「そうか……相変わらず巽くんは詳しいな」


 立ち上がった巽に壮二郎は嬉しそうな笑みを浮かべる。


「柳葉さんから教わりましたからね」

「なるほど、彼が……」


 腕組みしながら呟く壮二郎をよそに、巽は窓辺に立って周囲を威嚇するように見渡す。元々街灯が少なく暗いのもあるが、怪しい人影は見当たらない。それはヴァルーの方にしても同じだった。


「どうだいヴァルー。何か感じただろうか」

「いや。ここを覗けるような場所にいるなら大人しくしててもわかるんだけどよ」


 身を乗り出してヴァルーも窓の外を見渡していたが、やがて彼も首を振る。巽は眉間にしわを寄せると、納得行かないように鼻を鳴らす。


「そうか。乾ちゃんに状況を聞いた限りでは、イマジナリーが関わっている可能性が大きいように思ったんだけれど」

「まあ、生身ならって話だ。あのロキみてえに、人間の中に潜みやがったら密着する勢いじゃねえと見つけられねえ」

「人がイマジナリーの手を借りてストーカーか。愚かだね。色々な意味で」


 握った拳を窓の枠に叩きつける。ガラスが震え、鈍い音が部屋に響いた。もう一度巽は威嚇の目を窓の外に送ると、カーテンを閉め切り乾の方に振り返る。


「乾ちゃん。当面は僕が君についていよう。そのストーカーが殺人鬼だったりイマジナリーだったりした場合を考えても、そうした方がいい」

「いいの?」

「当然さ。君が襲われたらって考えたら、おちおち戦っていられない」


 巽は柔らかく微笑む。乾はようやく恐怖に固まっていた頬を緩めると、小さく小さく頷いた。


「……ありがとう」

「ったく。もうお前ら付き合っとけよ」


 げんなりしたヴァルーは吐く振りをして見せる。しかし二人は頬を赤らめながらちょっと見つめ合っただけで、結局何も言えないまま俯いてしまった。



 翌夕、二人(と一匹)は連れ立って住宅街を歩いていた。ストーカーから怖い思いをして逃げ続けるくらいなら一気に釣って捻り上げちまえ、というヴァルーの託宣があったからだ。とはいえ怖いものは怖い。乾は色々着込んで普段以上に身体のラインを隠していた。


(そんなにビビってんのかよ)

「だ、だって。今も何か見られてるっぽいし……」


 乾は身震いして後ろをちらちらと窺う。何であれ乾に脅威を与えるなら許しておけない。さっと顔をしかめた巽は、そっと乾に耳打ちする。


「乾ちゃん、どこから見られてる気がするんだい?」

「……あの辺り」


 乾は電柱の上辺りを指差す。巽はじっと目を凝らすと、意識の底で丸くなっているヴァルーに尋ねた。


(感じるかい。何か)

(おうおう。ビンビンに感じるぜ。その裏辺りに何か潜んでやがる)


 首をもたげると、ヴァルーはにやりと笑って立ち上がる。自分の出番だとやる気十分だった。


(よしわかった。変身しよう)


 彼が言うやいなや、巽は竜燐の戦士ドラグセイバーへと変わる。その瞬間に彼の視線の向こうでバタバタと物音が聞こえた。彼は懐に手を突っ込んでプラスチック製の使い捨てナイフを取り出すと、竜燐の投げナイフへ変えて鋭く投げつけた。それは夕日を浴びながら一直線に飛び、宙にすとんと突き刺さる。


「痛い、痛い!」


 目の前の景色が歪んだかと思うと、死装束に身を包んだ真っ白い肌の男が現れ、目の前でべたりと倒れた。手にはナイフがさっくりと刺さっている。よろよろと起き上がると、海老のように飛び退きぎょろぎょろとした目で巽達を見上げる。


「ひ、ヒーローなんて反則だ!」


 頭に三角の白い布を引っ付けたその顔を見て、巽は顎に手を当て首を傾げる。


「これは……幽霊のイデアか……?」

(あー……わかんねえ。たぶんそうなんだけどよ、世間に結び付き過ぎてて幽霊は性質が不安定だ。そんなんでこのストーカー野郎と結びついたせいで完全に性質が持ってかれてるな)


 二本目のナイフを抜いた巽を前に怯える幽霊を眺め、ヴァルーは困ったように首を傾げる。イマジナリー特有の意思が見えなかった。巽にとってはどうでもいい。ナイフを手の内で弄び、じろりと幽霊を睨み付ける。


「なるほど。とりあえず下手なコスプレではない以上、多少お仕置きしても構わないというわけだ」

「やめてくれ! ぼ、ぼくは何にも悪いことをしていない! ただ、古書店で一目見て惚れちゃったから、目が離せなくなって……それだけなんだ!」


 男の必死の弁解を、巽は鼻で笑ってナイフをしまう。


「そうか。なら流血沙汰はやめておこう。擦り拳骨されるのと尻を蹴られるのと、どっちがいいか選びたまえ」

「そ、そこの子にされるんなら、どっちでも」

「へ、変態だぁ……」


 男はなよなよと手を合わせてふざけたことを言う。乾は思わず鳥肌立てると、巽の背中にさっと身を隠す。一年に一度するかしないかの舌打ちをかまし、巽は指の関節を鳴らして男を睨み付ける。


「両方か。喜んでやらせてもらうよ」

「ま、待って! 助けて、ひゃいーっ!」


 情けない悲鳴を上げると、男はしゅるしゅると飛んでいなくなってしまった。その速さたるや、瞬きする間に米粒ほども小さくなって、とても追える距離ではなくなっていた。


「……逃げたか」

(なんつーか、気の毒だな。情けなすぎてよ)

「ただ暴走というまでには至っていなかったということさ。これを放置するとひどいことになるのは目に見えている。あのイデアの力、やろうと思えば乾ちゃんの部屋に侵入することだって出来たはずだ。……まだ気は抜けないね」


 拳を握りしめて闘志を新たにする巽。彼の頼もしさに安堵の溜め息を洩らす乾だったが、漫然とした視線を感じてぱっと口をつぐむ。


(……何だろ。まだ何かに見られてるような……)


 しかしストーカーは追い払ったばかりだ。さすがに気のせいと思い、乾は黙っておくことにした。



 草木も眠る丑三つ時、目の当たりにした竜戦士の恐怖にひたすらビビって、男は住宅街の外れの川でぶるぶると震えていた。今も目を閉じれば竜の牙を模した鋭いクラッシャーが蘇り、束の間休むことさえ出来なかった。


「な、なんなんだよあれ。あれがドラグセイバー? こんなところで何やってんだよ。ていうかあれ人間だったよな……」


 男の脳裏に、古書店の看板娘とともに歩いていた青年の姿が蘇る。いかにも優男といった趣の姿と、思い出すもおぞましい戦士の姿が重ならない。訳も分からず、男は首を傾げるしかなかった。そんな彼を照らす月光がいきなり翳る。


「どうしたんですかこんな夜に。夜に出歩くと危ないと、教わらなかったんですかねえ?」


 男ははっと振り返る。見ると、白いタキシードを着た痩せ型の男がにやりと笑って幽霊の男を見下ろしていた。一目でわかるただならぬ雰囲気に、思わず男は浅い川の中へと後退りする。ひたひたと響く足音。タキシードの男は、幽霊の蒼白な顔を食い入るように見つめ、ぱっと川に飛び降りた。


「な、何だよお前……まさか、まさか!」


 男は悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、夕方の出来事など比べ物にならない恐怖に身体が竦み、無様に水へ倒れ込んでしまう。


「そうか。お前は私と同類なのだね? なら一層の事楽しみだ。イマジナリーと融合した人間は、何色の血で私の身体を汚してくれるのかなあ!」


 タキシードの男は全身に狩猟豹(チーター)の斑紋が刻まれた白い鎧を纏う。爪を模した短剣を両手に提げ、目にも止まらぬ速さで幽霊に迫る。


「い、嫌だ! 誰か助けて!」

「聞こえんよ。誰も聞こうとしないからな」


 短剣の鋭い一撃が男の腕を切り裂き、白く光る鮮血が飛び散る。男の絶叫が今度こそ道路を満たす。


「いやだあ! 助けてくれえ!」

「この程度で死にはせんよ。まだ一パーセントも血は抜けていないからな。ほら次だ!」


 続けざまに振り下ろされた一閃が男の腹を薄く切り裂く。たらたらと鮮血が滲み、傷口を見つめた男は叫喚して喀血し、喉を潰してしまう。潰された蛙のような声しか出せない男を、狩猟豹は恍惚の声を上げながら眺める。


「ああ……いい声だ。もっとその惨めで情けなく生にしがみつこうとする声を聞かせてくれたまえ。後何ミリも深くこれを腹に入れれば、汚らしい臓物が出てくるねえ……あの匂い、何とも言えないよ。さあ!」


 男は血を吐きながらごぼごぼ何かを叫ぶ。狩猟豹はあざ笑うと、逆手に握り締めた短剣を男の腹に突き立てようとする。しかしその時、鋭く飛んだ燃えるナイフが豹の手から短剣を弾き飛ばしてしまった。狩猟豹の鎧を纏った男は肩を落とすと、ぐるりと振り返って歩道を見上げる。


「これはこれは、興が冷めますねえ」

「一応張るとかめんどくせえと思ってたが……こいつはでっけえもんが釣れたな……おい」


 真紅に輝く両眼が殺人鬼を確かに捉える。大剣を担いだヒーローを鼻で笑った彼は、落ちた短剣を拾い、金色に輝く瞳で二人を見上げた。


「どうも。ドラグセイバーさん。私がこの街の殺人鬼です」

「ふざけんな」


 ヴァルーは静かに舌打ちする。大剣を振るって唸りを上げさせると、勢いに任せて一気に狩猟豹めがけて飛び降りた。



 この時、ヴァルーはまだ気づいていなかった。自分の闘志がいかほどのものか試されつつあることを。


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