七話 覚醒/ウェイクアップ
剣崎巽。ライオンのイマジナリーをその身に抑えこむ壮年の男に狙われ、その場は逃走。その後の戦いで彼と自分の共通する思いを見出した巽は共闘と救済を望むが、男は聞く耳を持たない。カルチャーのオリンポス十二神に襲われた時、獅子の身体は突如変化を始めて……
「これが、崩、カイ……!」
瞬間、獅子のたてがみが逆立ち、男は咆哮する。鎧の隙から、たてがみの中から闇が霧のように噴き出す。その瞳にはギラギラと紫炎が禍々しく輝き、筋肉は盛り上がり鎧は刺々しく変わる。巽は不意の出来事に呆然と立ち尽くすしかない。
「そんな……」
(おい! こいつはやばい! 離れろ!)
「あ、ああ。わかってる。わかってるけど……」
(ちっ、ぼけっとしやがって!)
ヴァルーは巽の意識を身体から引っぺがして奪い取り、素早く後ろに飛びすさった。噴き出す闇の霧に当てられたカルチャーは苦しみに叫び呻いて消えていく。その光景に、巽はひたすら唖然とするしかなかった。
(ヴァルー、まさか)
「耐えられなかったか。……創造力を限界まで消費すると、崩壊力が生まれてそいつは一気に壊れる。何もかも巻き込んでなっ!」
ヴァルーは反射的に飛び退る。男は巨大な獅子と化して飛び込み、闇を纏って二人が立っていた地点に小さなクレーターを残す。舌打ちすると、側に落ちていた車のドアを拾って巨大な盾へと変えた。
「退くぞ。流石にあんなのには喧嘩売れねえ」
(そんな! 何を言ってる!)
巽は耳を疑う。ヴァルーからそんな言葉を聞く日が来るとは、思ってもみなかった。こんな時に限って逃げるのか。憤慨気味に目をつり上がらせた巽に、ヴァルーは苛立ち牙をカチカチ言わせる。
「やっぱりそう言うかてめーは! さっきのを見なかったのか! あの暴走したディクリエーションに当てられたら、俺達だって暴走しかねねぇ!」
(でも、ここで僕らが逃げたらどうなる!)
「放っておいたって奴らはいずれ消滅する! ここは下がったほうがいい!」
(ダメだ!)
その時、いきなり巽はヴァルーの意識を引き抜き身体を奪い返した。大盾を片手剣と小盾に変えると、正眼に構えて自らを囲むように歩く怪物を睨みつける。
「自分で言ったんだろヴァルー。あの人を見返すって。ここで彼を救ってこそ、本当の意味で彼を見返すことになるんじゃないのか」
闇の獅子が突っ込み、巽は爪の一撃を盾でいなしながらどうにか躱す。再び獣と正対する形になった巽は、見るだけでもおぞましい怪物を真っ直ぐに見据え、鋭く叫んだ。
「僕達はただの怪物じゃない。この街のヒーローになる存在なんだって!」
(……はぁ)
ヴァルーは深々と溜め息をついた。またいつものヒーロー理論か。いつにも増して無茶苦茶な主張に、ヴァルーはとにかくうんざりする。
(お前、どんな奴に教育受けたんだ? 親の顔が見てみてえよ)
「残念だが、僕を育ててくれた人はもういない。残っているのは、その人が僕に授けてくれた男の流儀だけさ。その流儀に従うなら、ここで逃げるわけには行かないのさ!」
獅子の懐に潜り込み、巽は肩口、胸元と次々に斬りつける。開いた傷口からは闇が噴き出し、すぐさま傷を埋めてしまう。その跡からは悪魔の角のように捻れた棘が突き出してくる。時が経つほど暴走を強める獅子を見上げ、ヴァルーはただ呻く。
(あぁもう! 真面目に答えんなよ! 駄目元で言ったが、マジで聞きやがらねえとは思わなかったぜ)
「悪かったね、聞き分けが悪くて!」
(いいもう。お前に憑いた俺がバカだった! 仕方ねえから手伝ってやるよ。……絶対くたばるんじゃねえぞ)
「わかってる」
盾を獅子の顔面に叩きつけ、視界を塞いだところを跳び上がってその背中に乗っかる。そのままたてがみを乱暴に掴み、巽は剣で二度三度斬りつけた。苦しげに呻く獅子だが、その背中からは棘が突き出し、慌てて巽は飛び降りる。全身から棘を生やした獅子は、咆哮とともにその棘を飛ばし、そのまま一直線に突っ込んできた。
巽は前に飛び込んで懐に潜り込み、腹を切り裂く。そのまま振り返って飛んできた棘を叩き落とすが、雨あられとなって襲いかかられては避けきれない。脇から飛んできた棘が巽の胸元を掠め、火花を散らしながら彼はよろめく。。
「壊ス。全テ、壊ス!」
鉄の擦れ合うような声を発し、獅子はさらに棘をばらまき、自らも巽の周囲を駆け回る。巽は慌ててその場から逃れようとするが、棘はまるで意思でも持つかのように彼を追尾する。息を詰め、巽は盾も剣も使って襲いかかる棘を叩き落としていく。そこへ重ねるように襲いかかる獅子の牙や爪。道路に這いつくばるように躱し、そのまま起き上がってかわそうとするが、狙い澄ましたように飛んできた棘が突っ込み、巽はもんどり打ってひっくり返ったパトカーに叩きつけられる。
「くぅっ……」
巽の劣勢にヴァルーは気が気でない。しかし、代わったところで巽以上に立ち回れるわけでもない。ヴァルーは意識の泉を前に足踏みし、鋭く叫んだ。
(おい、くたばるなって言っただろ!)
「わかってる! だが、一人で戦っているうちは無理だ。……だからヴァルー。このまま二人で戦う」
(あぁ? 何言ってんだお前)
起き上がった巽が放った言葉に、ヴァルーは耳を疑い訝しげな眼差しを向ける。盾で飛んできた棘を叩き落とし、巽は必死に周囲を見渡しながら呟いた。
「人間の視界は一二〇度以上あるのが普通だ。しかし実際に意識して捉えることの出来る範囲は四五度くらいが限界だろう」
(何が言いてえんだよ)
「君もそのままで僕の身体を動かせと言ってるのさ! それなら僕の身体が得る情報を二倍以上に活用できる!」
巽は飛び上がって獅子の身体を蹴りつけ、後肢蹴りをどうにか躱す。だが、横から飛んできた棘には反応しきれず吹き飛ばされてしまった。
「やはり一人では反応しきれない。ヴァルー、早く!」
ヴァルーは舌打ちし、顔をしかめて首を振る。
(何とぼけた事言ってんだ。そんなこと出来るわけねえだろ!)
「君こそ、勝手に動いて乾ちゃんにセクハラしてたくせに、何を言ってるんだ」
止めを狙って咆哮し、全身の毛を棘と変えて逆立てる獅子を前に、巽は剣を構えたままチクリと嫌味を呟く。バツが悪そうに顔をしかめると、ヴァルーは無茶を言うなと唸る。
(あれはお前の意識が百パーセント集中してないから出来たんだ。今同じことしたら、お前の頭が焼き切れかねねえぞ!)
「……心外だな。今になっても僕がそんなにヤワだと思われてるなんてね」
巽は剣を握り締める。獅子に怯まず視線をぶつけ、威嚇する勢いで叫んだ。
「君は最強の竜なんだろう? なら僕に乗っかるくらいの勇気、見せてくれ!」
(……この野郎!)
咆哮と共に棘が飛び出し、四方八方に跳ね返って巽達に向かって襲いかかる。前に飛び込み躱し、起き上がりざま見もせず盾を構えて棘を受け止める。翻って背後の棘を剣で叩き落とし、顔横に迫る一本の棘を裏拳で弾く。そのまま横ざまに倒れ込み、脇腹を掠める棘を透かした。
棘が地面に突き立ってもうもうと煙を立てる中、巽とヴァルーは静かに立ち上がる。その兜の奥に、右の瞳だけが紅く輝いていた。
「どうってこと、ないね」
「気張んな。大分キツいだろ。……俺もキツいんだからな」
頭脳と肉体に重くのしかかる疲労感。巽は剣をくるりと回し、雰囲気の変化を警戒し身を低くする獅子をじっと見据えた。
「そう思ってるなら、さっさと決めようじゃないか」
飛び込んでくる獅子。ただ盾でいなそうと左腕を突き出したが、弾かれた獅子はたまらない。盾をぶつけられた爪が砕け、喚きながら地面をのたうちまわる。しかし異変はそれだけには留まらない。彼の手にあった武器は急に輝き始め、そのまま砕け散ってしまった。
「武器を維持できない……?」
「今まで並列でやってたバッテリーが直列に変わったようなもんだ。正直パワーが振り切れて制御できてねえ」
ヴァルーは巽と共に獅子を睨みつける。全身が燃えるように熱い。赤熱して発した光が鱗の隙から溢れ、身体は星のように光を放つ。握った拳を見つめ、巽ははっと閃く。
「……そうか。それほどのクリエーションが今僕達の中にあるなら、それを直接ぶつければ」
「暴走は止められるだろうな。でも期待しない方がいい」
「それでも、やるしかない!」
腕から闇を噴き出しながらよろよろと立ち上がった獅子は、全身を慄かせて絶叫する。街灯という街灯が弾け飛び、通りは闇の中へと落ちる。その時、悲鳴をあげながら人々が見たのは、鎧を炎のように輝かせて立ち尽くす隻眼の竜戦士。既に彼は街に脅威を及ぼす異能生命体ではない。神凪に現れた、新しいヒーローだった。
「さあ行くよ。今こそ、救済を創造する!」
光は彼の右足に集まり、激しく燃え上がる。一歩引いて構えた巽は、闇を曳いて跳びかかった獅子を捉え、渾身の後ろ回し蹴りを放った。
「セヤァッ!」
その一撃は今まさに彼を飲み込もうと口蓋を押し開いた獅子の顔面に直撃する。閃光放つ竜の爪痕を刻み込まれた獅子はもんどり打って転がり、そのままがくりと倒れこむ。光が一瞬にして獅子を包み込み、闇が一挙に弾け飛んだ。太陽のように眩い光を放って、獅子は消えていく。立ち上がった巽は、その様をじっと見届けて嘆息する。
「……やった」
跡には、黒いコートに身を包んだ男が静かに横たわっていた。ヴァルーが一歩下がるのを感じ取りながら、巽は倒れた男へ駆け寄る。今にも死にそうな青い顔をして、男はじっと巽達を見上げていた。
「お前達に、助けられたか」
「あなたに否定されたままで、神凪のヒーローなんか名乗れない。平和を大切に思う気持ちは、きっと僕もあなたも、変わらないはずだ」
「生意気な、青二才め……」
跪いた巽の腕を掴み、男はどうにか起き上がろうとする。しかしその手は鎧の上を滑り、地面に落ちる。コートの隙から覗く胸の傷跡は消えず、広がり続けていた。巽は思わず言葉を失う。
(やっぱりか。……使い果たしたクリエーションまでは帰ってこねえ)
「そんな……」
悔しさに目を泳がせる巽、最期の力を振り絞って身をわずかに起こし、真っ直ぐに巽の瞳を見つめる。
「そんな目をするな、少年。お前達の強さは、よくわかった。……俺は、怖かっただけなんだろうな。ただ、死んでいくことが。だから、とにかく何かをしたかった……現実でも、ジーンセイバーになりたかった……」
吐息に交じる呟きに、何かを悟った巽は言葉も無く男を見る。苦しみから放たれた、穏やかな顔で、彼は既に天を見つめていた。巽は首を振ると、そっと男を抱き起こす。
「あなたは二度も僕達を救ってくれた。僕にしてみればやっぱり、ヒーローですよ。ちょっと頑固だけど」
「ふん。言ってくれる……なら戦ってくれ。俺の分まで、イマジナリーの脅威が、神凪から消えるまで……頼んだ」
巽の腕の中で、がくりと男は崩れる。瞬間に胸の闇は全身に広がり、男の存在は夜闇に紛れて消えた。巽の手には、彼の形見の黒いコートだけが、ただ確かに残されていた。
(最後まで魅せやがって。畜生が……)
ヴァルーは声を震わせ、その場に不貞寝するように丸くなる。身体の中に顔を覆い隠した彼の姿を感じながら、巽はただひたすらコートを握りしめていた。
翌日、古書店にやってくるなり巽は特撮系列の雑誌を漁っていた。パラパラとめくっては棚に戻していく彼を、はたき片手に、乾は小さく威嚇する。
「ちょっと、それ一応売り物なんだけど。いくら巽くんでも追い出しちゃうよ?」
「ごめん乾ちゃん。でもとっても気になることがあるんだ」
「そーう? なら、かいとってくれるとうれしいなあ?」
ぎこちなく微笑みながら、電卓を取り出し乾は計算を始める。そんな幼馴染の嫌味はどこ吹く風で、巽は一冊の雑誌を探り当てた。巽はページを丹念にめくると、背後から覗き込む乾に構わず読み進めていく。
「これだ……」
丁度一年前、神凪市ならず全国で注目された作品があった。救世騎士ジーンセイバー。今となっては珍しいくらいに王道ヒーローしていた作風で、その原点回帰的雰囲気がむしろ世間の耳目を集め、単なる地区放送局のお祭り企画だったものが全国発展してしまった作品だ。その特集記事の中、巽は見つけた。いつも一人で一杯のコーヒーに安らぎを求め、そのまま誰にも助けを求めることなく足掻き、独り消えていった男の名を。
「高槻成一。ジーンセイバーの、スーツアクター」
撮影風景を集めたカット集の中で、男は中身を演じる若い俳優と握手を交わしながら笑みを浮かべているその様子は、二人が出会った時の全てに疲れたような表情とは全く違った。
「そうか。あいつが最期にジーンセイバーになりたいって言ってたのは、こいつ自身が、演じてたものに憧れてたってことだったのか」
肩に乗ったヴァルーが神妙な目をして呟く。背伸びしながら覗きこんでいた乾も、二人の沈痛な面持ちを前に肩を小さくし、はたきを腰のベルトに挟み込む。昨夜の顛末は、彼女も聞いていた。柔らかく微笑むと、そっと彼らの肩を叩いた。
「じゃあ、その人の分まで頑張らなきゃね」
「うん。そうだね」
「でもお代は払ってね」
肩を叩きながら乾はこっそり付け足す。うんうんと頷いていた巽だったが、思わず固まってしまった。
「……本気で言っていたのかい?」
「当たり前でしょ。そんな雑に扱って! ほら、早く出せ!」
電卓を見せつける乾を前に、巽は慌てた。逃げ出すわけにもいかず、これこれと交渉を続けている。しかし、本も店も大事にしている乾が相手では絶望的だ。しばらくすれば彼の財布は開くだろう。カウンターからその様子を眺めていた壮二郎は、ふと相好を崩した。昔々の景色が蘇る。五人の男女が集まって、何かあればすぐ仲良く喧嘩をしていた、かつての古書店の景色が。
「透、琴音。お前達が彼らを見たら、何を思うのだろうな……」
独り呟き、彼は今日の新聞に目を戻す。『その名はドラグセイバー』との見出しが一面を躍り、暗闇の中輝きを放つ竜人の姿が載せられていた。
『一か月前よりその存在が確認されている、現実の生物が持ち得ない特徴を有する異能生命体ですが、この中の一体、C号は他の異能生命体とは異なる特徴を多く有しています。特に、このC号に限っては、市民を襲うような行動は確認されず、むしろ市民を守るような行動が多く見られます』
多くの記者を前に淡々と説明を続ける神凪警察署の署長。その背後では、今まで集められてきた竜燐の戦士が敵と戦う写真が掲げられていた。最前列に座っていた一人の記者が、メモを取り出し署長に尋ねる。
『それが、今回異能生命体C号を特別警戒対象から外した理由ですか?』
『はい。こちらとしては、今後の動向を慎重に観察していこうと考えています。場合によっては、C号の援護へ回る場合もあるでしょう。異能生命体は、こちらの武器が通用しない強固な耐久性を持っています。現状、彼以外に異能生命体に対抗できる存在はありません』
『それは、警察では異能生命体に対して何ら解決する策を持っていないということでよろしいのですか?』
女性記者が舌鋒鋭く署長に詰問する。嘲り交じりの口調に署長は一瞬不快そうに顔をしかめたが、すぐに仏頂面に戻り真っ直ぐに記者を見つめた。
『その点については、現在早急に解決策を講じているところです。何も出来ないからC号に頼りきりではなく、C号に協力を求めることが現時点の解決策と認識してください』
開き直った署長の言葉に、記者達は戸惑い顔を見合わせる。しかし署長は腹が据わっていた。カメラに目を向けると、記者達の振る舞いなど気にすることなく、静かに頭を下げた。
『異能生命体C号に告ぐ。我々の言葉がわかるなら、我々に手を貸す気があるなら聞いて欲しい。この神凪市を襲う脅威の前に、我々は未だ余りに無力だ。既にこの街の人々の中から、君達に希望を見出す者も現れている』
『今後C号が人々を襲う可能性は考えないんですか!』
『警察の職務の放棄ではないんですか!』
記者達の中から鋭い非難が飛んでくる。だが署長は慣れたものだった。そんな言葉は一切無視し、署長は渋面を崩さず話を続けた。
『……よって、これからも協力して欲しい。その為に、我々は君へ、この街の市民が君をそう呼ぶ、『ドラグセイバー』の名をコードネームとして送る。これは、君がこの街の、ヒーローであることの証だ』
街の人々はスクリーンから響く彼の言葉に顔を見合わせ、得心したように晴れやかな顔をしたり、不安そうに顔を曇らせたり、あるいは興味無さそうに手元の携帯に目を戻したりと様々な反応を見せている。シルクハットにフロックコートの紳士らしき姿をした美青年は、ステッキを片手に下げ、漫画を開きながらじっとスクリーンを見つめる。
「『ドラグセイバー』か。この街の人々は、本当にヒーローが好きだね……これからもっと怖いことになるのにさ」
時代錯誤の奇抜な格好、同姓でもはっとさせられる美貌、ついでに市井のど真ん中で漫画を読んでいるとあっては誰もが彼に振り返る。そして思わず彼らは青年を穴が空くほど見つめてしまう。
真紅の右目に深緑の左目。宝石のように美しい双眸が彼の眼窩に埋まり、スクリーンに映る神凪のアイドル達を映していた。
『はい。私のことも、ライブを異能生命体に襲われた時に助けてくれて……ドラグセイバーって名前、とってもぴったりだと思います――』
「あの。こんなところで漫画読むの、どうかと思いますよ?」
間抜けた声とともに、双眸の色が黒へと戻る。我に返った青年は、目の前に立つ愛想笑いをしたくたびれた雰囲気の痩せた男を見つめる。彼の言う通り、何人も何人も、時折足を止めてじっと彼のことを見つめていた。漫画を閉じると、青年は男に向かって目を細める。
「あなたこそ、昼にタキシードは風流じゃないな。それは夜に着るものだ」
青年はステッキを握った手で男を指差す。彼の言う通り、男は真っ白なタキシードに身を包んでいた。襟元を正すと、男は相変わらずにんまりと笑って首を振る。
「いいんですよ。私にとっては昼も夜も同じですから」
「変わっているな。あなたは」
「君ほどではありませんがね」
青年はシルクハットを目深に被ると、直角にかちりと身を翻し、つかつかと型に嵌ったような歩き方で市中へと立ち去る。首を伸ばすようにしてしばしその後ろ姿を見送っていた男は、懐から手帳を取り出し、中にびっしりと書き込まれた名前を見つめながら歩き出す。
「『ドラグセイバー』か。不愉快な存在ですねえ」
男は左の人差し指を舐める。一陣の風が街を吹き抜け、街路樹を激しく揺らした。
「さあ、今日も始めなくては……」
その時、神凪市はまだ気づいていなかった。この街にさらなる危機が襲いかかろうとしていたことを。