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六話 戦わなければ

 剣崎巽。人間と融合したロキをどうにか排除した矢先、オリジナルのイデア『グリフォン』に襲われる。カルチャーとは比べ物にならない攻撃に敗北必至の状況へと追い込まれる二人だったが、そんな彼らの前に、獅子を模した黒鎧を纏う戦士が現れたのだった。



「貴様……我らが同胞を捩じ伏せているのか」


 鉤爪を道路に突き立て体勢を整えたグリフォンは、嘴を何度も鳴らして不機嫌そうに唸る。獅子の戦士は言葉も無く、ただ拳を固めて鋭くグリフォンへと突っ込む。素早く飛び退ったところに叩きこまれた拳は、道路を抉り罅を入れる。四つん這いのような姿勢になった獅子は、反動で高く跳び上がり、上空から見下ろしていたグリフォンをその拳で地面に叩き落としてしまった。翼の先が折れたグリフォンは、苦悶に目を見開いて呻く。


「すごい……」


 巽は思わず目を奪われていた。漫然とした痛みの中、動くことなどさっぱり忘れている。


(おい巽、この場は奴に任せとけ。手負いじゃ邪魔になる)

「あ、ああ。分かった」


 巽はチラチラと新しく現れた戦士の姿を見遣りながら、羽根を刺されて身動きが取れない人々の方へと駆けていった。


「逃がさん!」


 気づいたグリフォンは羽根の刃を巽達に向かって飛ばす。しかしすんでで気がついた巽は、前へ飛び込み颯爽と躱す。苛立ちに目を見開いたグリフォンに、獅子の重たい一撃が鋭く突き刺さった。


「余所見をするな」

「くっ」


 道路へ横ざまに倒されたグリフォンは、傷ついた片足を引きずりながら起き上がる。最早翼も広がらず、飛び立つこともままならない。


「誇り高きイマジナリーを跪かせ服従させるなどあってはならないことだ。いつか報いを受けることになるぞ」

「報いならすでに受けている」


 満身創痍で繰り言を呟くグリフォンを見下ろし、獅子は容赦なく鋭い蹴りを叩き込み、倒れて腹を晒したところを、両腕に伸ばした鋭い鉤爪で引き裂いた。怒涛の勢いに、断末魔を上げる間も無い。その体は燃え上がり、一気に弾け飛んでしまう。無言のまま立ち尽くす獅子の紫色の瞳が、無慈悲に炎を受けて煌々と輝いていた。


「大丈夫かい? そのままじっとしておくといい」

「あ、ああ……」


 巽は肩を刺された青年を、羽根を折って助けていた。ちらりと見やると、獅子の戦士はくるりと身を翻し、どこかへと去ろうとしている。


「ちょっと待って!」


 巽は慌てて獅子の戦士の背中を追いかける。彼はぴたりと足を止め、兜の奥に瞳をぎらつかせて振り返った。その視線に射竦められそうになるが、巽は踏ん張りそろそろと近づいていく。


「あなたも、人間なんですね?」


 しばしの沈黙。戦士は彼らを探るような目で巽達を見つめている。巽は籠手の嵌りを直しながら、落ち着かない調子で彼を窺うしかなかった。


「……ついてこい」


 彼はそれだけ呟くと、身を翻して駆け出した。たてがみが風になびき流れる。堂々としたものだった。


(行くぞ、巽)

「ああ、わかってるよ」


 巽達も彼を追って駆け出す。刺された人を他の人々と共に介抱していた乾は、そんな彼の背中をじっと見送っていた。



 人気のない駐車場に辿り着いた二体の戦士は、ともにその鎧を剥がして人間へと戻る。風が吹き、塵となった鎧が風に巻き上げられていく。


「あなたは、いつもあの店にいる……」


 巽は目を丸くする。駐車場の真ん中に立ち尽くしていたのは、まだ秋口だというのに、分厚い黒のトレンチコートに身を包んだ壮年の男。巽が行きつけの喫茶店で、いつもブラックのコーヒーを飲んでいた男だった。男の方も巽の顔を知っていたのか、鼻で笑って巽のぽかんとした顔を見据える。


「そうか。お前はいつもあの店で本ばっかり読んでいた奴か」

「ええ。あの店は一休みするには最適です」

「そうだな。あのコーヒーは美味い」


 じっくりと頷くと、大股で男は巽に迫り、その右腕を掴んだ。全身の毛がそば立つ感覚を巽に残して、男はヴァルーをぐいと引き抜いた。


「そうか。これが、お前に憑いたイマジナリーか」

「チッ。当たり前のように引き抜きやがって」


 首根っこを掴まれたまま、抵抗するのも面倒でヴァルーはジト目を作って男を見上げる。しかし、余裕ある態度が取れたのもそこまでだった。感情の篭もらない、無を湛えた視線を前に、ヴァルーは思わずたじろぐ。


「お前、何なんだ」

「消えろ」

「ああ? お前何言って――!」


 鋭い破壊意思が身体にねじ込まれ、存在が一気に不安定になる。全身の鱗を逆立て、血走った目を見開いたヴァルーはもがき苦しんだ。陰の差した暗い空間に、その呻き声だけが響く。


「ちょっと! 何をしてるんですか!」


 突然の暴挙に慌てた巽は、男の腕に飛びつきヴァルーをその手から取り返す。男は何も言わず、眉間に皺を寄せるばかりだ。


「くそっ! 何すんだ。消えちまうとこだっただろうが!」


 朦朧としていた意識をどうにか取り戻し、ヴァルーは肩をいからせて立つ男を睨みつけた。男は悪びれる様子も無い。拳を握り締めて、男は巽をじっと見据える。


「愚かだな。自らイマジナリーに喰い尽くされるつもりか」

「何だって?」


 巽が訳も分からず顔をしかめると、いきなり男はコートの前を開き、中の黒いシャツのボタンも外し始めた。


「イマジナリーの力が弱いお陰で気付けていないか。俺は……この通りだ」


 唇を真一文字にして男を見つめていた巽だったが、そのシャツの内に隠されたものが顕になった瞬間、隣のヴァルーと共に思わず言葉を失ってしまった。


「驚いたか。これが、イマジナリーに取り憑かれた人間の末路だ」


 胸には獅子の顔を模した傷が刻み込まれ、それを中心にして伸びる罅割れからは薄紫の闇が僅かに洩れ出している。驚いたまま、その傷から目を離すことも出来ない二人に向かって、男は仏頂面で続ける。


「俺の身体を使い暴れようとした獅子のイマジナリーを押さえつけ、襲い掛かってくる他のイマジナリー共と俺は戦ってきた。だから獅子は俺の身体を喰らい尽くそうとしている。内側から俺の身体を食い破ろうとしているんだ」


 巽はちらりとヴァルーを横目に窺う。呆然としていたヴァルーもその探るような視線に気づき、煙たそうに睨み返した。


「んだよ。そんな目で見るんじゃねえ」

「自分の愚かさに気づいたか、少年。ヒーローなどと思い上がるのはやめて、そのイマジナリーをこっちに引き渡せ。俺は、俺のような存在をこれ以上許すつもりはない」


 無表情のまま、男はぬっと腕を突き出してくる。有無を言わさぬ暗い目つき。巽はしばし押し黙ったまま彼の手を見つめていた。日が陰り、巽の顔に微かな影が差す。中々言葉を発しない彼に、男は一歩じっくりと詰め寄り、ヴァルーは顔をしかめて巽に振り返った。


「ダメです」


 ぽつりと一言。男の眉がぴくりと動く。


「ヴァルーは消しません。僕達はそんな、喰われ抑え込むような関係じゃない。少なくとも、合意の元に手を組んでいる」

「合意だと?」


 心底不快そうな顔をすると、男は開いた手を握り締めてじりじりと退いた。


「イマジナリーはこの世の者じゃない。自らを忘れかけた人間に牙を剥こうとする悪魔ばかりだ。そんな存在と、合意が得られたと本気で思っているのか」

「ええ。僕は彼の力を借りてこの街の人をイマジナリーから救いたい。ヴァルーは僕の力を借りて好きに暴れたい。この相互利用の関係が僕達の中にはある。だから僕は彼とともにこれからも戦います。あなたにヴァルーは渡さない」


 低い、脅しのような口調にも屈せず巽は真っ直ぐに男を見据える。澄んだ瞳が、男を鋭く射抜く。しかし男にとっては、やはり巽は何も知らない甘ったれだ。拳を今にも殴りかかりそうな勢いで固め、男は唸った。


「戯言を言うな。そのイマジナリーだって、お前の身体を手に入れる機会を虎視眈々と狙っているだけだ。時が来れば、そいつはお前を裏切り、俺のように破滅へ追い込むだろう」

「まさか。ヴァルーに限ってそんな事はしない」


 首を振る巽。口を一度結んだ男は、静かに拳を自らの面前へと翳す。


「黙れ。これ以上思い上がったことを言うつもりなら――」


 開けた胸に浮かんだ獅子が輝き出し、彼の身体は一挙に獅子を模した黒い鎧へと包まれる。はっと目を見開いた巽とヴァルーは慌てて身構えた。頬当てに刻み込まれた銀色の牙が二人を狙って輝き、漆黒の爪が今にも二人を引き裂かんと剥き出しになる。兜の奥に紫色の瞳をぎらつかせ、男は荒々しく息を吐いて深く構える。


「お前ごと、脅威の芽を摘むのみだ」

「マジかよ……! 巽!」

「ヴァルー!」


 襲い掛かってきた男の一撃を横っ飛びに避けて、巽は飛んできたヴァルーをその身に取り込み変身する。炎に巻かれながら竜の鎧を纏った巽は、猛然と繰り出される乱打を鉄板で作った盾を突き出し受け止める。しかし一発一発の重みが盾を歪め、罅を入れて叩き割ってしまう。止めとばかりに繰り出された顔面への一撃を紙一重でかわし、素早く足払いをかけた。男はひょいと跳び上がり、そのまま巽を鋭く蹴り飛ばす。籠手でどうにか受け止めるも、勢いは殺せず巽は壁に叩きつけられてしまう。


「くっ……強い!」

(こんな狭い所じゃ分が悪い! 広いとこ出るぞ!)

「いや。ここは退却しよう。私闘に街の人を巻き込むわけにはいかない」


 ヴァルーは顔をしかめる。せっかく目の前に闘志を燃やす強敵がいるというのに。接近戦なら相性も悪くない。しかし巽はすでに頑固モードへ入りかけていた。こうなってはどうしようもない。


(……くそっ! 敵前逃亡か。俺も情けなくなっちまったもんだな!)


 ヴァルーは舌打ちすると、悪態をつきながらどっかりと座り込む。再び盾を作り出し、飛び蹴りを放ってきた男に向かって投げつけながら巽は素早く後退りを始める。


(やけに素直だね、今日は)

(お前がいつでも頑固過ぎるからだ!)

「逃がすと思うか」


 いよいよくるりと身を翻した巽達の後を、男は周囲のがらくたを乱暴に弾き飛ばしながら追いかける。振り返った巽は、鉄くずを燃える竜燐の鋭いナイフと変え、顔面向かって投げつけた。姑息の技が男に通じるわけもなく、正拳に回し蹴りで次々にナイフを打ち落としていく。しかし、男の集中を逸らすには十分だった。


「……生意気な」


 男が追いかける態勢を取り戻した時には、既に二人の姿は消え去っていた。変身を解くと、男は胸に広がる傷を押さえて壁にもたれかかる。激しい痛みに意識が蝕まれていく。舌打ちすると、男はふと息を吐いて空を見上げた。


「時間が無い。あの青二才を、この身体が朽ちる前に……」



 白峰家。全力で逃げおおせた巽とヴァルーは、日が暮れる頃合いにようやく戻ってきた。数時間古書店をウロウロして待ちぼうけていた乾は、ほっと息をついて彼らを出迎える。


「よかった。何かあったんじゃないかって、心配してたよ」

「まあ、何かあったといえばあったけど、とりあえずは無事さ」


 駆け寄ってきた乾に巽は真顔のまま答えると、店を突っ切り二階へと上がっていく。同時にヴァルーはするりと外に抜け出て、巽の横を飛び始めた。


「まさか殺しに来るとはね」

「頭沸いてんじゃねえのかあの野郎。今度会ったらただじゃおかねえ」


 いつも以上にヴァルーは怒りを露わにしていた。巽もわざわざ咎めることは無かったが、かの男の見せつけた傷が気になって仕方がない。ソファにどさりと腰を下ろし、リビングをふわふわ飛び回るヴァルーを見上げた。


「彼を見返すことには同意するけど、その前に色々と聞きたいことがあるんだ、ヴァルー」

「あん?」

「彼の胸に刻まれていた傷……あれは只事じゃないだろう。彼は取り憑いたイマジナリーのせいだと言っていたが、実際のところはどうなんだい?」

「大体間違いはねえだろうな」


 ヴァルーは即答すると、彼用の止まり木に降り立ち、首をもたげて外を睨む。相変わらず平和な住宅街、少年達が通りでキャッチボールをしていた。


「ライオンのイデアを、男が押さえ込み続けてる。ついでに言うなら、あいつの持つクリエーションがライオンに比べて強くないせいで、自分の中で抵抗するのが精一杯になってんだろ。あ、コーヒーがっつり熱いやつな」


 リビングに来た乾にヴァルーは片翼を広げて注文をつける。乾は口を尖らすと、偉そうにとか何とかぶつぶつと呟きながらキッチンへと引っ込む。そんな彼女の姿を見つめながら、ヴァルーは口ごもりがちに呟いた。


「……言いたかねえが、あのままじゃ自分の存在を保つのにも必要なクリエーションまで使い果たして死んじまうかもな」

「死ぬ……か」


 ヴァルーはバツが悪そうな顔をして、巽が呟くのをおっかなびっくり見つめる。また『それならすぐに助けなければ!』とか言い出すのではないかと冷や冷やしていた。


「それなら助けなければ……今は難しいだろうけど」

「ほら言ったよくそが……って、やけに大人しい判断だな」


 肩を落としかけたヴァルーだったが、相変わらず顎に手を当て考え込んでいる巽を見てさも意外そうに呟いた。巽は肩を竦めると、苦笑しながらヴァルーを見上げた。


「今の彼に僕達が手を差し伸べても応じてはくれないだろう。それに焦ったって君がまたうるさいだろうと思ってね」

「ったく、いっつもかっつも生意気だなお前は」

「褒め言葉と受け取っておくよ」


 にやりと歯を見せた巽に、ヴァルーは顎を突き出すようにしながらやれやれと溜め息をつく。つくづく、ヴァルーはどうして今自分が巽と手を組んでいるのか不思議でならなかった。テーブルの上の本を手に取った彼をじっと見つめていると、お盆を手に乾が戻ってくる。


「はいコーヒー。巽くんは紅茶ね」


 食卓にコーヒーを差し出し、巽には直接紅茶を手渡す。銘々に飲み物を啜る彼らを交互に見比べ、乾は首を傾げる。


「さっきの話だけど、巽くんは大丈夫なの? ヴァルーが身体の中にいるせいで問題とかは起きないの?」

「あ? もし問題が起きてんならとっくに起きてるっつの。それに俺はこいつの中に居座れるわけじゃないからな。俺から何かをやらかしたりは出来ねえよ」


 コーヒーカップから顔を出し、静かに呟く。それを聞いた乾はホッと息をつくと、巽の隣にそっと座る。


「それならいいけど……その、二人が言ってる人みたいになったら、って心配になったから」

「ああ。安心しろ」


 言いながら、ヴァルーは二人を眺める。それ以上の詮索はせず、二人とも読んでいる本の話に興じている。間抜けだ。ヴァルーは目を細くすると、小さく首を振る。


「おいお前ら。そんな簡単に俺の言うこと信じるのか。お前ら泳がせといて、後からパクっと行くつもりかもしんねえんだぞ?」

「ん? どうしてそんなことを言うんだ」


 顔を上げると、巽はさも不思議という顔をしてヴァルーを見つめる。その屈託のない顔に、思わずヴァルーは毒気を抜かれぽかんとしてしまう。


「おいお前、俺だってイマジナリーだってこと、忘れてんじゃねえのか?」

「忘れやしないさ。だが君は真っ直ぐだ。良くも悪くも。そんな君が、僕達を騙すなんていう狡い真似をするとは思えない。だから僕は君に力を貸せるし、借りられる」


 再び本に目を落とし、さも当然のことを言うように巽は答える。ヴァルーは目を丸くすると、鼻をフンと鳴らして再びコーヒーに顔を突っ込んだ。


「やめろ。調子狂う」


 胸がムズムズして仕方がない。落ち着かなくなり、ヴァルーはコーヒーカップに顔を突っ込んだ。そんな彼の背中を見遣り、二人はこっそりと微笑みあった。



「皆さん慌てずに! こちらから避難してください!」


 どれだけ戦おうと、イマジナリーとの戦いは止むことがない。人々が気を張り詰める中、前触れもなく街をイマジナリーは襲うのだ。


「怖いか……俺が怖いか!」


 夜闇に紛れ、漆黒の毛を靡かせた巨大な熊が周囲の人々を示威するように現れた。警察は拳銃を熊に向かって撃ち掛けるが、その分厚い毛皮を前にしては小石ほどの威力もない。一直線に駆けてきた怪物を前にしては、隊列を成して構えた盾も綿雲と同じだった。丸太のように太い前足の一撃を受け、警官達は人形のように吹き飛び血に塗れて倒れる。そんな有様で恐怖せずに立ち向かえという方が無理だった。彼らはこぞってパトカーの裏に隠れようとする。その姿を一通り眺め、熊は雷鳴轟くような低い声で笑う。


「そうだなあ、怖いよな。怖くて震えてしまうな。ここから、逃げ出したくなるだろうな? だが逃がしはせんぞ。お前たちにはどこまでも怯えてもらわねばならんからな!」


 熊はアスファルトがひび割れる勢いで地面を踏みしめ、パトカーの下に腕を差し込む。そのまま立ち上がり、パトカーを勢いよく引っくり返した。恐怖に叫びながら逃げ出し、または唖然としてその場に腰を抜かしてしまう。ただの人間には、イマジナリーに立ち向かうなど土台無理な話だった。


「やめろ!」


 だからこそ、この神凪にはヒーローがいる。背後から飛び掛かった巽は、熊の毛皮を引き剥がす勢いで引っ張り、道路に倒し転がす。籠手の嵌まりを直しながら、巽は四つん這いの姿勢でこちらを見上げる熊の怪物を睨み付けた。彼の纏う堂々とした雰囲気に、巽の姿勢も自然と引き締まる。


「……なるほど。お前もさしずめ、熊のイデアってところか」

「ご名答。さすがは我らの裏切り者と手を組むだけはある!」


 熊は再び仁王立ちになると、その強靭な腕で巽達の身体を捉えようと飛び掛かる。バク宙で器用に身をかわした巽はすぐさま反撃しようとするが、熊は交差した腕でそのまま強引にクロスチョップに出てくる。堪らず巽は側方に転がり身をかわした。


「やれやれ。危ないことをしてくれる」

(あの腕はやべえな。捕まったら逃げられねえぞ)

「ああ。気を付けるよ」


 巽はそばの路地から鉄パイプを拾うと、三メートルはあろうかという長槍に変えて熊に鋭く突きを見舞う。しかしその巨体に似合わぬ俊敏さで槍の切っ先を捉えたかと思うと、逆に思い切り良く振るって巽達をビルに叩きつける。どうにか受け身を取って耐えた巽は、膝を地面につきながら熊の巨躯を見上げる。


「……何て馬鹿力だ」

「侮るな。熊の一撃は虎をも殺すぞ」


 今度は四つん這いとなり、真っ直ぐに巽達めがけて熊は突進してきた。慌てて飛び退いた巽は、熊が突っ込み鞠のように吹っ飛ぶ軽トラックを見て目を見開く。


「ちょっと待ってくれ。シャレにならない」

「おお、お前も恐怖しているな! 私に恐怖したな!」


 鋭い牙を剥きだして笑いながらこちらを見据える熊に、巽は静かに後退りした。


「な、何だ、こいつは」

(下がるなお前。隙晒すだけだぞ)

「わかっている。わかっているさ……」


 とはいえ、触れることさえ許されない驚異的な膂力を前にしては慎重になるしかない。巽は足元の石ころを燃えるナイフに変えて投げつける。しかしそんな小手先の一打が通用するわけもなく、分厚い毛皮の前にナイフは一ミリも通らずぽとりと地面に落ちた。


「怯えろ……怯えれば怯えるほど、我らの力は強まる!」


 熊は叫んで地面に拳を叩きつけた。その激しい地響きに巽はよろめき、瞬間に目を輝かせた熊が襲い掛かる。かわし切れない。悟った巽は軸線を逸らしながらヴァルーに始末を託す。瞳を紅く光らせたヴァルーは、熊の突き出された拳を脇から手刀で叩き、空いた腕で逸れた一撃を受け止めた。それでもその一撃は半端なダメージではなく、まるで子供のように突き飛ばされたヴァルーは、頭も肩もどこかしこも打って地面に投げ出される。起き上がりながら、ヴァルーは怒りに任せて叫んだ。


「だあああっ! 面倒なとこだけ押し付けやがって!」

(仕方ないだろう! 防御は君の方が上手いんだから!)

「つったって、こんなもん何発も喰らえねえぞ!」


 今の一撃だけで左の籠手は罅割れてしまった。舌打ちすると、ヴァルーは横倒しの軽トラックからドアをもぎ取り大剣に変えて思い切り投げつける。さすがの熊も真正面から受け止めるわけにはいかず、ひょいと飛んでかわす。早速反撃に出ようと身を乗り出した熊だったが、背後の闇から飛び掛かってきた黒い影に気付けず、無防備な脳天に踵落としを喰らってしまった。


「あがっ……」

「やはり来たか、青二才」


 街明かりに照らされたなびく漆黒のたてがみ。鋭い牙を模した頬当て。隆々と盛り上がる筋肉を包む鎧に、輝く紫色の瞳。獅子をその身に閉じ込めた男が、熊を踏み付けにして立っていた。ヴァルーは拳を握りしめ舌打ちする。


「くそっ。こんな時に限って……今お前とやりあってる暇はねえんだよ!」

「俺はお前もこの獣もまとめて相手にして構わんがな。……仕方のない奴だ」

「ああ?」


 ヴァルーは防御用の構えを取りながら首を傾げる。気を失いかけていた熊は呻きながら上に立つ男を振り落とし、怒りの咆哮とともに殴りかかる。しかし男は真正面から一撃を受け止めると、そのまま正拳で熊を突き飛ばしてしまった。手を払い、男はじろりと突っ立っているヴァルー達を睨む。


「何をしている? さっさと始末するぞ」


 淡々と言うと、男は再び飛び掛かってきた熊を回し蹴りでいなす。完全に救われた形になったヴァルーは、牙をぎりぎりさせつつ駆け出した。


「くそったれが! 格好いい感じ出しやがって!」


 大剣を蹴って拾ったヴァルーは一気に跳び上がり、身を捻りながらその切っ先を熊の背中に突き立てる。さしもの熊も大剣は受けきれず、鮮血を流しながら呻いた。


「この、裏切り者の諸悪の根源!」


 咆哮とともにヴァルーを両腕の内に捉える。そのまま締め上げ全身の骨を砕こうとする熊だったが、背中を刺されては力が入らない。ヴァルーが全身を突っ張ると、かなわず熊は突き飛ばされた。よろめいたところへ、男の鋭いボディブローが突き刺さる。一挙に劣勢へ追い込まれた熊は、横ざまに倒されどうにか起き上がろうとしながら呻く。


「こんな……ところで!」

「この街を危機に追い込む者を、俺は許さない」


 つかつかと近寄った男は、熊を引き倒して背中の刃を露わにし、渾身の一撃で心の臓まで刃を叩き込んだ。その断末魔は通り一帯を震わし、ガラスを叩き割る。長く長く、息続く限りに絶叫を続けた熊は、そのままがくりと崩れ猛火に包まれた。


「畜生。またいいとこだけ持ってかれた……」


 煌々と輝く炎を見つめながら、ヴァルーは拳を壁に叩きつける。昨日今日とカタルシスを得られず、不満を隠せなかった。しかしそんな場合ではない。巽は顔をしかめる。


(そんなこと言ってる場合じゃない。代わってくれ)

「あ? ……しょうがねえな」


 巽は再び意識の正面に立ち、じっと目の前で立ち尽くす男をじっと見据えた。


「このまま……僕達と戦う気なんですか?」

「脅威は、未来の分も含めて取り除く」

「自分の身がどうなるかもしれないのに? ……お願いします。手を取り合うことを考えてください。僕もあなたも、この街を守ろうという意思は違わない。だったら――っ!」


 鋭く拳が突き出され、巽は慌てて身を翻す。拳を震えるほどに握り締めた男は、兜の奥でその瞳を燃え尽きる勢いでぎらぎら輝かせて叫んだ。


「ふざけるな。……イマジナリーはこの街に危害を加える悪だ。それに進んで力を貸すお前を、どう信用しろというんだ!」

「やめてくれ! このままだとあなたは死ぬ! 出来ることなら僕はあなたを救いたいんだ。どうしてわかってくれない!」


 互いに突き出した拳が、今度は互いをまともに捉える。吹っ飛びビルに叩きつけられた二者は、息を荒げて立ち上がった。


「出来るものか。貴様のような、ただのヒーロー気取りに!」

「くぅっ……この!」


 かっと目を開いた巽は、今度は跳び上がって蹴りを見舞おうとする。しかしその一撃は届かず、目の前に突如現れた闇に弾き飛ばされてしまった。闇は次々浮かび上がり、中からギリシャ風の装いをした男女が次々と現れる。戦いを遮った男の持つ武器を一瞥し、巽は顔をしかめる。


「あれは雷霆……すると、こいつらはオリンポスの十二神ってところか」


 ギリシアの神々はそれぞれに武器を構え、無言のまま巽達や男を襲おうと狙いを定めてくる。男は構えを軽く取り直し、周りの神々を見渡す。


「今日はやけに客が多いな。時間が無いというのに……!」


 不意に男の言葉が途切れる。突如輝きだした胸元を押さえ、男はその場に崩れ膝をつく。呻きはすぐさま絶叫へと変わり、天を仰ぐように男は反った。その鎧の奥から紫色の輝きが洩れだし、あまりに異様な雰囲気に現れた神々は早くも身構える。巽は状況が呑み込めず、ただただ目の前の男を見つめていた。


「い、一体何が……」

(始まりやがったんだ。崩壊が!)



 その時、巽はまだ気づいていなかった。今この瞬間こそが、彼らが真のヒーローとなる試練の始まりだったということを。


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