二話 暴走する本能
剣崎巽。神凪市にある日突然現れた怪物に襲われ、これまた怪物のヴァルーに取り憑かれ、竜の鱗を鎧に纏う怪人となってしまった。言われるがままにヴァルーと手を組むことになった巽。その日々は平穏であるわけもなかった。
巽は市立神凪大学に通う大学生である。成績は良い方だが、あまり真面目に講義を聞いてはいない。もちろん勉強にも興味はあったが、それよりも自分の想像世界に没頭している方がずっと楽しい。彼は西洋史学の資料を授業の資料の代わりにこそりと広げながら、想像の足しにしていた。
(何だよ。人間ってつまらねえことしてんだな)
そんな彼の中でヴァルーは舌打ちする。大きく欠伸をして、とにかくつまらなそうにしていた。巽は肩を竦めると、顔を上げてお経のように授業を続ける初老の教授を見つめた。
(つまらなくても、この講義受けないと卒業ができない)
(ちっとも聞いてねえくせに良く言うな。時間の無駄だ時間の無駄。こんなところに座りっぱじゃ身体が腐る)
ヴァルーは足踏みして唸る。とにかく、先日のように暴れたくて仕方がないといった調子だ。意識の隅で唸ったりばたばたされたりしては気が散って仕方がない。無視する事さえも出来ず、巽は顔をしかめて呻いた。
(やめてくれ。気が散る)
(下らねえ妄想してるだけのくせに何言ってんだ。あーつまんねえ。馬鹿馬鹿しい世の中になっちまったもんだな、ったく)
(うるさいな。下らないとか言わないでくれたまえ)
自分の世界に上がり込まれた上に好き勝手振る舞われてはたまらない。温厚な人間で通している巽もさすがにイライラし始めた。
(あーあ。つまらねえつまらねえ。俺が生まれたばかりの頃は、戦いに祭りに忙しそうにしてたんだがな。こんな所で居眠りしたり妄想したりするだけのグズばっかになり下がったか人間は。こんな奴等に想像されたかと思うとたまらねえな)
「黙れ」
思わず巽は声にして叫んでしまっていた。空気が固まり、巽はハッと周囲を見渡す。怪訝な顔で学生達は巽を見上げ、教授も不思議そうな顔で眼鏡をくいくいやりながら彼を見つめている。
「す、すみません」
(おっと、こいつは楽しいな)
ヴァルーはがらがら笑う。巽は真っ赤になると、周囲にひたすら頭を下げまくった。その拳は硬く握られ、歯もぎりぎりと食いしばられる。今すぐにでもヴァルーを引っ張り出してこてんぱんにしてやりたいところだったが、こんな所でやれば今以上の騒ぎになるに決まっている。
(憶えていたまえ、この……)
呻くと、巽は諦めて真面目に授業を受ける事にした。
「ああ、困ったものだ」
半ばぐったりとした表情で、巽は白峰古書に足を踏み入れる。結局その後もヴァルーにちょっかいばかりかけられたせいですっかり疲れてしまった。珍しく憤懣遣る方無い顔の巽に、棚の掃除をしていた乾は心配そうに彼の顔色を窺う。
「大丈夫? 何かあったの?」
「まあ。もう、ひどいもんだよ」
巽は力無く微笑む。乾ははたきを棚に置くと、腕組みして彼を見つめる。巽の顔が翳ると、乾も楽しい気分ではいられなかった。
「本当に? 言ってくれれば何か手助けするけど?」
「いやいや、大丈夫だよ。乾ちゃんに頼る様な事じゃない」
乾の可愛らしい表情と優しい気遣いが巽の心に沁み入る。険しい顔も緩む。しかし、竜のイメージが取り憑いてきてうるさい、などと言えるわけもなかった。
「ふうん……でも、無理しちゃダメだからね。この前の事もそうだけど……」
乾は先日の出来事を思い出す。霞む視界の中に見えた。竜の怪人と重なって見えた巽の姿。絶対に何かあると踏んでいた。
「この前? そんな、大したことじゃないが……」
しかし当の本人はとぼけて首を傾げてしまった。相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべている。どんな異変も見逃すまいと意気込んで顔をじっと見つめていたが、当てが外れてしまった。乾はバツが悪くなって目を逸らす。
「あ、いや。何でも無いよ。こっちの話」
「変な乾ちゃんだ。まあいいさ。何か面白い本は入ってる?」
不審な態度の乾は気にかかったものの、それ以上追求はせず巽はいつもの通り本棚を見渡しタイトルを目でなぞっていく。乾も隣に立つと、一緒になって本を見上げた。
「どうかなぁ。私が読んだ中で面白いとしたら……これかな?」
彼女は一冊の文庫本を抜き取って彼に差し出す。巽は何の気の迷いなくその本を手に取ろうとした。したのだが。
「えっ?」
手に伝わるふわりとした感触。幾重に重なる布地が硬いが、それでもその柔らかさは隠せない。その手は巽の意志から背いてしまったかのように、しっかりその感触を愉しむ。いや、実際にその右手は全く意志から背き、乾の胸を撫で回していた。
「なに、してるの?」
蒼白になった巽は、真っ赤に上気した乾の顔を見つめる。あまりの驚きに凍りついた彼女。見開かれた目の光が、巽の網膜に鋭く焼きつく。
「い、いや! 違うんだ、こんな、僕はそんなつもり……」
そう言いながら彼は右手を必死に離そうとするが、そうしようとすればするほど、彼女の胸をしつこく愛で回すばかりだ。
「ちょっと、やめて……」
途切れ途切れに発せられるか細い声。親しい幼馴染に裏切られた怒りが、涙の浮かんだ目に宿る。震える手が彼の右手に伸びる。どうしようもない。彼は踵を返すと、慌てて逃げ出した。
「ご、ごごごめん乾ちゃん!」
「やめてって言ってるでしょっ!」
乾の怒号が彼方から飛んでくる。どんな顔をしているか、巽は振り返る事も出来なかった。古書店を飛び出すと、脱兎の如く通りを駆け抜ける。道行く人に振り返られながら、公園で遊ぶ子供に後ろ指差されながら、彼はとにかく逃げた。
「……このっ」
人気ない公園へと駆け込むと、息を荒げながら周囲を見渡す。誰もいない。巽は固く握り締めていた左拳を開くと、棒のようになって自由の利かない右手に叩きつけた。
「出てこい、お前!」
手首あたりをむんずと掴むと、そのまま改めて左手を引き離す。その指先には、ジタバタもがくヴァルーが掴まれていた。
「いてててて! 離せよ!」
「離すものか! 何てことしてくれたんだ!」
さしもの巽も温和さをかなぐり捨て、首根っこをぐいぐい締め付けてヴァルーを睨みつける。
「うるせえなぁ。ちょっと触ってみたくなっただけだろ! お前だって、ずっと触ってみたいって思ってたんだろうが!」
ヴァルーの文句に一瞬言葉が詰まる。だがすぐに我へ返り、歯を剥き出しにして竜を振り回す。
「そんなことは問題にならない! 実際にする馬鹿がいるものか!」
「わあわあ騒ぐなよ! お前だって触れて良かっただろ?」
「……そりゃあ、思ったより大きくて、柔らかくて、ふにふにで、じゃない! ああ……これから僕はどんな顔して乾ちゃんに会えばいい……」
ヴァルーに言われて感触を仔細に思い出そうとしてしまう自分の浅はかさが恨めしい。左手にヴァルーを掴んだまま、巽はふらふらと壁にもたれかかってうなだれる。ずっと、乾とは友達以上恋人未満の関係で来たつもりだった。これからどうなるかはわからなかったが、彼女が望まないうちは自分から動くつもりはなかった。それが一瞬でパーになってしまった。
乾の泣き顔が目に焼き付いて離れない。彼はもう、怒りの上に呆れと諦めが這い出してきて何も言えなかった。ヴァルーを空中に放り投げると、草むらの中に崩れ落ちてぼんやり空を見上げる。
「乾ちゃん、すまない……」
「ったく情けねえ。好きなら好きって言って、さっさと押し倒しゃいいのによ。真面目そうな顔して、案外アイツだってそうしてほしいと思ってるかもしれねえぞ」
パタパタと浮かぶヴァルーが、巽を見下ろして舌打ちする。巽は顔をしかめると、近くの石を拾ってヴァルーに投げつけた。
「そんな事出来るわけが無いだろう。人間を獣扱いするな」
「人間だって獣だろうが、偉そうに」
「黙れ」
舌打ちすると、ごろりと横になってふて寝する。想像大好きの巽も、今ばかりは何も考えたくなかった。
「……ん? なーにか騒がしいな……」
しかし、こんな時に限って運命は悪戯をしたがる。ヴァルーは耳を震わせると、市街地の方角に目を向ける。ふて腐れていた巽は、ちらりとそんなヴァルーを横目で窺う。丁度ヴァルーと目が合った。竜は顔を背けようとする巽の中に真っ直ぐ飛び込むと、身体を乗っ取り無理やり立たせた。
(何するんだよヴァルー!)
「うるせえ。カルチャーが出たんだよ。ずっと退屈だったんだ。この機会を逃してたまるか!」
言い放つと、ヴァルーは瞬く間に巽の身体に竜の鎧を纏わせる。膝を曲げ伸ばし、準備を整えた彼は真っ直ぐに市街地へ向けて駆け出した。塀を跳び越え、屋根を跳び移り、人々が叫ぶのも構わず、遠くに見える神凪シティタワーを目指して走り続ける。意識の片隅に追いやられた巽は、滾々と湧く泉の縁に腰掛け、イライラと拳を闇の中に打ち付けた。
(何なんだ……君は勝手ばっかり)
市街地の南にあるショッピングモール。吹き抜けになったアトリウムが美しいその施設は、平日でも観光客で賑わっている。それだけに、突然怪物などが現れたりすれば、それはもう阿鼻叫喚の騒ぎとなる。パニックになった客達が、放射状の通路を必死に逃げ回っていた。
「壊せ! 俺達の存在を世界に焼きつけろ!」
悲鳴と足音、警鈴が響き渡る白い店並み。棍棒を引っさげた、しわくちゃで醜い外見のいかにもな小鬼達はそこを闊歩し、集団で店を叩き壊しにかかっていた。宝石の飾られたショーケースを叩き割り、服を引きちぎり、逃げ遅れた人々を寄ってたかって打ちのめす。警棒を握りしめた警備員達が応戦しようとするが、強面にビビったか、それともゴブリンの力が強いのか、警棒をへし折られた上袋叩きに合ってしまう。とても手に負えなかった。
ボロボロの一人を足蹴にし、木製の冠を頭に掲げた一体が、嵐の過ぎた跡のような景色を見渡し誇らしげに叫ぶ。
「さぁ、どんどん行くぞ。人間共に、俺達は誇り高き雑魚であることを思い知らせてやるのだ!」
「ウィーッ!」
金切り声で叫び、隊列を組み直したゴブリン達は再び店の隅々まで散開しようと走り出した。
その後姿を汚い歯をむき出しにして見送っていた首領だったが、いきなりその頭上に影が差し込む。
「ったく、調子乗ってんなてめえらは!」
「誰だ!」
顔を上げると、ただでさえしわだらけな土気色の顔を更に歪めて天井を見上げる。アトリウムの骨組みに立つ黒い影はいきなり飛び降り、紅い一筋の光を曳いて目の前にすとんと降り立った。竜の頭を模した兜の奥に、真紅の双眸が光る。肩には爪を模した棘が鋭くそびえる。疾風のように現れ衆人環視の中ゾンビと死神を叩き潰した竜の怪人が、今日も颯爽と姿を現したのだ。興を削がれたゴブリンは、腹立たしげに棍棒を握りしめる。
「誰だ、てめえは……?」
「悪いが、雑魚に名乗る名はねえな」
「ざ、雑魚ぉ? てめえ、ふざけんなよ!」
早速雑魚呼ばわりされた首領は、格好付けて指差し決める竜人に向かって飛びかかった。しかし何の事はなく、当て身一つで階段の踊り場まで突き飛ばされてしまった。頭を打ってふらふらしている首領を見上げ、ヴァルーは溜め息をつく。
「自分で雑魚って言ってたろうが」
「く、くっそぉ」
(何なんだ。格好つけて)
今日一日の件で気が立っている巽は、舌打ちしてヴァルーの振る舞いを傍観していた。先日のゾンビに比べれば、さしたる恐ろしさも感じない。むしろ、このままヴァルーに好き勝手暴れられる方が癪だった。
(これは僕の身体だ。このまま我が物顔で振る舞われるなんて、認められないな!)
「あ?」
独り言気味に叫び、巽は勢い良く立ち上がる。そんな彼の様子を感じ取ったヴァルーはわらわらと集まってくるゴブリンの軍勢を見渡しながら首を傾げる。その瞬間だった。
(返すんだ、僕の身体を!)
「はあ? ちょっと待て――」
ヴァルーは不意に意識の泉にその身を叩きつけられた。瞬間、その双眸から紅の光が消える。自分の身体を取り戻した巽は、籠手の嵌まりを整えながら、真っ直ぐにゴブリンの軍勢を一瞥した。
「何だ? さっきと雰囲気が違うな」
首領が首を傾げて竜人の様子を窺う。巽はそばに落ちていたハンガーラックのパイプを手に取ると、八相に構えてゴブリンを睨みつけた。
「覚悟したまえ……僕は今、無性に腹が立っている」
(おい、何してんだよお前!)
意識の奥から騒ぎ立てるヴァルーだったが、怒り心頭に発した彼から身体の主導権をもぎ取ることなど出来なかった。パイプを竜爪模した片手剣に変えた巽は、そんなヴァルーを鼻で笑う。
「何だ。僕の楽しみを散々邪魔したのは君の方だろう。だから僕も、君の代わりにこいつらを叩きのめす!」
(本気かよ……)
ヴァルーは面倒な事をしたと思った。惚れた女に言い寄ることも出来ない脆弱な男が激昂したところで、何の力にもならないと思った。せいぜいボコボコにされる前に身体の主導権を渡してくれればそれでいい。舌打ちして彼を見守る。
(生意気言いやがって。だったら、やってみろ――)
「はぁっ!」
跳びかかってきたゴブリンを一刀のもと斬り伏せる。土塊へ還ったその肉体を踏んで巽が跳び上がると、襲いかかった三体のゴブリンは勢い余って衝突する。彼らがふらついたところを薙ぎ払い、新たに突っ込んできた二体を正拳突きと回し蹴りで吹き飛ばした。十数体はいたゴブリンの群れが、見る見るうちに減っていく。
(嘘だろ?)
ヴァルーは思わず呟く。巽は短く気合を放ちながら、無駄の無い動きでゴブリンの一撃を透かし、反対に斬って捨てる。俊敏に動き回る彼にはどんな攻撃も届かない。舌を巻くしか無かった。
「こんちくしょう! 俺達は俺達の存在をここに刻みつけないとならないのに!」
とうとう一人になってしまったゴブリンの首領が、甲高い声できいきい喚く。片耳を押さえつつ、巽はゴブリンを睨んだ。
「何を言ってるんだ? この前のゾンビといい、お前らといい。いったい目的は何なんだ」
「俺達はこのままじゃ忘れられる。たかがゲームの雑魚キャラだからな! 忘れられたらこの世界から跡形もなく消えちまう……だから刻みこんでやるんだよ! 恐怖で、実力で! 俺達の存在を永遠にお前らの脳みそに刷り込んでやるんだよ!」
ゴブリンは必死の形相で叫ぶ。剣を片手でくるくる回しながら、巽はぐちゃぐちゃになったモールを見渡す。人々の活気に満ちた空間が、ひどいものだった。巽は溜め息をつくと、剣を構えてゴブリンに切っ先をピタリと向ける。
「勝手なことを言う……そのためにこんなことをしたのか」
「そうだ! いかにも、俺達みたいな奴にはぴったりなやり方だろ!」
「ああそうだね。……じゃあ、やられるところまで君ららしくいてくれたまえ」
優しい奴ほど怒ると怖い。殺気立つ巽を前に、思わず首領は震え上がってしまった。しかしじっとしていても斬られるだけだ。へっぴり腰のまま、ゴブリンはちょろちょろと飛び出した。
「そ、それはゴメンだ! ゴメンだぁ!」
「はぁっ!」
しかし巽は非情だった。ゴブリンの構えた棍棒を叩き落とすと、がら空きの身体を思い切り袈裟斬りにする。無様に四肢をバタバタさせ、白いタイル床へ投げ出されるゴブリン。肩からバッサリと刻みつけられた傷口が白熱し、小さな目を真ん丸に見開いて呻く。
「いやだあ。忘れられたくない。消えたくないい!」
「心配しなくても、お前らは消えたりしないさ。やられ役として扱ってもらえるうちは、きっと」
「そ、それもやっぱりいやだあっ!」
傷口が激しく燃え上がり、一気に小さな爆発を起こす。ゴブリンだった土くれも燃え上がり、好き放題に乱された店の傷跡だけを残して消えていく。陽炎が揺らめき、立ち尽くす竜人の姿を怪しく包む。
「う、動くな。止まれ」
背後から拡声器越しに声が聞こえる。振り向けば、通路の向こう側に、ジュラルミンの盾を構えた機動隊達が、銃を構えてじっと二人を窺っていた。巽は肩を竦めると、片手剣を床に捨てて諸手を掲げる。
「答えろ。一体お前は何者なんだ。そもそも、人間なのか」
「僕にもわかりません。何だかわからないうちにこうなったので」
嘘ではなかった。刺々しい外見や怪物達への激しい振る舞いに反する穏やかな態度に、やや警戒を解いた警察達は銃を下ろす。
「なら一つだけ答えてくれ。お前を、味方と見ていいのか?」
「ええ。少なくとも僕は、ですが」
くすりと笑うと、巽はくるりと身を翻して駆け出す。その後姿を、人々は黙して見つめる他なかった。
(……ちっ。予想してなかったぜ。お前がそこまでやるなんて)
舌打ち交じりにヴァルーが呟く。ベンチに腰掛けて噴水を見つめる巽は、一通り暴れてすっきりしたらしい。いつもの鷹揚な調子に戻って頷いた。
(まあ。喧嘩は出来るけどやらないだけさ。君と違って)
(ああ? 馬鹿にしてんのか……)
噛み付くヴァルーの声は、朝よりも萎れていた。これが噂の草食系かと侮っていたらこの様だ。ヴァルーは落ち込むしかなかった。反対に今日の勝利を確信した巽は、にやにや笑ってヴァルーをせっつく。
(いやいや。でも、あんまり僕に悪戯するようだったら。今後とも憶えておくといい)
(くそっ。人間のくせに天下の竜を脅しやがって)
負け惜しみしか出て来ない。戦いがしたくて現実世界に現れたはずなのに、身体の中でボケっとしてるだけでは意味がなかった。丸くうずくまり、ヴァルーは舌をべっと出す。
(わかったよ。それなりに考えといてやる)
「そうそう、素直が肝心だよ。……はあ」
巽は溜め息をつく。ストレスは晴らしても、結局肝心な問題は解決されていない。乾にこれから何と言って謝ればいいのだろう。素直にヴァルーを引っ張り出して、こいつがやったんですと言えばいいのだろうか。巽は自問する。しかしヴァルーとの関係性は無闇に明らかにするものでもないような気がしていた。
ビルの狭間に、白樺並木の向こうに夕陽が沈んでいく。街が燃えるように紅く染まる。乾は落ち込んだ時、いつもこの景色を見つめてやる気を取り戻していた。その姿に巽も元気を分けてもらったものだが、一人で見つめていては元気になれなかった。
「どうすればいいのか……」
一人呟いた時、不意にポケットで携帯が震える。画面を見つめた巽は、思わずびくりと震えてしまった。白峰乾。まさに彼女の名前だ。
「い、乾、ちゃん……?」
消えていた噴水が再び大きな音を立てて噴き上がる。その音にさえびくついた巽は、携帯を前に何度も深呼吸をして、震える指で応答マークを押した。
「ご、ごめん乾ちゃん。あ、あれは。本当に、魔が差して……」
携帯を耳に押し当てた巽は、つい一時間前に怪物を伸したとは思えないほど情けない声で乾に弁解する。ヴァルーがけらけら笑っていたが、気にする余裕すらなかった。携帯の向こうでも、乾が低く低く溜め息をついている。
「もう。嘘でしょ。そんなの」
「う、嘘じゃないよ。そんな、僕は、君の事を困らせたいとか、泣かせてみたいとか、そんな事、絶対に思わない……」
乾の糾弾を恐れるあまり、片言じみた口調でぼそぼそと呟く巽。そんな彼の様子に、乾はくすくす笑いが止まらなくなってしまった。その笑い声さえ怖くなり、巽は声を上ずらせる。
「な、何で笑うんだい?」
「わかってるよ。巽くんはいつも優しいから。……だから、嘘なんでしょ。別に気にしてないから、巽くんも、そんなビビらないでよ」
「え? あ……うん。すまない……」
「それじゃ。また明日大学でね」
電話は切れてしまった。速い風がさっと彼の髪を撫でて通り過ぎていく。余りにもあっさりで、力が抜けた巽は再びふらふらとベンチに崩れ落ちる。
(良かったじゃねえか。赦してもらえて。普段の行いの賜だな)
「君には……言われたくないな」
ぼんやりしたまま、巽は夕闇へ消える空のカラスを見つめている事しか出来なかった。
その時、巽はまだ気付いていなかった。乾は既に、確信めいた考えを抱いていたことに。